本当の筆者紹介
今日はただ単純に私について語ってみたいと
思います。
以前このnoteで筆者紹介をしたのですが、
いつの間にかただ単純に推しを紹介するnoteに
なってしまいほぼ私については書かれていない
筆者紹介になってしまいました。
ということで、今日は「本当の筆者紹介」を
してみたいと思います。
私はどんな人物なのか…
私が生きてきた人生を少しお話しましょう。
私が願うのはこれを読んだ人の中で
私と同じような環境にいる人が少しでも
頑張ってみようと思ってくれることです。
では、「本当の筆者紹介」始めます。
まず最初に私の基本的なプロフィールを
書いてみたいと思います。
名前は「すず🐯」と言います。
これは本名ではありません。
私のペンネームみたいなものです。
性別は女です。8歳離れた妹がいます。
私はめちゃくちゃオタクです。
それに関してはその他のnoteにたくさん
書いているので今日は割愛します。
私の人生のお話をしましょうと言いながら
私はまだ少ししか人生を歩んでいません。
現在私は大学生です。そう、ただの大学生。
オタ活が大好きなそこら辺の大学生です。
大学では歯学部に所属しています。
将来は歯科医師として働くことが夢です。
私の基本的なプロフィールはこのくらい。
では、私の人生を振り返ってみましょう。
当たり前じゃない当たり前
私の家は正直言うと、少し特殊だと思います。
世間一般的には多分"普通"には分類されません。
私の父は外科医をしています。
私の母は看護師として働いていました。
今は専業主婦ですが…
父方の祖父は父と同じ医者で
父の兄弟は全員医者として働いています。
そう、私は典型的な医療一家に産まれました。
私は世間を理解し始めるまでこれが当たり前の
家庭だと思っていました。
だけど、成長していくうちに、それが違うということをようやく理解し始めて、自分が少し特殊な環境にいることを知りました。
私の中では当たり前だけど
人にとっては当たり前じゃない。
「そうか、私の家は少し特殊なんだ」
当たり前じゃない当たり前に気づいたのは
小学校高学年くらいの時だったと思います。
小さい頃の私にとっては医者なんてそんなに
すごい職業だと思っていなかったんです。
周りに医者ばかりだったから、
結構誰にでもなれる職業だと思っていました。
だけど、少しずつ世間を理解し始めた私は
それが間違いであることに気づきます。
「医者ってすごい職業と言われるの?」
「私の父は難しい職業に就いているのか。」
医者という存在の凄さを少しずつ理解し、
父の凄さを目の当たりにするようになります。
それが私の見えないプレッシャーとの戦いの
始まりだったのではないでしょうか。
今振り返ればそう思います。
アメリカへ
我が家は転勤族でした。
そして、父の仕事の影響で幼稚園の年長の時
アメリカへ引っ越すことになります。
約2年間私はアメリカで生活しました。
私の親はなかなかにスパルタで、
私を日本語学校などではなくて、現地の子達が
普通に通う普通の学校に放り込みました。
最初は良かった。
なんかお絵描きとかお菓子とか色々あって
すごい楽しいなあ、なんて思ってました。
だけど、少しずつ私は気づくのです。
「あれ、私の話す言葉が通じてない。」
そこからはもう地獄の中の地獄。
私はそこで初めて不登校になります。
私の人生、最初で最後の不登校。
毎日母に「行きたくない」と叫び、
無理やり連れてこられてはカウンセリングルームでカウンセリングの先生と一日を過しました。
そんな私をどうにかしようと私の父は必死で
私に英語を叩き込みました。
Iのあとにはamをつける。
Youのあとにはareをつける。
私は英語の基礎を毎日死ぬほど覚えました。
そんな父の努力のおかげで私は何とか友達と
話せるようにまでなりました。
日本に帰る前の私はなんの補助もなく英語で
人と日常会話をできるようになっていました。
なんなら、英語が苦手な母より聞き取ることも
話すこともうまかったと思います。
それが小学1年生の時の話です。
今振り返れば、もう少し滞在していたかったな
と思います。
そうすれば日本に帰ってきても日常会話くらいは
難なくできるようになっていたかなと思うので。
日本に帰ってきてからの方が長くなってしまった
今はもうほとんど話せません。
残っているのはリスニング力くらいです。
これは受験の時にすごく役立ったと思います。
私のひとつの目標はいつかもう一度
アメリカに住むことです。
もう一度あの環境を味わいたいから。
辛いこともあったけれど私の人生の中では
