牛馬も歩みを渋った難所・・・打坂の歴史
長崎市の北部に位置する時津町と長崎市の境付近にある打坂(うちざか)。今では切り通しとなり、なんでもない坂なのですが、この何でもない坂が実は多くの歴史を背負っていました・・・
そもそもこの「打坂」という名前の由来ですが、切り通しとなる前は時津街道一の急坂であり、牛馬に鞭を打たないとなかなか登らない、ということでこの名がついたようです。
古くは、長崎・西坂の丘で処刑されたカトリック神父や修道士など26人のキリシタン(後の26聖人)が京都・大阪から護送される際に通った道です。
大村純忠がイエズス会に寄進し、カトリックのポルトガル人たちが開いた街、長崎を望む坂の頂上に立った彼らの思いはどのようなものであったでしょうか・・・
坂を時津側に少し下った頃にお地蔵さんと碑があります。このお地蔵さんは「愛の地蔵」と呼ばれています。
戦後間もない昭和22年。
当時は石油が不足しており、まだ木炭バスがここを走っていました。当時の打坂はまだ舗装もされていない上に、細くくねったカーブがくねくねと続き、バス運転士たちが「地獄坂」と呼ぶ難所であり、非力な木炭バスでは登るのがやっと、という状況でした。
その年の9月1日のこと、坂の途中で故障したバスは、じりじりと坂をくだり始めました。
このままでは、乗客を乗せたまま谷底へ転落か、というときに車掌として乗務していた鬼塚 道男さんが自ら車輪の下に身を投じ、バスを止め乗客の命を救いました。しかし鬼塚さんは残念ながら殉職されました。
その鬼塚さんの勇気ある行動を讃えるとともに、交通事故を無くそうという願いも込め、昭和49年に、この慰霊地蔵尊が建立されました。
鬼塚さんが亡くなってから64年経った今も、花や折り鶴が絶えることがありません。
そして昭和20年、原爆が落とされた後には、この坂の近くで悲しい記憶がありました。
長崎市滑石1丁目に住む松添 博さんは、瓊浦中学校(けいほ・現在の瓊浦高校とは別の学校)1年の時に自宅で被爆し、臨時救護所となった元軍医・宮島中佐宅の惨状も目にしています。
原爆投下から10日ほどたったある日、松添さんは打坂付近の畑でまるで人形のような顔をして着物を着せられ、これから荼毘に付せられようとしている2人の少女を目撃しています。
当時の状況を考えると「死んでから初めて着せられた」晴れ着を着る2人の少女の姿が、当時15歳くらいの松添さんにとっては、あまりにも不憫に思えたのでしょう。戦後29年経ってから「 悲しき別れ-荼毘 」と題して絵に描かれました。
その後、この絵がきっかけとなって2人の少女は福留美奈子ちゃん(当時9歳)と大島史子(ちかこ・当時12歳)ちゃんということがわかっています。
また美奈子ちゃんの母、志なさんは京都府綾部市に在住していたこともわかり、志なさんの「美奈子が亡くなった長崎の地にお地蔵さんを建てたい」という願いが元となって、支援の輪が広がった末、長崎原爆資料館の屋上に「未来を生きる子らの碑」が建てられました。
(写真は2011年8月9日撮影。志なさんは、2009年12月に107歳で亡くなられています)
松添さんの言葉 「悲しき別れ-荼毘」
けが人や死体には驚かないようになっていた私が、忘れ得ない情景を見たのは8月19日のこと でした。爆心地より約4キロメートル、滑石の打坂というところの畑の中で、2人の少女が積み上げられた 木材の上に寝かせてありました。10歳前後で、私は姉妹であろうと思っておりました。あの頃 見たこともない立派な着物を2人とも着ており、先ずその着物のあまりの美しさに私は我を忘れ て見とれていました。顔をみるとどこにも傷の跡は見られず、薄化粧がしてあり、その顔の美し さにも息をのんで見ました。死んではじめて着せられた晴着、死んではじめてされた化粧、周囲 の心遣いが逆に何とも哀れでなりませんでした。何と悲しいことであろうかと思いました。私に とっては強烈に印象に残った情景であり、その悲しい物語を残そうと、あの時とても美しい着物 は表現できませんでしたが、29年後1枚の絵に描きました。
松添 博
これが私が仕事や生活のために、ほぼ毎日通っている「打坂」の歴史です。
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