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馬と人の絆のストーリー ~ 八丸 由紀子さんと馬車馬 ダイちゃん

私の亡き馬「ひん太」の為に、遠く仙台の地からリンゴや生牧草を贈ってくれた村上 敏章さんという方がいました。生まれ故郷は福島で、被災地復興も兼ねて、会ったことも無いひん太の為に、いつも温かい言葉とともに特産のリンゴなどを贈ってくれたのです。

村上さんから看板文字の制作を紹介してもらったのが、美馬森(みまもり)八丸牧場の八丸 由紀子さんでした。

「どんな施設なのだろう?」と思い牧場のHPを覗かせてもらったのですが、そこに書かれているコンセプトを少し読んだだけで、「ここの人たちは、馬や動物の命に対しリスペクトを持って接する人たちだ」ということが判りました。
納品後、自己紹介代わりにと贈って頂いたのが、動画の内容のDVDでした。

村上さんによると、ダイちゃんが亡くなったのは、ひん太が亡くなった数日前であるとのこと。

涙無くしては見れないものでした。

以下、(株)アントレプレナーセンター代表 福島正伸さんのブログより転載させて頂いております。

☆彡     ☆彡     ☆彡     ☆彡     ☆彡

ある高原の乗馬クラブが閉鎖されることになりました。20頭以上いた馬は、次々と売却されていきました。
その中に買い手の見つからないダイちゃんという馬がいました。
ダイちゃんは唯一の馬車馬(ばしゃうま)でした。馬車を引くことだけがダイちゃんにできることで、他に何の役にも立ちません。引き取り手が見つからないのも当然です。
どうしても買い手が見つからなければ、処分されてしまうかもしれない。
そんな時、馬の面倒を見てきた八丸さんは、自分が馬を買いたい、と会社に申し出ました。はじめは断っていた会社も、その熱意に打たれ、破格の値段で売ることにしました。
しかし一方で、八丸さんにとっては、全財産を失うことになりました。
その後のダイちゃんの飼育費や自分自身の生活費などを考えると、どうしていいかわかりません。ダイちゃんをどこかの牧場に預け飼育管理を委託しても、飼育費だけで年間100万円以上かかります。
会う人、会う人に相談しました。必死になって、ダイちゃんの生活場所を探しました。

たまたまそんな時、以前から付き合いのあった獣医さんから、ある農場で馬車を引く若い馬を探しているようだ、という情報を得ることができました。
すぐさま連絡を入れると、すぐに牧場の方がダイちゃんを見に来てくれました。
「一円も要らないから、飼ってほしいんです。ダイちゃんが元気でいてくれたら、それだけでいいんです」
なんと、その農場でダイちゃんに仕事をしてもらうかわりに、面倒をみていただけることになりました。
さらに、たまたま人材が不足していたため、八丸さんも同じく農場で働くことができることになりました。馬の仕事ではありませんでしたが(ダイちゃんの世話をすることはできませんでしたが)、同じ敷地にいるというだけで、とても幸せでした。
そして約二年間、そんな生活が続いた頃、たまたま以前の会社でお世話になっていた先輩が、乗馬クラブを作るという知らせを聞きました。お会いしたところ、次のようなお話をいただくことができました。
「立ち上げスタッフになってくれないだろうか?ダイちゃんも連れてきたらいい」
八丸さんは、飛び上がるほど喜びました。
八丸さんは、ダイちゃんのためにと、がむしゃらになって働きました。
しかし、ダイちゃんには仕事がありませんでした。馬車を引くという仕事が、立ち上げたばかりの牧場にあるはずもありません。

「何とかしたい・・・」
とにかく会う人、会う人に相談しました。
すると、たまたまある友人から、県が地域を支援するために作った産業振興センターという、ところがあると聞き、とにかく行ってみることにしました。
そこで、勧められたのが起業家大学でした。
八丸さんはここでさらに、人生の転機となる人と出会うことになるとは、その時はまったく思っていませんでした。

八丸さんの事業は「ウエディング馬車」でした。とにかく、ダイちゃんにできることを事業にしようとしているだけです。事業の見込みなどまったくあるはずもありませんでした。

