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追悼 八代 亜紀さんと 対州馬ひん太


八代亜紀さんのこと

小学校高学年の頃、社会科見学な何かでクラスでバスに乗っていたことがあった。おそらくバスガイドさんの手引きで、「歌の語尾でしりとりをする」といったゲームをしていました。男女に分かれてやっていたのですが、「よ」で女子が歌う番になった時、女子たちがせ~ので「よ~る~の、しんじゅ~く、う~らどおり~♪」と唄いました。後から思えば、それが八代さんの大ヒット曲「なみだ恋」だったのですが、その時はそんなことは知らず、そのメロディーだけが頭に焼き付いていました。

それから、恐ろしく時が流れて、私が対州馬ひん太を飼養していた時のこと。車で放牧地へ向かう場合は、いつも同じような時間帯になるので、同じ番組を耳にするようになり、その番組ともお馴染みとなります。
その頃、日曜の朝7:00より「八代 亜紀のRADIO PALETTE ~ 音のアトリエ」という番組が流れていて、八代さんが歌手のミレアさんと語るポジティブなトークは心に深く染み入りました。
2017年1月の正月が開けた頃、厳しい寒さの中を旧放牧地に向かっていたところ、流れてきた二人の楽曲にいたく励まされ、思い切って番組に、ひん太の事を紹介する投稿をしたところ、2月の中旬頃の放送でとりあげて頂きました。投稿内容は、「いつも朝早くから、対州馬ひん太の世話をする為の車中で番組を聞いている。少し大変なこともあるけれど、この番組を聴くことで励まされている」といったものだったように思います。
八代さんは、この内容に対して、「大変感動しました。いいアイディアを思いつきました。長崎は坂が多いから、対州馬が観光客のトランクなどを背負って運ぶというのはどうでしょう?」といったコメントを贈ってくれました。
その放送もひん太の所へ向かう車中で丁度聴いていたのですが、大変有難く、うれしく思いました。実際、2020年には、長崎市内の山の上に建つホテルから、馬でトランクを運ぶサービスを提供できないか?という依頼を受けました。残念ながら、その時にはひん太は亡くなっていたのですが。

「対州馬を絶滅から救う可能性にかけ、対州馬を飼っている」といろんな人に説明しても、大抵は「大変ですね」か「がんばってください」で終わります。
しかし、その時の八代さんは、ただ「がんばってくださいね!」ではなく、具体的なアイディアをすぐに考えてくれたことが、今でも嬉しくありがたい記憶として残っています。
その番組を聴いていた時によく流れていたのが、「JAMAAS 真実はふたつ」という曲でした。
八代さんが亡くなった今、この楽曲の歌詞が浮かんできます。

わたしが生まれた日  父さんもそして誰も
みんな笑って喜んだ  泣いたのはわたしだけ
宇宙には真実が 本当のことが二つあるわ
人は生まれて去ってゆく  命の全てはJAMAAS

きらめく星空の 光は遥かな昔
遠く幾千年前の 瞬きを見てるのね
若い日は美しく 終わりが来るとは誰も知らず
まるで宛てない旅をする いつしか届くと信じ

思えば倖せも 命さえ借りた物ね
しつか訪ねて来られた 感謝して返しましょう
愛し合い許し合い 迷わず出会った二人なのに
永還(とわ)の別れは止まらない 思えば全てはJAMAAS

夢か現(うつつ)か幻か 諸行無常と言うけれど
春は来る来るめぐり来る 輪廻転生(りんねてんしょう)人の世は

回りに子供たち いくつもの頭が囲む
午後の優しい陽だまりと 窓辺には揺れる風
お願いもう泣かないで わたしは笑っているのよほら
みんなほんとに有りがとう どこかでまた会いましょう

JAMAAS 真実はふたつ

八代さんは、「なんで、みんな泣いてるの?私は笑っているのよ!」と微笑んでいるような気がします。
八代さんがひん太という、ただの一頭の対州馬のことを知って、想ってくれたことは、私にとっては一生ものの記憶であることは、言うまでもありません。