1番思い出深い時間だったと思います。
私の人生を語る上では欠かせない時間です。
だからこそもう一度味わってみたい。
私のひとつの夢です。
同じ道に進むこと
さて、アメリカから帰ってきた私はまた
何度かの引っ越しを挟み、小学3年生の時
ようやく永住が決定します。
それが今の私の地元です。
小学生の頃の私の夢は歌手でした。
単純に歌うことが好きだったから。
だけど、その夢はあくまで子供の頃の夢で
小学校高学年くらい、ちょうど私が自分の環境が普通でないと感じ始めた頃、
自分の将来について考え始めます。
その頃から私は少しずつ父と同じ医学の道に
興味を待ち始めました。
どこかで感じていたんです。
「なんだかんだ同じ道に進むんだろうなあ」と。
中学生の頃から私は将来の夢を聞かれると
「医者」と答えてきました。
それは父みたいに人を救う仕事がしたいという
気持ちの方が大きかったけれど、少なからず
「運命」みたいなものも感じていました。
さあ、そんな私に初めて大きな人生の決断を
する時が来ます。
中学3年生。高校受験です。
ずっと「医者になりたい」と言い続けていた私には選択肢はひとつしかありませんでした。
いわゆる私の地元で1番賢い高校に入ること。
先程からも言っているとおり、私の親はまあまあスパルタなので、1番賢い高校か2番目の高校
しか許さないからと言われ続けていました。
私自身も中学3年生になってようやく医者になる
ことの難しさを理解し始めました。
トップを目指すしかないんだ、と。
その現実を改めて突きつけられるのです。
結果からいえば私は2番目に賢い高校に
入りました。
ええ、1番は無理だったんです。
実力不足でした。
私は三者面談でそれを告げられた時、
「私の人生終わったなあ」と思いました。
1番の高校に入れなかったら、もう無理だ。
そう思っていたから。
だけど、たくさんの人が言ってくれた。
まだチャンスは沢山あるんだと。
だから私はまだ諦めないでいようと思いました。
そんな形で私の中学生活は幕を閉じます。
私が進むべき場所
高校生活はすごく楽しかったです。
友にも環境にも恵まれた3年間でした。
さあ、そんな私は高校生の時人生で初めて
本気で死にたいと思う日が来ます。
それについてはこのnoteで語っているので
良ければ読んでみてください。
そんなこんなと色んなことを感じながら
高校3年生、再び受験生になります。
さあ、本格的な将来の決定。
もちろん私は医学の道しか見ていませんでした。
入学当初からずっと言い続けました。
3年間その気持ちを変えたことはありません。
そこで疑問に思う方がいますよね?
そう、私は今歯学部に所属している。
医学部じゃないんかーい、と。
そのツッコミ正解です。
実を言うと私はずっと迷っていました。
医学と歯学。どちらに行くのか。
歯学に興味を持ったのは自分自身が患者として
たくさんお世話になったからです。
私はすごく歯並びが悪くて、小学3年生から
10年弱歯科矯正をしていました。
その中でたくさんの先生に出会って
たくさんのことを患者として味わってきました。
だからこそ私も自分と同じように苦しむ人を
助けたいなあと思う気持ちが強くなり、
歯学にも興味を持ち始めました。
ずっとずっと悩み続けていたある日、
私はある検査で採血をすることになったんです。
私、小さい頃から父に手術の話とかをたくさん
聞いてきたので、血とかは全然大丈夫なんです。
なんなら、手術映像とかを見るの大好きで…
まあまあ変人なんです。
だけど、痛いことは大嫌いで…
注射とか大の苦手なんです。
だからその日も本当に嫌でした。
いざしてみるとすごく怖かったんです。
その時初めて患者さんの気持ちを味わいました。
私は父が医者ということもあり、小さい頃から
病院に行ったことがほとんどありませんでした。
行くといっても、父の仕事を待つ時だけ。
入るのは病室ではなくて、待合室でもなくて
父の仕事のデスク。つまりは裏。
風邪をひけば父が診てくれて、
何もかもが家で済んでいました。
幸せなことに大きな怪我や病気になることもなく
健康に過ごしていたおかげで病院に入院したり、
怪我で手術をしたこともありません。
つまり、私は患者になったことがなかった。
採血をされた時、初めて恐怖を味わいました。
その時に初めて知ったんです。
「患者さんたちは恐怖と戦ってるんだな。」
「知らない人に治療されるってこんなにも怖いことなんだな。」
その時、私は初めて自分が医者として働く姿が
全く想像できなくなったんです。
医者になるとしたら私は父のように外科医に