八丸さんは意を決して、勤めていた牧場を辞めることにしました。自分のすべての時間をダイちゃんのために使うためです。まずは中古で売りに出ている馬車を探したり、どこかに使っていない馬車がないか問合せをしたりしました。
 八丸さんの意を決した行動を、批判する人もいましたが、“そこまで本気なら”と、応援してくれる人もいました。
ところ、たまたま遠く離れた山梨県で一台使っていない馬車がある、という情報を得ることができ、以前勤めていた牧場の社長から八丸さんに連絡がありました。
「山梨にボロボロの馬車があるようだ、破格の値段で売ってくれると言っているよ。興味あるかい?」
「あります!どんなにボロボロでも構いません。本当にありがとうございます」
八丸さんは、喜び勇んで購入を決めました。そして、以前勤めていた牧場の社長が修理に力を貸してくれました。

 同時に、八丸さんは自分達の念願の牧場作りをスタートさせるべく、まずは理想に近い近隣の休耕農地をあちこち探し始めました。
また、ウエディング馬車の仕事をするために、会社を作ってはみたものの、受注はまったくありません。
“早くなんかとしないと・・・”
気ばかりが焦ります。
こうなったら、できることは何でもやろう、と思いました。 

東北地方にあるすべてのホテルに、電話をかけました。
「ウエディング馬車は、いかがですか?」
「ウエディング馬車・・・?」
「これからやりたいんです。どこまでも行きます」
「興味がないね・・・」
冷たく言われて、切られてしまうことも何度もありました。それでも、すべてのホテルに電話をかけ終わったころには、パンフレットを送ってもいい、というホテルを20社ほど見つけることができました。

八丸さんは、一生懸命に作った手作りのパンフレットを送りました。
しかし、一社も反応がありません。
「どうしたらいいんだろう・・・やっぱり、事業にはならない・・・」

日増しに、そんな思いが強くなってきましたころ、先に申し込んでいた起業家大学が始まり、八丸さんは藁をも掴む思いで参加しました。

起業家大学に参加した彼女は、まわりの参加者に言いました。
「ウェディング馬車のパレードをやりたんです。町の中をパレードしたいんです」
「何のために?そんなことして、何の役に立つの?ビジネスになるの?」
彼女は、はっきりした答えもないまま、ただ必死に答えました。
「馬のダイちゃんのためなんです・・・ダイちゃんは、馬車を引くことしかできないんです・・・ウェディング馬車しか、思いつかなかったんです・・・」

彼女は、提出した事業計画書のはじめに、思いをつづった長い手紙をつけました。
起業家大学の講師は、その手紙を読んで、彼女の強い思いに感動しました。そして、何とか彼女を応援したいと思い、最終回に行われるプレゼンテーション大会の発表者に選びました。

発表会でプレゼンテーションするためには、他の参加者の前で練習をしなければなりません。彼女が始めて、その発表の練習をした時のことです。

八丸さんは、ダイちゃんの写真を持ってきて、みんなに見せました。
発表の練習には、他の受講生もみんなで、どうしたら事業になるか、一緒に考えます。
受講生の中に、中本さんという現職の警察官がいました。中本さんは、冷ややかに言いました。
「そんなこと、まず警察が許可しないよ」
冷静で、太い声でした。見た目もちょっと迫力のある中本さんの、この一言は、彼女に大きなショックを与えました。
「ウエディングだろうが、なんだろうが、町の中を馬車が走ることなど、警察が許さない。何か問題が起きたら、誰が責任を取るんですか!?あなたに責任が取れますか?・・・考えが甘い!」
 彼女の目から涙が溢れ出し、みんなの前で嗚咽して泣き出しました。

しかし一方で、彼女の純粋な思いに共感した人たちもいました。
「なんとかなるよ・・・」
「あきらめないでがんばろうよ・・・」

そして、本番のプレゼンテーションでは、ダイちゃんの写真を何枚も見せながら、彼女は精一杯訴えました。
講師の助言で、事業計画書の内容を説明するのではなく、事業計画書に添えた手紙の内容を、そのまま発表することにしました。