最後に、令和4年の春。
娘が家を出て、福岡の専門学校に進学したのですが、その娘が春に長崎に戻ってきた時、バス停の近くにあるコンビニで見つけた「PHP」という雑誌の中に、八代さんの言葉がありました。

「ありがとう」をたくさん伝える

「ありがとう」本当に、いい言葉ですよね。私、子どものころから大好きなんです。
昨年、歌手デビュー五十周年を迎えましたが、この言葉に元気をもらって、ここまでやってきました。
新型コロナウイルスの制限が少し緩和されて、先日やっとコンサートをできるようになりました。感染対策で座席数を半分に減らしてお客様に来ていただきましたが、うれしくて、何度も「ありがとう」と伝えました。
すると、会場のみなさんが涙を流して喜んでくださるんです。
ずっとコンサートを心待ちにしてくださつていたんだな……とジーンときて、私も涙ぐんでしまいました。
私にとっては「会場に来てくれて、ありがとう」、会場のみなさんにとつては「八代亜紀が来てくれて、ありがとう」。お互いが「ありがとう」という一つの思いでつながつて、「ああ、幸せだな」と感じたひとときでした。
「ありがとう」と聞くと、言ったほうも言われたほうも元気になるし、「よし、またがんばろう」という気持ちになります。
だから私は、たくさん「ありがとう」と言葉にするようにしているんです。

両親の姿が、私の原点

私のデビュー曲は、まったく売れなかったんです。
二年間、キヤンペーンで全国をまわる日々が続きました。
トランクいつぱいにレコードをつめて、知らない街のキャバレーで歌わせてもらつて、そのあと客席をまわって、一枚、 一枚、手売りするんです。
翌朝になったら、また重いトランクを引きずりながら、次の場所へ移動です。
あのころの私の手はマメだらけでした。
そんな生活は、『なみだ恋』が大ヒットしたことでガラリと変わりました。そのとき、父にこう言われたんです。
一百万枚のヒットなんて、親戚一同がどれだけ買っても無理だよ。見ず知らずの方、一人ひとりが買ってくださったんだんだよ。決して天狗になってはいけないよ」
父のこのときの言葉が、今も忘れられません。本当に、その通りですよね。それ以降、ますます「ありがとう」と言葉にするようになりました。
そうやって精いっぱい歌い続けて、はじめは五年もてばいいかなと思っていました。それが、十年になり、二十年になり……、とうとう五十年になったんですね。
もちろん、これまでの人生、いいことばかりではありませんでした。意地悪されたり、だまされたりしたこともありました。
たとえば、全国キャンペーン中に、マネージャーを名乗る人が、手売りしたレコードの売上も私のお給料も全部持って消えたことがありました。
もちろん、とても悲しかつた。でも一方で、こうも思っていたんです。
「人にだまされると、こんなに悲しいんだ。だから私は、絶対にそんなことはしない」
そんなふうに考えていると、また別のいいことが起こるんです。
同じキャンペーンのときに、こんなことがありました。
次の街へ移動するため、私はガラガラの始発電車に乗って、トランクを前に抱え、両脇に大きなバッグを二つ置いて座りました。疲れていたんでしようね。
ガタンゴトンとゆられるうちに、泥のように眠つてしまったんです。
ハッと目が覚めると朝のラッシュの時間帯で、電車は超満員。そんななか、私が何人分もの席を占領しているわけです。
申し訳なくて、恥ずかしくて……。でも、だれからも「どけ!」などと、きつい言葉を浴びせられることはありませんでした。
それから数年後、『なみだ恋』がヒットしてから、こんなお手紙をいただきました。
「数年前、トランクを抱えて電車で寝ていた女の子がいました。疲れているんだから寝かせておいてあげよう、とみんなで言いあったんです。あれは八代さんだつたのでは?」
心がぽっとあたたかくなりました。どんなときにも、いいことが一つくらいはあるはず。十のうち九ついやなことがあっても、 一ついいことがあれば、そちらに「ありがとう」と言いたい。そんなふうに私は考えてきました‥その原点は、両親の存在です。
小学生のころ、ある日、家に帰ると知らないおじさんがいたんです。両親は、その人に毎日ご飯とお風呂を用意していました。ひと月ほどしたら、その人はいなくなりました。父に「どうしていなくなったの」と聞くと、「住みやすい場所に行ったんだよ」と。
あとで、ホームレスの方だったと知りました。寒い日に橋の下で震えていたのを父が見かけて、放っておけなかったそうです。
母は母で、肉じゃがを多めにつくって、「あまったから、どうぞ」とご近所さんに持っていって、なんて私に言っていました。
そういう両親の姿を見て育ったので、物事のいい面に目を向けよう、感謝しよう、と思うようになったんですね。