なりたいと思っていました。
もし外科医になったら、私は患者さんに
「手術大丈夫ですからね、怖くないから。」
そう簡単に言ってしまうのではないか。
本当は沢山の恐怖がある中で戦う人に
軽々しい言葉を言ってしまうのではないか。
そう思うと、何も想像出来なくなったんです。
その変わり、歯科医師として働く自分が
鮮明に想像できるようになりました。
自分が患者だったからこそ、伝えられる言葉や
できることがあるんじゃないだろうか。
痛みも苦しみもしんどさも味わったことがある
からこそ、できることがあるんじゃないか。
私なら痛い治療をする患者さんに
「痛いよね、怖いよね、わかりますよ。
私もめちゃくちゃこの治療嫌だったんです。
でも、この治療頑張ったら、絶対に自信もって
笑えるくらい綺麗な歯並びになるんですよ。」
そう言ってあげることが出来る。
それが私の進むべき道は歯学だと、
決めた瞬間でした。
受験期は死ぬほどしんどかったです。
毎日自分に焦って、悩んで…
それなりに高いレベルを目指すからこそ
毎日本当に辞めたいと思ってました。
それでも私はやっぱりこの道しかないと
心の底から感じていました。
だからこそ最後まで貫いた。諦めなかった。
そして、今の私がいるんです。
厳しい環境にいること
ずっと言っていますが私の親はスパルタです。
世間一般的に見れば厳しい家庭だと思います。
その頃流行っていたDSはどれだけおねだりしても結局買って貰えなかったし、
中学生の頃みんながスマホを持ち始める頃、
私だけ絶対に買って貰えなかったし、
テストの結果は必ず見せないと怒られていたし、
点数が悪かったらめちゃくちゃ怒られたし、
高校生の頃、Twitterやインスタをすることは
禁止されていたし、
自分の部屋に携帯を持ち込むことは絶対に
許されていなかったし、
まあ、ここまで見てもわかる通り、
厳しい親ではあると思います。
もちろんそんな環境に嫌気がさしたことは
何度もあります。
なんで私だけ買って貰えないの。
なんで私はこんなに怒られなきゃ行けないの。
なんで私はこんなに制限されるの。
なんでも許してもらえる友達の家が死ぬほど
羨ましくて何回も自分の親を恨みました。
でも、今となっては感謝しています。
どれも今の私はそれで良かったと思えるので。
私の親は正しかったんだと思います。
厳しい家庭に生まれたことを恨んだ日もあるけど
今はそれでよかったと心の底から思います。
今の私がいるのはそれのおかげだと思うから。
推し
結局この話はしなければならないようです。
私はとことん推しを愛す日々を過ごしています。
でも、今考えれば私にとってはやっぱり
必要不可欠な存在だと思うんです。
私は褒められることがありませんでした。
なんだって当たり前だったから。
小学生の時、
テストで100点を取るのは当たり前。
100点じゃなかったら、怒られていました。
中学生の時、
80点以上取るのは当たり前。
70点台なんて信じられない。
「今日は80点以上取れた!褒められる!」
そうウキウキで帰った日でさえも父は
それが当たり前、と言いました。
中学生の時、初めて数学で100点をとった日。
今度こそ絶対に褒められるだろうと、
めちゃくちゃ楽しみにして自慢した日でさえ、
当たり前やろそんなもん、と言いました。
父は普通に天才です。
自分の親だからとかいうこと抜きに、
世間一般的に天才と呼ばれるんだと思います。
そういう場所に入学し、卒業し、そう言われる
職業に就いている人です。
だから、当たり前なんだと思う。
テストで100点をとることも、
いつだって上を目指すことも、
当たり前じゃなければならなかった。
それでも褒めて欲しかったんです。
1度くらい褒めて欲しかった。
私だって頑張ったんだよって、
私の頑張りを認めて欲しかった。
次こそは父に褒めてもらいたい。
私の中学時代の目標は順位をあげることより
その事の方が強かった。
それでも結局褒められたことはありません。
そんな私にとって推しは唯一自分の頑張りを
認めてくれる存在でした。
私にだけ向けられている言葉じゃないとしても
どんなときだって、推したちは
「今日もたくさん頑張った皆さん、僕たちの曲を聞いて元気出してくださいね」と言ってくれる。
妄想世界に浸ってんじゃねーよって思われるかもしれませんが、その頃の私にとってはそれが
すごくすごく嬉しくてたまらなかったんです。
「今日も頑張ったね。」
全国のファンに向けられているその言葉でさえ
推したちが伝えてくれるそれが嬉しかった。
だから私はいつも言うけれど、