その手紙===================

〜 たった一人の戦い 〜
何が何でも成し遂げると決めた私のある決断

 私は当時、ある高原の乗馬クラブのスタッフとして勤務しておりました。銀座のOLから転身して、大好きな馬連に囲まれ、四季の移り変わりを味わいながら、自然の中で楽しく仕事しておりました。
 そんな私には、ちょっとした夢がありました。乗馬クラブには、二十頭の乗馬用の馬と、ただ一頭の馬車馬がいました。
 その馬車馬の名前は「ダイちゃん」。
八百kgもある大きな体と、力強さ、迫力とは反対に、愛卿たっぷりの大きな目、強い好奇心、いたずら好きな性格は私を魅了してやみませんでした。
 馬車に乗った子供達や家族連れは、あっという間に「ダイちゃん」のフアンになってしまいます。
 当時、馬車営業はGWや夏休みのシーズン、祝日をからめた連休などに行われ、観光客に喜ばれました。
 時にはTVの撮影に応じたり、安比のペンション街を、花嫁花婿を乗せてパレードしたり、そんな仕事も担っていました。
 当時、六十代の専門職のおじさんが、「ダイちゃん」のボス(調教師)でした。おじさんがひと声、合図を出すと「これから仕事だな」とわかるらしく、何だかダイちゃんもピシッと引き締まります。それまでは放牧場で勝手気ままにしていたのに、おじさんが近寄ると、ダイちゃんの気持ちが切り替わるのです。
 そのおじさんが、当時の私の「師」でした。見よう見まねで、私も馬車に関する知識と経験を体得していきました。
 「いつか御者(馬車を操縦する人)になって、ダイちゃんと−緒にこうやって安比高原を馬車遊覧して、お客様に喜んでもらいたい!」そう強く思うようになっていました。
 おじさんも、事あるごとに、「オレはそろそろ引退しようと思っているから、後はお前に頼むぞ。」と言っていました。
 今の馬車アシスタントから「御者になる」ということ、そしてダイちゃんと、ずっと一緒に仕事をしていくんだ、ということが私の夢となり、大きく膨らんでいきました。
 ダイちゃんは仔馬のときに会社が購入し、安比にやってきた馬でした。私がずっと世話をしてきました。
 私が26歳のときでした。本当にそれは突然でした。
 今思えば、とてもその出来事が、自分の人生に大きく影響を与えたなと思います。
会社からある発表がありました。
 来期から乗馬クラブを廃止する、という正式決定を受けて、今後の対策を来期に向けて早めてくれとのこと。
 いわゆるリストラです。よくあるリストラです。
 私たち自身の衝撃もはかりしれませんでしたが、すぐスタッフの頭をかすめたのは馬達をどうするのかということ、でした。誰か買い手を探さなくては、貰い手を探さなくてはと、それはそれは必死でした。いくらかでも馬たちにとって、幸せな将来が約束されている条件で行く先を決めるのは、私たちスタッフの最大の責務でした。
 とてもとても悲しい仕事でした。馬たちに申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
 車が来て馬を積んでいきます。来る日も来る日も、別れの日が続きました。どの馬にも色々な思い出がありますから、それが一気に頭の中に沸き起こるわけです。スタッフの中で私が一番、年齢が若かったのですが、毎回胸を割かれる思いで、涙をおさえるのがやっとでした。
 こうして、馬がどんどん減っていきました。
 そんな中、ダイちゃんだけが行く先も決まらず、会社にとっては悩みのタネでした。乗馬用の馬は、あちらこちらの乗馬団体に移っていきましたが、ダイちゃんだけは貰い手も買い手も決まらず、中に浮いた状態でした。
 そりゃそうです。
 馬車をひく馬が欲しい、なんて人にめぐり合うのは万に一つの確率です。何も馬車をひくだけではなく、人が乗ることも出来るのですが、今度は乗馬用としては「大きすぎるねえ」と言われてしまう始末です。
 いよいよ馬の行き先を決定するという、締め切りの日が間近に迫ってきました。
 こうなると会社は、「いよいよとなったら処分場行きかな・・・。」とにおわしてくる訳です。
 私の中では、マグマのようなものが確かに動き始めているのがわかりました。
 「絶対殺させない、殺させるもんか」と。
 それならいっそ、私が会社から購入して、私が引き取る、私がなんとかする、細かいことも具体的なことも、何ひとつ決まってないし、わからないけど、絶対他人には渡さないと、強い決断をしたのです。
 それまでただ悶々として、自分の非力さ、何もしてやれないことへの苛立ちでグチャグチャでしたが、
 「ダイちゃんを守る人は、私しかいない。」と使命感を感じました。
 何があっても、誰に何を言われても、されても、私は成し遂げると決めたのです。
 そして上司に思いを告げました。
 案の定、思った通りの反応をしてきました。「嫁入り前の娘が、八百kgの馬なんか所有したら、これからどうしていくんだ?」「一時的に気持ちが高ぶっているだけだろう」馬を手に入れたところで、どこで飼って、誰が毎日世話をするんだ?」「どこかの牧場に預けたとしても、一ケ月の管理代なんて、お前に払えないだろう」もう、それは予想通りでした。そしてまた、その通りでした。そもそも会社は、ダイちゃんにはまだまだ残存簿価が結構あるので、売るとなっても金額的にも「値がはる」と言ってきました。
 それはちょっとした、中古車が購入できるぐらいの金額でした。当時の私にはそれが最大の問題でした。
 会社が提示しているお金を持ち合わせていないのです。
 これじゃ話になりません。でも私が何とかしなかったら、処分場行きはほぼ決定です。
 どうにもこうにも他の選択肢がありません。随分追い詰められていました。全て頭打ちで、お金も無ければアイデアも無く、八方ふさがりでした。
 勇気を振り絞り、親にも相談しましたが、言わずと知れた予想通りの返事でした。
 今になってみると、彼らの心情も理解できますが、その時の私には、他の皆が鬼に見えました。きっと感情的になっている私に、頭を冷やして欲しくて、良かれと思って言ってきたのだと思います。
 私は表しようの無い、孤独感と怒りとやるせなさを感じていました。
 ダイちゃんを救いたい、助けたいという気持ちだけだと、だめなのかなあ、使命感だけじゃダメなのかなあ、でもこの戦いから降りるわけにはいかない?!私の最大の武器は何だろう、考え続けました。