絵が歌を支え、歌が絵を支える

もう一つの私の元気の源は、絵です。父に「上手だね」とほめられるのがうれしくて、絵を描くのが大好きになりました。
『なみだ恋』のヒットのあとは、スケジュールが真っ黒になって、絵を描く時間の確保ができませんでした。仕方がないから、夜中に描き始めるんです。絵の世界に没頭して、気がついたら、いつも朝になっていました。
私・八代亜紀にとって、歌は命で、その命を支えるのが絵なんです。
この二つの世界で私は成り立っている。だから、何と言われようと、絵をやめることはできませんでした。
そうしたら、マネージャーが理解してくれて、月に何日かはアトリエにこもって絵を描ける日をつくってくれるようになりました。
私が描くのは写実画です。絵で質感をリアルに表現するのが好きで、「子どもにもわかる絵を描きたい」と思っています。
あるとき、私の個展の会場で小さなお子さんがぐずって泣いていました。スタッフが「どうしたんですか?」と聞くと、その子のお母さんが言いました。
「この絵の猫ちゃんをなでたいと言って、きかないんですよ」
スタッフが気をきかせて、そのときはガラス越しに絵をさわらせてあげたそうです。絵の額縁にはガラスがはめこまれているので、あとでふけば問題ありません。毛の一本、一本まで、本物の猫に見えるように描いたので、この話を聞いたときは、「やった!」とガッツポーズしました。
みなさんも、自分の「好き」の世界を二つ持ってみてはいかがでしようか。二つの違う世界がお互いに影響しあい、支えあって、毎日がより楽しいものになっていきますよ。

悲しさを抱える人のために歌いたい

デビュー以来、つらさや悲しさを抱える人の代弁者のつもりで歌ってきました。
「世の中には自分と同じように悲しさを抱える人がいるんだ」
そんなふうに、聞いてくださった人に言葉が届いて、「これは私の歌だ」と思ってもらえることが一番うれしいんです。
私は、歌で自分自身を表現したいと思ったことが一度もないんです。
これからも、悲しさを抱えるだれかの代弁者になって、歌の心を伝える存在でいたいですね。
コロナ禍が落ち着けば、トラックで全国をまわって、そこをステージに歌いたいと思います。車なら、どこへでも行けますから。
そこで、みなさんに直接「ありがとう」をお伝えしたいというのが私の今の夢です。

PHP創刊75周年記念特集「うまくいってる人の心の持ち方」令和4年5月号より

このエッセイの文章が大好きで、他人から嫌な思いをさせられた時などに、私も八代さんのように「自分がこんなに嫌な思いをするのだから、自分は絶対しないようにしよう!」と決心することにしています。
また、自分の子どもにも機会があれば、その内容を伝えるようにしていま。
そしてこれからも、この記事の言葉を大切にしてゆきます。

八代さん、ひん太に会ってやってくださいね。  合掌。



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江島 達也/対州屋
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