推しは私の生きる理由なんです。
私の憧れの人
私は憧れの人を聞かれたら必ずこう答えます。
「私の父です」と。
私にとって父は永遠の憧れです。
先程も言ったように、父は天才です。
普通に賢くてすごい人。
小さい頃から父が働く姿を見てきたけれど
やっぱりそれがかっこよくて、すごくて、
だから私も同じ道に進みたいと思った。
結局私の原点は父なんです。
確かに私の父は厳しい人です。
特に勉強にはすごく厳しい人。
先程話したように、なんでも当たり前の人で
褒めてくれることなんて一切なかった。
だから、父と勉強するのは大嫌いでした。
「そんなことも出来んのか。」
「またそんな間違いばっかりする。」
父と勉強したら必ず怒られるから。
どれだけ頑張っても言い返されるから。
すごくすごく嫌だった。
それでも私の憧れはずっと父です。
父は天才だと言いましたが、
その天才さは全て努力の結晶なんです。
「パパはね、元から賢いわけじゃないの。
人一倍、努力家なだけなのよ。
人一倍努力したから今のパパがあるの。」
私の母はそう教えてくれました。
私の父はすごく努力家なんです。
だから、結局私はそんな父がすごくて仕方ない。
憧れで、そうなりたくて仕方ないんです。
歯学の道を選んだのはそっちの方が自分に
あっていると思ったから。
それは先程言った通りそうです。
でも、もう一つ理由があります。
私の家は典型的な医療一家だと言いました。
だけど、歯科医師は誰一人といないんです。
祖父も、父も、父の兄弟も、従兄弟も、
みんな医者や技師など医学の道を選びました。
だから、親戚で歯学の道を選んだのは私だけ。
それはある意味父への挑戦でもあるんです。
私は父に勝てたことがありません。
勉強も、知識も、頭の賢さも。
何一つ勝てることがなくて、それが悔しくて…
だから、歯のことだけは負けたくない。
歯学の道に進んで、歯のことを勉強して、
父の知らないことを極めたい。
そしたら勝てるんじゃないかって。
勉強も、知識も、頭の賢さも負けるけど、
歯の知識なら父にだって負けない。
そんな意地みたいなのもどこかにあったと
今振り返れば思います。
私って結構単純でしょ?笑
いつか父に言ってみたいんです。
「これはパパ知らないでしょ?
私は知ってるんだから!」って。
子供の意地っ張りのようで大人気ないけど、
私にとっては重要なこと。
少しくらいやり返してみたい。
そして、そうやって言えたら今度こそ
褒めて貰える気がするから。
「よく頑張ったな、すごいな。」って
憧れの父に行ってもらえる気がするから。
私の憧れの人は私の父です。
私の自慢の父です。
それは永遠に変わりません。
母に伝えたいこと
中学や高校の時必ず三者面談があります。
私の記憶の中で三者面談は泣いたことしか
ありません。
それは自分の成績が思った通りに行かないとか
そういう悔しさももちろんあるけれど、
それ以上に母に申し訳なくて泣いてしまう。
私の母はいつも先生に言っていました。
「この子が医者になりたいというのは、多分この子も分からないんだと思うんです。
周りに医者しかいなかったから、他の職業がどんなものなのか想像もつかないと思うんです。
だから、この職業を目指して見るしかなかった。
こういう環境にしてしまったことをすごく申し訳なく思っているんです。」
私はこれを聞くのがすごく嫌で悔しかった。
母もいつも感じていたんだと思います。
こういう特殊な環境にいることで私の将来を
狭めているんじゃないか、と。
確かに、それはそうでした。
私の親は「医者になりなさい」と言ったことは
ありません。
私がやりたいと思うことがあるならそれを
すればいい、というタイプでした。
でも、結局私はそう言われても分からなかった。
医者しか見たことがないから、他の職業がどんな楽しさがあるとか、かっこよさがあるとか…
何も想像がつかなかったんです。
だから、どこかで「同じ道に行くだろう」という
ことを感じていた。
でも、私は母にそれを申し訳ないと感じてほしくなかったんです。
確かに、厳しい家庭で嫌な時もあったけど、
私はここに生まれたことをすごく有難く思うし、
感謝しているから。
だから私の目標はもうひとつあります。
立派な歯科医師になって母に、
「私は自分の意思で、自分がなりたいと思ったから歯科医師になったんだよ。」と伝えたい。
「決してこの環境がそうさせたんじゃなくて、私がなりたかったからこの道を選んだんだ。」
そうはっきりと伝えたい。
そして、母にそんな想いを二度とさせない。
母も厳しい人だけれど、大好きな人。