ある知人に、今回のことを相談しました。洗いざらい全部話しました。
 その知人は、普段から特別親しいという訳ではありませんでしたが、私の中での彼女の存在が、少し特別なところにあったので、この人に話してみようと思い立ったのです。彼女は自分ひとりで事業を始めたばかりの獣医さんでした。
 小さなプレハブを診療所がわりにして文字通り、体を張って頑張っている、凛とした方でした。
 きっとこの人なら、他の人と違うことを言ってくれるに違いない、私はそう思い、私の背中を押してくれるようなそんな言葉を求めて会いに行きました。
 その獣医さんは言いました。「その一途な思いを貫いてごらん。あなたがこんなに本気だということを、周囲にもっと伝えなきゃ。頑固になって、わからず屋になって、駄々っ子みたいになるのも、いいんっじゃない?本気なんでしょ、決めてるんでしょ、もうそれしかないでしょ。そうした場合、対外相手はそんなあなたに飽きれて、そして次に諦めるから・‥。私は本気なんだということを相手が飽きれて諦めるまで伝えてみるというのも、ひとつだと思うよ。」
 私には、何にも変えられない励ましのメッセージでした。
 そうか、私の武器は、この「思い」だけなんだと気づかされました。
 よし、この気持ちでひとり戦い続けようと決め、御礼を言って、一路車を飛ばしました。
 運転している私は、妙に穏やかな気持ちになっていくのを感じました。
翌朝、上司に自分の思いを再度伝えました。
 一時の感情で言っているのではないということ、私なりにきちんと決意があるということ、会社の提示している金額は持ち合わせていないけど、その提示金額の五分の一なら用意できる、馬を手に入れた後の具体的なことは何も決まってないけど、必ず何か方法を探す、私に内密に話を進め、馬の行き先を決めたり、処分場へやったりしても、私は追跡して探し出し、連れ戻すつもりだ。第三者に会社の希望額で売ったとしても、私はその相手から買い戻すつもりだ。お金はサラ金でも何でも貸してくれるところはいっばいあるんだ、と。
 直属の上司は、ただでさえ残務処理に追われていて頭が痛い毎日だというのに、よりによって、こんな部下がいる訳ですから、さぞ大変だった事でしょう。
 でも、彼もー緒に馬の仕事をしてきたのだから、私の気持ちは痛いほどわかるんです。
 彼は大学生のとき馬術部にも在籍していたし、愛着のある馬と別れるのは、どんなにか身を切られる思いをするか、というものちゃんと知っている方でした。
 彼はそんな私に飽きれて、部長にこの件を預けました。
私は同じ態度を取り続けました。冷静になるべく穏やかな口調で気持ちを伝えました。
 とうとう取締役が登場しました。応接用の部屋に通され、困りきった表情を浮かべてこちらを見ていました。まるで蛇に睨まれたカエルです。でも怯んでなんかいる場合ではありません。
 私は本気なんだということを、わかってもうらおうと必死でした。
しばらく話は平行線でした。向こうは、ため息ばかりついています。ため息つきたいのは、むしろこちらの方です。細い一本の糸がなんとか私を支えていました。
「私が会社の提示している金額を持ち合わせてさえいれば、今すぐ売ってくれますか?そういう事であれば、この足でサラ金からお金を調達してきます。親にも相談しましたが、協力はしてもらえませんでした。誰に話してもダメです。だからこの足で、サラ金に行って耳そろえて全額用意してきます。その方法しか思つきません。そしたら売ってくれますか?」
