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尹学準と法政大学 壮絶な密入国譚を持つ尹学準の生涯と朝鮮文学への志を訪ねる

2024/3/28発行 新歓号(1058号)

 在日朝鮮人の形成
在日朝鮮人の始まりを、我々は日本の朝鮮植民地支配に認めることができる。1910年の韓国併合当時2000人程度であった在日朝鮮人は、第一次世界大戦の戦争景気の最中の1920年には3万人を数え、1930年にはその10倍の30万人にまで達した。その背景には冒頭でも触れた通り、日本による朝鮮の植民地支配があった。第一次世界大戦を経て日中戦争、太平洋戦争へと突入していく中で、戦時資本は多くの低賃金肉体労働力を要求した。その労働力に充てられたのが、土地を奪われて窮乏化した朝鮮農民だったのである。1939年に日本国家は国民徴用令を朝鮮に適用することにより、朝鮮人の強制連行の制度を確立した。労務者として多くの朝鮮人青壮年が日本に連行され、太平洋戦争敗戦直後の1945年には、在日朝鮮人の数は240万人に達していた。日本が敗戦し植民地支配から解放された在日朝鮮人は帰国を試みたが、日本政府が引揚げに対し援護策をとらなかったことやGHQが持ち帰り財産を厳しく制限したことなどにより、日本に留まる在日朝鮮人も多かった。1946年12月まで帰国しなかった朝鮮人をGHQは日本に凍結し、この時残留した在日朝鮮人の子や孫が現在の在日朝鮮人を構成した。

 朝鮮戦争の勃発と尹学準
1950年に朝鮮戦争が勃発すると、日本国内では在日朝鮮統一戦線を作って反米・反吉田内閣・反李承晩活動をする派閥と、義勇兵を送って韓国を支援する民団派閥とに分断され、多くの在日朝鮮人は母国との繋がりを完全に失った。本学卒業生である尹学準(ユン・ハクチュン)が日本に渡航したのは、日本がそのような情勢にあった1953年のことであった。尹学準は1953年4月、釜山の多大浦から密航という形で日本に渡来した。渡航後佐賀県沖で拿捕され海上保安庁施設で取り調べを受けたが脱出。逃避行の末他人の外国人登録証明書を入手し自身の写真を貼ってなりすましに成功した。この壮絶な密入国の背景には、朝鮮戦争中朝鮮人民軍統治下において北側に協力した罪を問われそうになったことがあり、同時に彼のもっと本格的に学びたいという意欲があった。韓国ではなく日本において、より広い知見を得ることを彼は志したのである。

 尹学準の視線と民族運動
尹学準が法政大学に入学したのは1956年。明治大学法学部から、本学第二文学部日本文学科3年への編入であった。プロレタリア文学研究の第一人者小田切秀雄のゼミナールで日本近代文学を学びたいという思いが、彼の足を法政大学へと向けさせた。小田切秀雄は本学国文科卒の文学研究者であり、1965年には総長代行を務め本学名誉教授となっている。尹学準は小田切を師と仰ぎ、彼の指導の下で朝鮮におけるプロレタリア文学運動に関する卒業論文を執筆する。尹学準の問題意識は朝鮮のプロレタリア文学運動が日本経由の社会主義文芸理論を観念的に移植したに過ぎない未熟なものであった点に向き、朝鮮プロレタリア文学運動を現在の視点から批判的かつ内省的に検討したものであった。当時朝鮮が根本的には日本の意識的な支配から脱していないのではないかという問いが常に尹学準の念頭に在ったのかもしれない。

 朝鮮文学への大志
尹学準の意識は常に母国へと向き、在日本朝鮮人留学生同盟の幹部として活躍した。法政大学内では朝鮮文化研究会を主導し、機関誌として1957年から『学之光』を発行して執筆に精力的に取り組んだ。思想的には左派の立場をとった尹学準だったが、北朝鮮と朝鮮総連から批判を浴びていた金達寿を擁護するなど、教条的な文学理解や言論に対する権力の介入に対しては、自らの支持する国家や民族団体にも安易に靡かない姿勢を貫いた。朝鮮戦争中に日本に密航し、小田切教授に師事して朝鮮の民族運動に筆を武器に参戦した尹学準。彼は日本において朝鮮文学に積極的に関わり、翻訳や後進の育成に大きな成果を上げた。本学が国際文化学部を創設する際には専任教授として招かれ、2003年1月に69歳で他界するまで教鞭をとり続けた。現在本学市ヶ谷図書館には、尹学準が50年にわたる研究歴の中で収集した蔵書を収めた尹学準文庫が存在しており、彼の朝鮮文学への挑戦を今に伝えている。(飯田怜美)


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