日本社会が抱える小田原評定体質からの脱却
国家的停滞の根源を比較文明する
コロナウイルスによるパンデミック(以下コロナ禍と表記)に見舞われて一年以上が過ぎたにもかかわらず、一向に有効な政策を実行できず、混乱の中で右往左往する日本指導層の頼りなさは、一体何処に起因するのでしょうか?
この一年余の期間、コロナ禍に直面し大混乱の中でも、辛うじてその被害を最小限に食い止められていたのは、日本人が持つ誠実さと勤勉さ、健康意識の高さ、つまり道徳性によるところが大きく、政府や行政の強力なリーダシップによるものではなかったことは明らかです。勿論、久しく直面することのなかったこの社会的な危機に、政治や行政が有効な手だてを講じえなかったことは、決して賞められることではないですが、過剰に責められるべきことでもありません。なぜなら適切な対応をとる為に必要な経験や知識の不足が、その迷走を招いたことは当時としては仕方ないことであったからです。
しかし、だとしても、一年以上を経過して尚、昨年同様、危機意識を喧伝するに急いで、具体的且つ有効な政策の立案も、その展望も殆ど示されていない現状をみると、政治・行政の担当者、特にそのリーダーの資質に疑念が生ずることを禁じ得ないのではないでしょうか。
勿論、皆さん個人的には優れた方々であり、その専門領域や知識から、粉骨砕身努力しておられることは否定しないのですが。とはいえ、現実にはそれぞれの能力も、その努力も有効の機能していないようです。では何故、彼らはこの危機的状況に、有効な手だてを立てることに成功していないのでしょうか?
筆者は今回の状況を、秀吉という強大な的に責められて結果的に有効な対策を打てずに亡んだ北条政権の対応、世に言う「小田原評定」に通じるものを感じています。衆知のように、小田原評定とは、豊臣秀吉の小田原征伐に際して、北条氏政・氏直と家臣らがその対応を決められぬまま迷走し、ついに征服された故事を云うわけですが、まさに危機に対しての備えの欠落が、命取りになることを示しています。勿論、ここで大事なことは、北条氏政、氏直、その他重役達が、決して個人的な資質において劣っていたわけでは無いと云うことです。恐らく軍備にしても、力を結集すれば易々と秀吉に滅ぼされることは無かったはずです。にもかかわらず、戦わずして滅亡したその最大の原因は、何だったのでしょうか?
理由は色々あるでしょうが、その最大の要因の一つに、北条早雲以来、関東を平和裡に支配し、謂わば、パックス北条という成功体験を持っていたこと、さらにはその成功体験に固執し、そこから離脱できなかったことにある、と考えられます。誰しも、自らの成功体験を棄てて、新たな局面に立ち向かうことは、困難さが伴います。
しかし、迫り来る危機に対応し、それを乗り越えるためには、状況を広い視野で分析できる客観的思考、それを実効する勇気と決断力、そして実行力です。そしてそれを持たなければ、時代の求めに的確に応じることができず、取り残されてしまうことになります。この点で、現今のコロナ対策に失敗している日本の指導層はまさに「小田原評定」の北条氏の轍を踏んでいるということになるでしょう。
日本経済の凋落も現状維持体質による迷走から?
しかし、実はこのような危機、あるいは社会的激変への対応に、成功体験を棄てきれずに失敗、衰退した先例として、日本経済、特に日本経済の発展を支えてきた有名企業の凋落があります。嘗て、世界を席巻した日本企業の実質的な倒産劇は、危機の対応に即応できなかった企業の末路を象徴しており、非常に衝撃的な出来事でした。
これらの事例に共通する小田原評定現象を生み出す精神的な背景に、過去や既成の価値観に拘泥する保守的硬直性が挙げられます。勿論、それ自体は全否定されるべきことではありませんが、その弊害を理解する為に有効な教えが仏教にあります。それは「筏の喩え」という教えです。この教えは、深く人間の心を観察した仏教ならではのものです。つまり、人間は性として過去の成功体験に止まり、そこに無意識的にも執着し易いのですが、しかし、それが真の自己の発見、あるいは新たな自己の形成の大きな障害となる、ということを象徴的に表した教えです。つまり、過去に形成された自己に執着することは、激流を渡る為に有効であった筏を、対岸に渡り上陸してからも、後生大事に背負って歩くというようなものであり、新たな問題への対応には、寧ろ障害となると喩えたわけです。
更に云えば、この筏の喩えの中には、積極的に過去の成功体験にしがみつくだけでなく、無意識的に前例踏襲に止まり、結果的に現状維持に帰結することも含みます。つまり、危機に対して、大幅な改善や改革に消極的となり、結果危機対応の時期を逸することとなるということに気づかせようとすると教えです。というのもそもそも、危機とは既存の諸条件との断絶を意味しており、従来の価値観や常識が通じない状態を云うわけですから、従来の価値観や方法論による対応だけでは、有効な手だてが講じられないことは自明のことなのです。故に、この点に気付かず、従来の延長線上の対応をいくら講じても芳しい成果は、生まれないわけです。つまり、断絶を乗り越える飛躍が求められているのです。