「いや、そう言うことを言っているんじゃない。あなたの人生はどうなるんだ、大きな馬を引き取ったって、飼う場所も無ければ、世話する人もいないだろう。大きな足手まといになるだろう?」
「何を言っているんですか?ダイちゃんがいない人生の方が、よっぽど考えられません。農家のどっか空いている納屋でも見つけて、何とかそこで飼わせてもらって、私が朝晩世話しに通います」
「何馬鹿なことを言って・・・」
「私にしたら、他人の手に渡ってしまったり、処分される事の方が、よっぽど馬鹿な話です。」
 私を支えていた一本の細い糸が、とうとう切れてしまいました。涙が溢れ、止まらなくなりました。憤りも悲しみも悔しさも孤独感も全て、こみ上げてきました。
「もう泣くな、君の気持ちはよくわかった。少し時間をくれ」
 疲れきって、職場に戻りました。他の先輩スタッフは、完全に私の応援団になっていました。
最初は色々説得を試みようとしてくる人もいましたが、その時はもう完全に応援の姿勢でした。
 もうやることはやったのだ・・・次はどうしようか考えなくてはと思いつつ、何も考えられない状況にありました。「心ここにあらず」とはよく言ったもので、そんな状態で四、五日ぐらいたった頃、部長から連絡を受けました。色々相談の結果、私が用意できると言った五分の一の値段で、ダイちゃんを売るとのことでした。
 最初ピンときませんでしたが、じわりじわりと喜びがこみあげ、その時ばかりは神様の存在を意識し、感謝したのを覚えています。
 先輩スタッフもー緒に喜んでくれ、私の使命が果たせた嬉しさでいっぱいでした。 早速、獣医さんに連絡をいれ、結果の報告とお礼を伝えました。
「あたしは何もしてないわよ、あなたが全部やったのよ。」と相変わらずクールでしたが、「あたしの知り合いに、ダイちゃんを置いてもらえそうなところがないか、数件あたってみるね」と言ってくださり、お礼を伝えても、伝えても、伝えきれない程でした。
 問題は山積みで、一難去ってまた−難、という状況でしたが、その時の私は「きっと何とかなる」「必ずうまくいく」と信じるしかなく、根拠の無い、幸せな未来を想像して進んでいくしかなかったように思います。
 いつか、どこかでまたダイちゃんと馬車営業して、皆に喜んでもらうぞっ!全ては今始まったばかりだ、と感じていました。
 諸手続きを済ませ、正式に私のものになりました。上司や会社の決断に深く感謝しました。
 いよいよ今日は、旅立ちの日。しばらくの間、離れ離れになるけど、すぐ迎えに行くということ、必ず馬車営業をするということを、心の奥深くに誓い、安比高原から新天地に移動するための、トラックに乗ったダイちゃんの後姿を、複雑な心境で見つめていました。
 最後トラックが出発したとき、ダイちゃんの大きな噺きが聞こえました。
「わかってる、わかってる・・・。待っててね」
 そして一年後、私はダイちゃんのいる、小岩井農場へ転職しました。
 仕事内容は、馬とは関連の無いことだったのですが、同じ敷地にいるためすぐ会いに行けるということだけで充分でした。
 あれから五年、色々と寄り道をしてきたけれど、ウエディング馬車パレードという夢に向けて、準備していきたいと思っています。