私を支えてくれる大切な人です。
戦わなければならない闇
私にはある知り合いがいました。
1つ年下の男の子。
彼もまた、医療一家の息子でした。
でも彼はあまり勉強をするタイプではなくて、
彼自身も医者を目指していたわけではなかったと思います。
そんな彼は地元から遠く離れた寮のある
高校に入学しました。
それは親の考えだけで決められたことでした。
私は少なからず彼の気持ちが分かります。
同じ環境を生きてきた人間だから。
たとえ親に「好きな道を選べ」と言われていても
見えないプレッシャーは色んな所で感じます。
「親が医者だから、子供も医者になる」
「親が医者だから、子供も賢い」
世間からは勝手にそう言うレッテルが貼られる。
それは絶対に逃れられない見えない闇。
少なからず彼もそれと戦っていたはずです。
だからこそ沢山悩んだと思う。
これはあくまで私の推測でしかありませんが…
そんな彼が高校に入学して半年くらいの頃。
たまたま彼のLINEのアカウントを知りました。
何気なく見ていた彼のステータスメッセージ。
最後までスクロールしたら最後に書かれていた
のは彼の強い本心でした。
「高校やめたい」
ああ、なんで、なんでだろう。
なんで彼はこうも苦しまなければ
ならなかったんだろう。
私はそれを見た時、ただ辛かったです。
どうすることもできないのがまた悔しかった。
私もこの闇と戦ってきた1人ではあります。
確かに私は自分の意思でこの道を選んだけど
それでもどこかでこのプレッシャーとは
戦っていた気がします。
「お父さん医者なんだからどうせ賢い」
そう言われたこともあるし、
「やっぱり医者になるんでしょ?」
そう問われたこともあります。
それって、すごく悲しいんです。
親が医者だから賢くて当たり前。
そう言われるのは自分の努力した結果が
全く認められてないような気がする。
医者になるんでしょ?と問われることは
医者にならなければならないように思える。
普通の人にとっては普通に言ってるだけでも
私たちからすればすごく悲しくて辛いんです。
最初に言いました。
これを読んでいる人の中で
私と同じ環境にいる人がいるなら、
少しでも頑張ろうと思ってくれたら嬉しい、と。
もし、今このプレッシャーに押し潰されそうに
なっている人がいたら、どうか負けないで。
あなたはひとりじゃないです。
そのプレッシャーを感じてる人は他にもいます。
私だってその1人でした。
でも、結局は向き合うしかないんです。
その中で1番重要なのは自分を信じること。
自分の気持ちを絶対に曲げないで。
自分を信じてあげられるのは自分だけです。
だからずっと自分を信じてあげてください。
そしたら必ず来るんです。
そんなプレッシャーが気にならなくなる日が。
どうか負けないで。戦い続けて。
私に出来ることなんてないけれど、
私はここで応援しています。
そして、ここで伝えたいのはもう1つ。
周りの皆さん、どうか当たり前だと思わないで。
その単純な一言が誰かをすごく追い込むんです。
その人にはその人の人生があります。
それは家系がどうとかそんなこと関係ない。
世間の変なレッテルなんて関係ない。
その人自身が決めるものなんです。
私も苦しんだことは沢山あります。
でも、今私は幸せです。
この道を選んだことに1つも後悔はありません。
私みたいな人もいれば、違う人もいる。
人それぞれ違うんだからそれが当たり前。
それでいいんです。
でも、私は結構弱い人間だから。
実はこうやって人を励ますように書きながら
全部自分に向けてる言葉だったりする。
私だって今も戦い続けています。
だから一緒に頑張りましょう。
最後に
さあ、長くなってしまいました。
最後まで読んでくださった方、
ありがとうございます。
「本当の筆者紹介」いかがでしたでしょうか。
単純に私の人生を、私の感じてきたことを
書き出してみました。
これがもし誰かの救いになったらのなら
それはそれで嬉しいし、
誰かに響いたのならそれも嬉しいです。
別に何かにならなくとも、
ここまで読んでくださった方が1人でもいるなら
それで十分です。
私はこれからも歯科医師を目指して
日々勉強しなければと思っている
今日この頃です。
この道を選んだことは「運命」だと言いましたが、それでもいいかなとも思います。
私はこれが私の生きる道でよかったと
今思えているので。悔いはないです。
悔いのない人生を送る。
それだけでも十分な夢だと思うから。
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