では、どのようにしたら、この小田原評定的停滞から離脱できるのでしょうか?つまり、自己の立場や知見に執着し、硬直化する自己中心的な精神からの解放は、如何に可能なのでしょうか?これは永遠のテーマですが、一つ云えることは、自らの立場や考え方を他者の視点から客観的に見られる、大局的な見方を習得することです。その一つの方法として、嘗ての武士は、熱心に禅の瞑想に打ち込み、また茶道や剣道等の芸道に打ち込むことを通じて、硬直化し易い精神性を磨き、常に柔軟な精神の有りようや異なる領域の知識を学んだと云われています。いずれにしても、自己を相対化し客観化し、結果異なる視点から、自らの直面する問題を鳥瞰できる総合的な思考力を育むことが重要となるわけです。
しかし、現代の多忙な人々、特に本誌の読者の主流であるビジネスパーソンには、そのような時間はなかなかとれないでしょう。そこで、自己研鑽の方法として、幅広い知識を身につける、つまり高い教養を身につけるということが、有効な手段として考えられます。「何だ。教養か」と落胆する読者もあるかもしれませんが。実は、この教養軽視の思考こそ、日本社会の停滞を招いている大きな要因である、というのが筆者の考えです。
つまり、既得の知見というのは、即効性のあるもので、その技術や知識の偏重が、結果として過去に拘泥し、現状に対応を難しくしている原因、つまり個人の行動から国家の政策まで、硬直した思考形成し、その結果として変化に適合できず衰退、あるいは消滅していく運命を辿ることになる、ということです。なぜなら、現行の先端技術や、有効性はすぐに過去のものとなるからです。「基礎科学は、行くには役に立たないが、その中から将来有望な技術が生まれる」といわれますが、この基礎科学の重要性は、教養のそれと共通します。しかし、その知識が何時、何処でどのように役立つか常に、その実効性を問い、軽視してきたのが最近の日本の状況です。ノーベル賞受賞者の多くが、現在の日本政府が基礎科学、や教養の価値を軽視していることに警鐘を鳴らすのは、このためなのです。
とはいえ、既得の知識を再構築するような知識の習得は、そう簡単に実現するのでしょうか?これが問題です。そこで、一つの可能性として、比較文明学という学問を紹介しましょう。
いわば究極の一般教養とも云うべき比較文明学
この比較文明学は、人類のあらゆる知的な営みを有機的・総合的に理解しようとする壮大なスケールの学問です。とは云っても、この学問は比較的新しい学問で、未だに進化の途中にあります。この学問の特徴は、従来の学問が人類史の各領域を文節化、つまり小さく区切り、単純化(純粋化)して理解しようとするのに対して、逆方向、つまり対象を連続化、総合化し、パターン化しつつ総合的に理解しようとする学問です。その特徴は、人文科学、社会科学、自然科学に加え医学、工学などのあらゆる領域を、人類の知的営みのとして総合的な視点から体系化し、鳥瞰することを目指す学問です。その代表は、比較文明学の先駆者であるアーノルド・トインビーです。彼の『歴史の研究』は、和訳全25巻というものでした。尤も、これは余りに浩瀚ですが、最近、世界的なベストセラーとなったハラリ氏の『サピエンス全史』などは、僅か上下二冊で人類文明の全史を語るというかなりの冒険的な書物ですが、立派な比較文明書物といえます。因みに、比較文明学の世界的な権威である伊東俊太郎博士の『比較文明』(UP選書)は、比較文明学のバイブル的存在です。
これらの書物から学べることは、自己の存在に至る壮大な人類の歴史、特に文明化して以後の人類の歴史を総合的且つ体系的に捉えることができるという点です。しかも、多様な領域からの視点が提供され、自己が直面する諸問題を歴史の中に相対化できるという点です。
この比較文明学的な視点を身につけることで、我々が直面する最先端の問題が、実はそれぞれの時代に、我々の祖先が直面した諸問題に還元できることになります。そうすると、問題への認識も多様化でき、柔軟な対応が可能となるわけです。
例えば、よく言われることですが、現在のコロナ禍の諸問題も、スペイン風との比較を通じて相対化できるわけで、その総合的な分析から有効な対処法もおのずと見えてくるわけです。
少なくとも、歴史上コロナ禍のような深刻な疫病の流行はしばしばあり、人類はそれを乗り越えて現代に至っているという事実に気付く冷静さを持つことで、その有効な対応策が見えてくるのではないでしょうか?そのための総合的な知見の構築に、比較文明学が有効であると、筆者は考えています。
何れにしても、危機に直面し小田原評定的な堂々巡りを繰り返す知的硬直化の悪循環からの離脱には、比較文明学の提示する広く、高い知見が有効であると筆者は考えます。
執筆:保坂俊司