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池島アパートの一室を見せてもらう

軍艦島ガイドをしていた時、お客さんの中で「少しでいいから、アパートの中を見てみたい」と言われる方がけっこうおられました。
それはただの好奇心からくる、と言うよりは「自分自身が幼い頃生きていた時代を思い出したい」というようなものではなかったかと思います。私自身が初めて軍艦島に来た時も同じような感覚を持ちましたので・・・

都会からツアーに訪れる多くの方が「あの頃は・・・」と懐かしそうに昔を語られます。その時代を思い出すとにより自分自身の「アイデンティティーを再確認する」ということがその方の中で起こっているのでしょう。

以前訪れた池島。元炭鉱マンのガイドさんに案内していただいた時に、展示用となっているアパートの内部を見せてもらいました。自分の住んでいたアパートよりは随分と年代の新しいものでしたが、それでも十分懐かしいものでした。

この棟の4階の一室が当時の家族の暮らしを再現した一室になっています。

階段の途中の踊り場です。私が住んでいたアパートにはガラス窓ははまっていませんでしたが、池島は風の強い場所であるためでしょう。幼い頃叱られて外に出されると、こういう踊り場や屋上にいて外を眺めていたものでした・・・。

鍵を開けてもらって中へ入ります・・・

玄関。確かにこんな感じでしたね。広いスペースを確保できないために下駄箱は必須でした。でも各部屋部屋によってインテリアが違うので、よそのお宅に行くと随分新鮮な気がしました。(ちなみに写っているのは、案内してくれたガイドさんです)

WC、洗面所スペース。共同浴場があるのでお風呂がついていないのは、私の住んでいたアパートと同じです。狭いスペースに工夫して洗濯機などを置いていたのも同じですね。

台所です。私のところと違って随分モダン?ですね。うちは作りつけの石製の流しでした。

居室です。仏間兼押し入れでしょうか。二間が襖で仕切られて・・・あの頃は十分な広さでしたね。
展示してあるのは、中学校のポスターでしょうか。「保安」がテーマになっているのが、炭鉱町ならではですね。

北側の部屋です。主に子ども部屋などに使われることが多かった部屋でしょう・・・
うちの場合も狭い四畳半にアップライトのピアノやミシンまで置いていました。親戚がくるとミシンの下に頭を突っ込んで寝ていたような記憶があります。

南側の居室(左側)とダイニングです。左側はサッシになっていますが、私の頃は右側のような木製の窓枠でした。壁もちょうどこんな感じだったと思います。柱には昔だれかが刻みつけた「背比べ」の傷と落書きがいっぱいでしたね・・・
(ベランダに見える階段は屋上に上がれるよう後に取り付けられたものです)

屋上からの眺めです。沢山のアパートと窓が見えます。この数と同じようにいろいろな家族の暮らしがあり、歴史があったわけですね。

通りには子どもの自転車が並び、各部屋部屋には色とりどりのカーテンや洗濯物が見え、人々が行き交う活気溢れた炭鉱町があったのだ、ということを無人のアパート群は語っているようです。

(元記事作成:2011年08月)

今、思うのは、昭和30~50年代あたりの建築を見たいというのは、「ノスタルジックな気分に浸りたい」といったものではなく、「現代失われている、良い時代の”長屋文化”を、もう一度思い出してみたい(或いは知りたい)」というものだろうと思います。

私自身がものごころ付いた時に住んでいたのは、昭和26年頃に建設された長崎県住宅供給公社が建てたアパートで、まだ風呂場も無かったのですが、その代わり、「ダスト・シュート」や地下共同倉庫があったり、屋上には自由に遊べるというもので、もちろん犬や猫、インコなどのペットも自由に飼えました。
各戸には電話などなかったのですが、例えば前庭から上の階の人と話したり、ドアにしても、いちいち施錠などせず、いつも知り合いのところに行く時は、「おるねぇ?」「入りぃ!」で済んでいました。

つまり「貧しくとも、誰かれ差別もせず、助け合って生きていた「長屋文化」が毎日の生活の中にあって、キラキラとしていた時代を、もう一度思い出してみたいという気持ちなのだろうと思います。

今でも池島ツアーに参加すれば、この部屋を見学することができると思います。興味のある方は、ぜひお問い合わせしてみてください。


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江島 達也/対州屋
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