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この手紙を読み終えるまでに、八丸さんは、何度も声がつまり、頬を伝った涙がぽたぽたと落ちました。

発表が終わるとすぐに、会場の中で警察官の中本さんが手を上げました。会場全体が、急に緊張感に包まれました。中本さんは、立ち上がって、太く、大きな声で言いました。
「八丸さん、お伝えしたいことがあります。実は、私は来月から警察署長になります。県北の地域が管轄ですが、私の所管内であれば、私が許可しましょう。年2回行なう今年の交通安全パレードでは、先頭をダイちゃんの馬車に御願いしたい。そうすれば、みんなに知ってもらうことができる。それをマスコミに取り上げてもらえば、次の機会につながるかもしれないでしょう。どうですか?引き受けてもらうことはできませんか?」
 止まらぬ涙を拭きながら、八丸さんは答えました。
「えっ・・・ホントですか・・・」
「みんなにダイちゃんを見せてあげてください」
「・・・ホントにいいんですか?」
「是非やりましょう!」
「ううう・・・・うううう・・・・」
 八丸さんは返事もできずに、ただうれしさのあまり、泣き続けました。
 会場中からも、嗚咽する声が聞こえました。

後に、中本さんの絶大な支援の下、この日のために練習を重ねてきたという地元の小学生たち70人の鼓笛隊とともにダイちゃんは誇らしげにパレードを先導し、地元のマスコミにその勇姿は取り上げられました。

その直後、隣町にあるリゾートホテルから、連絡がありました。
「たまたま新聞を見たよ。以前手書きのパンフレットを送ってもらったけど、その時はわからなかった。すばらしいね。ウエディング馬車について、一度相談させてもらえないだろうか?」
ホテルの責任者からの連絡でした。
 こうして、とうとう八丸さんの夢であるウエディング馬車が実現することになりました。ただ、パレードというわけではなく、リゾートホテルの敷地内を散策する程度でしたが、それでも八丸さんにとっては、夢が実現したことに変わりはありませんでした。

同時に牧場用地も見つかり、いよいよ牧場作りもスタートしました。日中は、ご主人とふたりで一緒に、当時荒地だった農地を手作業で開墾整備していきました。
少しずつでしたが、ダイちゃんの仕事も増えていきました。しかし、ダイちゃんを養い、生活するためには、まだまだ、まったく仕事量が足りません。
他に何があるのだろうか、八丸さんはまた、新たな悩みに苦しむことになりました。

 どうしていいかわからずにいたところ、たまたま地元紙で奉仕活動の団体が発足したというニュースを耳にしました。地域の清掃活動をしたり、献血の促進活動をしたりします。早速、入会を決め申し込み手続きをしたところ、そこには地元の名士といわれる人がたくさん参加していました。その中に、たまたま地域の活性化をしている方がいて、ダイちゃんのお話しする機会がありました。
「八丸さんといったね。あなたの話を、私の所属している団体で話してもらえませんか?」
 こうして、八丸さんに初めての講師の依頼が来ました。

