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大分・九重登山口で登山者達を見守る犬の像 ~ ガイド犬「平治」は皮膚病のひどい捨て犬だった

「犬の像」と言えば、JR渋谷駅前の「忠犬ハチ公」が圧倒的に知名度も高く人気ですが、九州大分県、九重登山口長者原(ちょうじゃばる)ヘルスセンター横には、今もなお九州中の登山者・トレッカーから親しまれる犬の像があります。

それが「ガイド犬平治(へいじ・雌)」の像です。平治号とも呼ばれます。(九重連山のひとつ、平治(ひじ)岳にちなんで、つけられました)

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このどこにでもいるような秋田犬は、仔犬の頃、九重の登山口である長者原ヘルスセンター近くに捨てられていた野良犬でした。

しかもひどい皮膚病にかかっており、体の大半から毛が抜け落ちた皮膚からは血が滲み出ているという、それは哀れな様相の野良犬なのでした。

この平治が私のような長崎の一サンデー・トレッカーにとって、どういう存在であるかをわかりやすく説明するために、ある日の登山行をもって示したいと思います

今回は像のある長者原からではなく、牧ノ戸(まきのと)峠から九州本土最高峰・中岳を目指すのですが、まずは長者原の平治に会ってから登山の成功を祈り、牧ノ戸へ向かいます。

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九重連山は阿蘇や桜島に比べて、美しいスロープを持つ女性的な山と親しまれ、かんたんに入山する人も多いのですが、実は9つの峰を持つふところの深い山で、遭難騒ぎも絶えません

1962年には、9人のパーティーが遭難し、7人が帰らぬ人となっています。

3時間前まで降っていた雨もあがり、牧ノ戸から出発します。左手の警告板には火山性ガスへの注意が書いてあります。

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平治が長者原登山口あたりに捨てられていたのは、昭和48年の夏のことです。平治は抜け毛がひどく、よもや秋田犬の仔犬だとは思われなかったのですが、後に堂々とした体躯に成長しました。

元の飼い主は病気だと知り、戻ってこられないような場所に捨てに来たのでしょう。

平治が皮膚病をなおし、ガイド犬として成長した陰には長者原バスセンターで切符売りをしていた荏隈(えのくま)保さんが深く関わっており、そのいきさつには次のようなエピソードがあります・・・・

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最初、野良犬の平治を見かけても、「なんとも、みっともない犬じゃなぁ」としか思っていなかったという荏隈さん。

そのうち、平治は登山者のお弁当のおすそ分け目当てで山についていくようになりました。

その秋の終わりの頃のこと。夜の10時近くに、疲れきった50歳くらいの夫婦が長者原ヘルスセンターへ降りてきました。そして荏隈さんに向かってこう言いました。

『 牧の戸登山口から入り、長者原におりてくる計画でした。久住分かれをすぎたあたりで雨が降り出したので、道を急ぎ近道をしました。

ところが、けもの道へ迷い込んでしまったのです。

ガスが出て見通しがまったくきかなくなりました。

・・・そのうち日がくれてきましてね。

体は濡れているし、寒くて寒くて・・・こんなに冷え込む山の中で野宿することにでもなったら、疲れと寒さで、死ぬんじゃないかと思ったくらいでしたよ。』

その後、すっかり登山道から外れた夫婦は、大声を出し合ったり、歌をうたったりしながらお互いを励ましながらも遭難を覚悟したといいます。

『 ところがですよ。私たちの前に、白っぽい犬が現れたんです。

地獄に仏とは、こんな時のことを言うんでしょう。

犬は不思議そうに私たちを見上げています。

山に慣れた、どこかの飼い犬にちがいないと思いました。

私たちはいっぺんに元気が出ました。

犬はとことこ前を歩いていきます。

私たちは犬を見失わないように、懸命になってついていきました。』

『 こうなったら犬だけがたよりですからね。

手探り足探り、犬の後を必死で追いました。

一時間あまりも歩いたでしょうか。

ふと気がつくと長者原登山口の近くに出ていました。

ここへ着くと犬はいつの間にかいなくなってしまったんですが、いったいどこの飼い犬でしょうか?』

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荏隈氏から、皮膚病の野良犬だと聞かされた夫婦は驚いたのですが、「自分たちが助かったのは、犬のおかげ」だとして律儀にも荏隈さんに「皮膚病を治してやってほしい」とお金を預けて帰っていきました。
これが大きな転機となります。

さて登山のほうですが、牧ノ戸から20分ほども登るとこの絶景が広がります。どうやら快晴のようですね!

