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或る競争馬の余生 ~ 熊本阿蘇の養老牧場より


南阿蘇のファームサンクチュアリ オープンセサミ(命紡・復活プロジェクト)FBより


この一頭の元競走馬が亡くなる3日前、私は久しぶりに息子と佐賀競馬に行った。
馬券は買うが、それは馬たちの「餌代」のごく一部になるかどうかという些細な額。
私は、馬の匂いが懐かしくて、競馬の闇は知りつつも競馬場へ行く。

昨年2023年の春に、やっと訪れることができた熊本・阿蘇の養老牧場からフェイスブックに投稿された記事を、ぜひ多くの方に読んで頂きたく紹介する。

『ガーデンの馬生について①』
9月25日に、サラブレッドのガーデンが旅立ちました。
たくさんの方にガーデンがどんな馬生を送ってきたか知っていただきたいと思い、ガーデンについて書きます。
今から約13年前の2011年12月23日。
熊本県の荒尾競馬の廃止に伴い、沢山の競走馬たちの廃棄処分と、人間のリストラが決定し、ももさんと当時のスタッフたちは『命紡・復活プロジェクト』を立ち上げ、沢山の馬たちを助け出しました。
当時、生きて荒尾競馬場を出た競走馬たちは約600頭。全てではありませんでしたが、約9割の馬が次の馬生をいきるための道を繋ぎました。
当時オープンセサミに来た馬は3頭。
そのときの馬たち、人たちの運命の分かれ道に、ガーデンもいました。
北海道でツルマルボーイとアナタゴノミを父母にもち、競走馬として生まれたガーデン。3歳で中央競馬デビュー。京都から荒尾競馬に移り、最後の佐賀競馬場で走った約2年間で51戦も走っていました。
通常地方競馬では、馬の体調を整えながら2週間から1ヶ月のインターバルをあけて出場しますが、ガーデンの出馬ピッチは約1週間~10日。毎週レースで走っていたことになります。
なぜこんなピッチで出馬しなければならなかったのか。
競馬馬は、着をとらなくても、出馬するだけで出走手当てというものが出ます。ガーデンは、自分の預託料を稼ぐために、毎週のように走らされていました。走らなければ、ごはんをもらうこともできなかったのです。
荒尾競馬場の運命の分かれ道からガーデンは佐賀競馬場に移籍しました。当時ガーデンは4歳。まだまだ走れるはずでした。

『ガーデンの馬生について②』
佐賀競馬場に移ってから、ガーデンは2回レースにでていますが、その2回目のレース前に、ガーデンの後ろ脚は骨折していました。それでもそのレースに出されたのは、レース中に事故にあったことにすれば、見舞い金が出るからです。
痛い脚を引きづりながら、一位から8秒以上遅れてゴール。タイムアウトでゴールしたガーデンに待ち受けていたのは、走れなくなったら処分という残酷な現実でした。
そのとき、ガーデンのレースを見守っていた女性がいました。ガーデンやその血統が好きな女性です。
荒尾競馬場にいたときからずっと見てきたガーデンの走りをみて、すぐにおかしいと気づいたそうです。
レース後、その女性が自分がガーデンを買い取ると言わなければ、ガーデンはその後の命を繋ぐことはできませんでした。
そうしてその女性に買い取られたガーデンは、その悪魔のようなレースを最後に競走馬を引退し、セサミへとやってきました。
普通、馬の脚が骨折すると完治するまでにはかなりの時間や治療が必要となり、骨折が原因で処分されてしまうことも多々ありますが、ガーデンはセサミに来てからももさんの手当てを受けて、普通に暮らせるようになりました。

『ガーデンの馬生について③』
荒尾競馬場の廃止、佐賀競馬場での待遇により人間不信になっていたガーデンは、セサミに来てからも、人に噛みついたり襲ったりしていました。暴れてあぶないので、ももさんやスタッフたちもなかなか近づけなかった程です。
そんな暴れん坊だったガーデンに人間との付き合い方を教えたのは今隣のエリアにいるポニーの空でした。
ある日たまたま馬場からの脱走に成功した空は、ガーデン目掛けてガーデンのいる馬場に飛び込んでいきました。
ももさんは、「空が殺られた!」と瞬間的に思ったそうです。しかしそれは間違いだったとすぐに気づきました。
ポニーの空が、自分の身体の何倍もあるガーデンの脚を噛んで転がしたのです。その上、ガーデンに馬乗りになった空は、その後もガーデンに殴る噛むの攻撃を続け、完全に戦意を失って敗けを認めたガーデンはそれから空の子分として過ごしました。
空から人との関わり方を学んだガーデンは、それから人を攻撃することもなくなりました。大好物のバナナやリンゴ、人参をもらって撫でてもらったり、おなじエリアのキリと遊びながら穏やかな時間を過ごしていました。