 講演の当日、八丸さんは、町の中を走るウエディング馬車パレードをやりたいという、自分の思いを必死に伝えました。参加者は、みな興味津々で話しを聞いてくれました。そして、講演が終わると、びっくりするくらいの拍手が、いっせいに沸き起こりました。
みんなが八丸さんの夢に関心を寄せてくれました。参加者の多くが、これからの地域の活性化をどうするか、まじめに考えている地元の人たちばかりでした。八丸さんの発想に、驚かない人はいませんでした。

しばらくして、八丸さんに地域団体の方から連絡がありました。
「盛岡をどう活性化するか、私たちはずっと考えてきました。その結論は、三つのキーワードにまとめることになりました。それは、『盛岡』『観光』『馬』です。この三つの中で、私たちは、馬のことがまったくわかりません。地域の未来のために、是非協力していただけないでしょうか?」
八丸さんがお願いしたいことを、反対にお願いされることになったのです。
「こちらこそ、なんでもします。私とダイちゃんにできることなら、何でもします!」
「それで、実は・・・馬車ってどうかなって、思っています。八丸さんは、馬車を持っているんだよね」
「はい、持っています」
「地域を活性化するためには、他の地域ではやっていないことをする必要があるんです」
「はい、私もそう思います」
「町の中心部を走る『定期運行馬車』ができないかと思っているんです。それをダイちゃんにお願いできないだろうか?」
 「す、すごい!『定期運行馬車』ですか!・・・やります!」
「いろいろ難しい問題もある。でも、私たち全員で力を合わせれば、必ずできます。町中の人たちと一緒に協力し合えば、定期運行馬車だって必ずできると信じています。」
「・・・できます!・・・できます!・・・ううう・・・」
 また、八丸さんの目が真っ赤になって、涙があふれてきました。
一方で牧場作りもゆっくりではありましたが、確実に前進していました。それまでは知人の牧場に預けていたダイちゃんですが、いよいよ手作りの馬小屋も完成し、自分達の牧場で飼うことができるようになりました。

定期運行馬車については何度も打ち合わせしまいた。八丸さんは、馬のこと、馬車のことを、何回も何人もの人にたくさん話しました。

そんな頃、たまたま警察官の中本さんから連絡がありました。
「八丸さん、ダイちゃんは元気ですか?盛岡の警察本部に帰ってきました。何かできることはありませんか?」
「あります!あります!」
八丸さんは、中本さんのところに飛んでいって、定期運行馬車という夢の話をしました。
「地域の未来を担うというのは、私たち警察官にとっても大切なことです。私も是非お手伝いしますよ」
「本当ですか!?」
「安全であるためには、何もしてはならないのではなく、地域の未来を担うことを安全に行えるように支援することが、私たちの役目ですから。任せてください」
「・・・ううう・・・」
また、泣きました。

そして、社会実験として、町の中をダイちゃんの馬車が走るというニュースは、地元紙の一面を飾りました。ダイちゃんが走るコースまで詳細に紹介されました。
実験の当日は、たくさんの人がダイちゃんのまわりを取り囲み、まるでお祭りのような盛り上がりになりました。そして起業家大学で知り合えた大切な仲間達も、大勢駆けつけてくれて、まるで自分のことのように喜んで下さいました。そしてダイちゃんの馬車を引く姿は、さまざまなマスコミに取り上げられました。
 町の反応は、予想をはるかに超えたものでした。85%の人が、“是非実現したい”、と言ってくださり、“ないほうがいい”、と言った人は、ほとんどいませんでした。
 渋滞の問題も、コースをうまく設定すれば、ほぼ解決することができました。
 それでも、車が馬車の後ろにつくと、ゆっくり走らなければならないことに変わりはありません。馬車の後ろについてゆっくり走らざるを得なくなった、ある運転手は、アンケートに対して、次のように答えました。

「この町で、急いでどうするんだ」

 こうして、八丸さんとダイちゃんは、自分たちの夢を超えた、地域の将来を担う定期運行馬車の実現に向けて着々と準備が進んでいます。

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出展:福島正伸の「夢しか実現しない」


「この子(馬)がいない世の中など、考えられない。ましてや人の手で処分されるなんて、私が断じてさせない!」

そんな八丸さんの想い、私にも痛いほどわかります。


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江島 達也/対州屋
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