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しかし、そのまま歩き続けるとガスが出てきて、雲行きが怪しくなってきました。まわりも一気に暗くなってきます。これが夕暮れ時などであると、相当心細い状況ですが、今は朝。ひたすら登頂を目指して進んでいきます。
早々と引き返していくご夫婦もおられました。

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切符売り場を担当していた荏隈さんは、山に精通しており、1962年の大遭難事故の時の捜索隊にも参加しています。

また荏隈さんの父親が猟師をしていたことから、猟犬など犬の扱いにも慣れていました
そして何より夫婦との約束を律儀に果たすという人柄が何よりのものでした。

皮膚病に効くという「湯の花」を近くから手に入れ、最初いやがる平治に根気よく摺りこんでやりました。一ヶ月もすると、平治の体に毛が生えはじめ、見る見る体も大きくなったといいます。

ある時、中学生達を荏隈さんがガイドした時に平治が張り切ってついてきたばかりか、中学生達に大人気であった姿を見て、荏隈さんは平治をガイド犬にしようと決心しました

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しかし平治が忠犬ハチ公や他の犬と違ったのは
荏隈さんはあえて平治をガイド犬にしようと決心した時から、けっして屋内で寝かせたりなど、いわゆる「飼う」ということをいっさいしなかったことでした。

訓練の途中で荏隈さんが避難小屋に泊まろうとする時も、平治が中に入ろうとすると厳しく叱り、それ以来平治は二度と勝手に小屋や建物の中に入ることはなかったと言います。


晴れ間に出たかと思えば、数分後には尾根を上昇気流がかけあがり、ガスでたちまち覆われます。時々ルートがわからなくなりますが、岩にペイントされた黄色いポイントをたどりながら歩きます。

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途中にはけっこうな断崖もあり、視界が悪いとかなり危険な場所もあったりします。

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そして鎖場となっているような急な登りも。

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当初、荏隈さんが見込んだ以上に平治は賢い犬で、トレーニングの途中でわざと荏隈さんがルートを外れてみると、平治はちゃんと立ち止まってそれ以上進むことはありませんでした。

それから登山シーズンになると登山口あたりで登山客を待つ平治の姿が見られるようになり、この不思議な能力を持ち、ほとんど吠えたことがないガイド犬に連れられて九重連山を歩いた登山者やハイカーたちが増えていきました。

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それから「くじゅうの名物ガイド犬」として有名になってきた平治を目当てに山にやってくるような人も増えてきたのですが、不思議と平治は新聞記者や遊び半分の人には目もくれず、たとえ一人でも登山口で地図を広げ困っているような人のところへ近づいていき、ガイドをしたといいます。

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九州の山とは言え、厳冬期にはマイナス20℃近くに冷え込む九重連山。

ある登山者が平治のガイドで真冬の九重に入り、山小屋に泊まった時のこと。

翌朝小屋の戸を開けると平治は雪の中にうずくまって登山者を待っていたということもあったそうです。

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しかし繰り返しになりますが、平治はけっして人に飼われ、暖かい寝床を持ち、餌をいつももらって飼われていた犬ではありませんでした。時折、荏隈さんや登山客から餌をもらいますが、寝床は山中などいろいろな場所にありました。

鎖でつながれることを嫌がり、山中で仔犬を生んだこともありました。
(その時は寝床を人間に知られることもなく、結局その中の数匹は死んでしまったのですが、最初のお産で荏隈さんの家につながれた挙句、仔犬を人間に引き取られてしまったことを平治は覚えていたらしいのです)

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中岳の途中には神秘的な池が現れたりと、その景色に魅せられます。当たり前ですが、来る度に山の表情が変わっていて、何度来ても飽くことがありません。

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文字通り紆余曲折の末、無事1791m、九州本土最高峰の中岳山頂に辿り着くことができました!

近くのお姉さんが、娘に「すごいね~」と言葉をかけ褒めてくれました。

山登りは達成感だけでなく、行き交う時の挨拶やこういったあたたかい交流がいいのですね。

普段はシャイな娘も「先頭を歩く人は、自分から挨拶をするべし!」と言っておいたせいか、何十回も頑張って挨拶をしておりました。

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私自身が平治のことを知ったのは、「ありがとう!山のガイド犬平治」(坂井ひろ子/偕成社)という本をたまたま湯布院の旅館で読んだことからで、その時はもちろん平治は既に亡くなっていました。

生きている平治に会いたかった、という思いから飼っていた犬を連れて九重に登ったこともありました。

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14年間にわたりガイドを務めた平治でしたが、残念ながら体の衰えが目立つようになり、これ以上は限界ということで「平治のガイド犬引退式」が1988年6月11日に開かれました

式には400人もの人が集まり、平治が山に入っていた14年間、ひとりの遭難者も出さなかったことなど、平治はおおいにねぎらわれました。

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ガイド犬の座を第二平治にゆずった平治でしたが、最後は登山客を案内して星生山のキャンプ場に入り、そこで息をひきとりました。1988年8月3日昼過ぎのことでした。平治らしい最後でした

平治と出合った人が平治のガイドぶりと感謝の言葉を書き込んだ「平治ノート」には5冊にもなり約2,000人の登山者が生き生きとその様子を綴っていました。


その年の8月6日午後、平治の追悼式典が開かれ、当時の九重(ここのえ)町町長が追悼のことばを読みました。

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登山も無事に終わりました。子どもたちは帰りに温泉に入った後、満足感と疲れで、この有り様でした。

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父や兄、犬と一緒に登ったこともあるし、ひとりで登ったこともある「我が青春の山」、九重。
またいつか平治に会いにきたいと思います。

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ガイド犬平治と「坊がつる賛歌」はいつまでも色あせることのない、九州登山者のスピリットなのです・・・。

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(記事作成:2013年)

※平治のすばらしい功績を伝える為に一部資料をお借りしています。

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江島 達也/対州屋
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