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05 第2章 カツオノエボシ(3)Squall

昨日、気象庁は、関東甲信地方で平年より1週間ほど早く梅雨入りした(とみられる)と発表。その後、停滞する前線の活動が活発化した影響で、スコールのような強風を伴う激しい雨が、各地で断続的に降り続いていた。

「夕方から雨が強く降るみたい。お散歩に行くなら早めの時間帯がいいわね。」かおりが朝食の後片付けをしながら言った。
「そうだな……。」
窓の外、どんよりした空を眺めながら僕は曖昧な返事をした。

石崎に、海での出来事を話した日から、彼女のことが頭から離れなくなっていた。

――毎週水曜のこの時間は、ここで海を眺めている――

この数日、僕は自分がついた小さな嘘に振り回されていた。

あの日、なぜあんな嘘をついてしまったのか自分では気づかずにいたけれど、無意識に僕は、またあの海で彼女に会えることを期待していたのかもしれない。

夏が連れてきたイレギュラーな出会いは、僕を不安にさせるばかりか
その不安は僅かな恐怖心まで連れ立って、今までに経験したことのない感情を僕に教えようとしていた。

(大人になって身に着けられる)自分を守る唯一の方法は、臆病であることだと自分に言い聞かせてみても、もう一つの感情が僕を捕えて離さなかった。

今日を逃せば、もう二度と彼女には会えないかもしれないという喪失の予感。

午後になっても、何度も窓の外を気にしている僕に、かおりが言った。
「お散歩、今ならまだ行けるんじゃない?」

人の行動パターンには、達成することや獲得することに意識が向く目的志向型と、直面する問題や不安を解消することに意識が向く問題回避型があるらしい。今までの僕は、完全に後者の方だった。

そして、これからも――

「やっぱり、今日の散歩はやめて家でのんびりするよ。」
「そう?じゃあ、カモミールティーでも淹れる?それともコーヒーの方がいいかしら。」
「コーヒーがいいな。」

この時、覚醒作用があるコーヒーより、不安やイライラを和らげ、リラックス効果のあるカモミールティーを選んでいたなら、未来は変わらずにいたのだろうか――

******

夕方近く、予報通りに雨が降り出した。
僕の心を試すかのように、リビングのトップライトに打ち付ける雨音が、徐々に強く激しくなっていく。

瞼を閉じて彼女から意識を反らそうとした。僕は、この部屋に留まることを選んだのだ。

今までにも、友人、恋愛関係、仕事仲間、その他にも幾多の出会いと別れを経験してきた。
その多くは、相手を知り、関係を構築する間もなく通り過ぎて行く。
彼女もその中の一人でしかなかったはずなのに、なぜ彼女だけが僕の心から離れていかないのだろう。
季節の思い出たちを語り合っているうちに、秘密を共有している大切な仲間になった錯覚に陥ってしまったのだろうか――。

「やっぱり、ちょっと出てくる。」
「えっ、今から?」
「すぐに戻るよ。」

こんな雨の中、彼女が海にいるはずがない。
それでも、確かめずにはいられなかった。

海へと僕は走った。
大人になって、こんなに必死に走ったことがあっただろうか――

益々強くなっていく雨風に、傘は自らの使命を放棄したようだ。
全身ずぶ濡れになりながら、いつもの細い路地を突っ切って、海に出た。

******

抽象画のような灰色の階層を纏った空から大粒の雨が降り注いでいる。
水滴のベールで霞んだ景色の中、色鮮やかな赤い傘が目に飛び込んで来た。
傘の主は紛れもなく彼女だ。僕に気づいて小さく手を振っている。

彼女に向かって走り出しそうになる気持ちを必死に抑えながら、ゆっくりと濡れた砂の上を踏み締めるように歩き、落ち着けと自分に言い聞かせた。

先ほどまでの不安と迷いは、僕を追い越していく風が連れ去っていた。
どんな表情で、どんな話をすればいいのか、考えもつかないまま、彼女まであと数歩の距離まで来ていた。

「遅かったですね。」
「ごめん……」

――毎週水曜のこの時間は、ここで海を眺めている――

あの言葉は、僕たちに”沈黙の約束”を結ばせたのかもしれない。

「あ、そんなつもりじゃ……謝らないでください。私が勝手に待っていただけだから……。こんな雨の中、今日は来ないかもって……迷ったけど、待っていて良かったです。」彼女は少しはにかむように言った。