『ガーデンの馬生④』
「ガーデンは私の誇りだった」
13年前、荒尾競馬場から馬たちを助け出したとき、ももさんは沢山の関係者からバッシングを受けました。
荒尾競馬が廃止になるとき、競馬場から馬を引き取る側は、馬を引き取るときに発生する引き取り賃と、その引き取った馬を売ることで二重にお金が入るはずでした。
そのお金が入るはずだった600頭余りの馬を、ももさんたちが命を助けるために無償で譲り受け、他の競馬場や乗馬クラブ、余生馬牧場や里親希望の個人宅などに振り分けてしまったからです。
ネット上には、「セサミに行った馬たちは1年程で肉屋に売られていなくなる」などと言われ、ここでは書けませんが、実際に電話やセサミに来て嫌がらせを受けたり、SNSで根も葉もない話を流されたりしました。
心が折れそうになったとき、支えとなったのは荒尾競馬から救いだしたガーデンたちでした。
辛いとき、目の前にいる馬が元気で生きてくれている。それだけで、ももさんの気持ちは奮い立ったといいます。
最終的にガーデンを含む4頭のサラブレッドたちがセサミにきましたが、その最後の生き残りがガーデンでした。
「ガーデンが生きてくれているだけで私は支えられていた」
辛いとき、悔しいとき、ももさんのそばにはいつもガーデンがいた。ガーデンは頑張るももさんをいつも見守り支えてくれていました。

『ガーデンの馬生⑤』
馬場に倒れてから3日目の朝も、ガーデンの目はあきらめていませんでした。
前夜に先生が診てくださったときも、リハビリが効けばまた歩けるようになるかもしれないと、その夜は寝藁をみんなで敷いてその上にガーデンの身体を休ませました。
翌朝、集まったみんなでガーデンを起こそうとしましたが、ガーデンは起き上がることができなくなっていました。先生が言われるには、血栓が脳に飛んでしまったのではいかとのことでした。
ガーデンは手足をバタつかせて、「まだ起きる!まだまだ生きる!」といってるようにみえました。でも少しずつ呼吸が荒くなり、ももさんが「ガーデン、もう頑張らなくていいよ。私は大丈夫だから」と横たわるガーデンの額を撫でながら言うと、大きくブルルーと一回息を吐いたガーデンは、そのまま静かに身体を離れていきました。
ガーデンはきっと、自分が守らなければという揺るがない愛情をももさんに与え続けていたのだと、そのとき感じました。
競走馬を引退してから13年。ガーデンは18歳になっていました。
若々しくいつまでも子供みたいに見えていたけど、人でいえば73歳くらいです。
競走馬として生まれ、馬主さんのために走り、自分が生きるために短いピッチで命を削りながら走っていたガーデン。
骨折して痛みを堪えながら走り、心ある人に助けられセサミにやってきた。
こんな悲しい思いをしている馬たちが今も沢山いるなかで、ガーデンは確かな愛を知り、愛を与える馬になった。

南阿蘇のファームサンクチュアリ オープンセサミ(命紡・復活プロジェクト)FB



佐賀競馬に幾度か通ったことがあるのだが、恥ずかしながら、出走手当や出走ピッチ、そして見舞金のことを何も知らなかった。

その「悪魔のようなレース」を見ていて脚の状態に気づき、事故後買い取ったという女性がいなければ、この競走馬は南阿蘇の地で天寿をまっとうすることなど出来ず、さっさと殺処分されていただろう。
私と家族は昨年春、このガーデンに会うことが出来、一本ではあるがバナナを食べさせることができたことがせめてもの救いであり、ガーデンとのたった一度のわずかな「繋がり」であった。
ガーデン、安らかにね。そして、ひん太にも会ってやってね!


私が撮影したガーデンと空さん(2023年3月29日水曜日)




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