静かな緊張感が漂う中、その言葉に対する気の利いた答えを、僕は必死に探したけれど、見つけられない。

――僕も同じことを考えていた。約束をしたわけじゃないし、こんな雨の中、君が海にいるわけがないと思ったけれど、来て良かった――

それだけでも伝えられたら――。君はどんな顔をするだろう。
もちろん想像するだけで、言葉にできるはずもない。

無言で立ち尽くしている自分に呆れるしかなかった。

「あの……覚えてますか?」彼女は不安そうに言った。

「もちろん覚えてる。」彼女の表情がほっとしたように緩んだ。

「良かった。もしかしたらあまり覚えてないのかなって……
じゃあ、名前は?」

「名前?君の名前は、聞いていなかったと思うんだけど、僕の記憶違いかな…….」

「――あの日、ここで出会った青く透き通るクラゲの名前……。」
気のせいか、彼女が答えるのに少し間が空いたように感じた。

「ああ……えっと、カツオが……何だっけ?」
会話が嚙み合っていなかったことに焦り、先週聞いたばかりの名前を
僕は思い出せずにいた。

「カツオノエボシ。」
「カツオノエボシ……そうだったね。君はクラゲに詳しいみたいだけど、クラゲが好きなの?」

随分前のことになるが、クラゲの浮遊感が癒しになって、人気に火が点いていると雑誌か何かの記事で読んだことがある。

「クラゲというか、海の生き物全般好きなんです。水族館で働いているくらい……」
「水族館?この近くにも水族館があるけど……」
僕は、家族で何度も行ったことのある藤島水族館を思い浮かべていた。

「そうです。この近くの藤島水族館で働いています。」

「――道理で……。どこかで会ったような気がしていたんだ。藤島水族館なら何度も行ったことがあるから……どこだろう……もしかしてチケット売り場で働いてる?」

少しの沈黙の後、彼女は答えた。
「私は学芸員なので、チケット売り場にはいません。」

「学芸員?――じゃ……水槽前で説明したり……する?」

「そういう日もありますね。」

彼女は、何とも言えない微妙な表情をしていたが、すぐに元通りの笑顔になった。

「ところで――季節はいつが好きですか?」

「また(その話)?」
つい、笑ってしまったが、彼女は、あの日と同じ真剣な眼差しをしていた。
あの日と違ったのは、僕が目を逸らさずにいられたことだ。

「何度だって訊きますよ。一週間も経てば人は変わるから。」

「――どの季節が好きって、言ってほしいの?」
彼女は、僕のその問いには答えなかった。

「先週、この海で私が話したことを覚えてますか?」
彼女が少し拗ねているように見えるのは僕の勘違いだろうか。

「大体は覚えているつもりだけど……」

「例えば?」

「子供の頃、近所に同じ年頃の子供がいなくて、お隣りで飼っていた犬と兄弟みたいにして遊んだこと?夏には家の軒先に家庭用プールを出して水遊びをしたこと……」

雨が容赦なく傘を打ち付ける音で、お互いの声が聞き取りづらい。
思い出の答え合わせをしているうちに、僕たちは肩が触れ合う距離まで近づいていた。

「まだ名前を言ってなかったですね。私は、川島由梨です。」
彼女はそう言って、濡れた砂の上に自分の指で”川島由梨”と書いた。

「僕は、藤野優一。」
彼女の名前の横に、”藤野優一”と書いた。

先ほどまでの大粒の雨を降らせていた分厚い雲が、早送りをしている映像のように、勢いよく北へ流れて行く。

「――今日は見られないと思っていたのに……」
「なに?」
「マジックアワー」
「マジックアワー?」
「昼と夜が境界線を越えて交じり合う時間。」

無邪気に喜んでいる彼女の横顔がオレンジ色に染まっていく。

来週も、僕は君とこの海で会っているのだろうか。
予測不可能な未来が、また僕の不安を呼び覚ました。

晴れたら君はここに来る。雨なら来ない。
そんな風に、簡単に君の気持ちを知ることができたらいいのに――

子供の頃、遠足の前日には、てるてる坊主を窓辺に吊るした。
明日が晴天ハレになる魔法だ。

06 第2章 カツオノエボシ(4)雲の展覧会


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