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長崎市民エフエムで「やっぱ長崎と ましゃば すいとぅ~」というラジオ番組をやったが、少しはいいこともあった

かなり昔の話だけど、地元のミニFMラジオ局でタイトルのような番組を3年間もやりました。
標準語で書くと「やっぱり、長崎と(福山氏)が、好きである」みたいな。

最初は同局理事長からのオファーか!と喜んだが、ただの営業だった(笑)
だが、理事をやるからと参加料をまけてくれたので、週1の番組を3年間も続けたのは、考えてみればすごいことだった。

内容は、福山氏の楽曲やトピックなどについて語り他、「いっちょん好かん」「こちょばいか」などという長崎弁、「くしゃみの後、心の中で「大魔王!」と言ってしまう」などという「あなたの昭和度チェック」など完全に個人の趣向。

ある時は、他のFM番組をやっている連中と宴会をしながらのオンエアということもあった。完全にヘベレケで、ひどいものだっただろう。

リスナーは、たまたまチューニングしてしまった5人くらいだっただろう。
ほぼ何の反響も無い、校内放送或いは放送クラブ的な?ラジオ局だったが、それなり「いい効果」もあったので、箇条書きにしてみた。

①「言葉に出して話す内容と頭で考えている内容は違う」ということをラジオをやって初めて知った。
自分で自分に話しかけていた効果が大きかった。言葉に出すことで、脳内の考えをまとめていた。

②この番組のことを福山 雅治氏のラジオに投稿した教え子のおかげで、当時の福山氏の民放ラジオ「オールナイトニッポン 魂のラジオ」のスペシャル企画番組に参加し、金子 昇さんと玉木 宏さんの間で福山氏とトークした。長崎での身の振り方についてなどを話せたことは大きかった。

③教え子と徹夜で福山氏の楽曲を合計16時間くらい流す無茶な企画番組をやった。教え子とスタジオの床に眠り、面白かった。

④当時長崎駅から19時代に発車していた京都行・寝台特急「あかつき」を毎回放送前に見送りに行っていた。
運転士さんとはある程度知り合いになった。廃止の時のセレモニーに参加した。

⑤永井 隆博士の孫である永井 徳三郎さんや兵役を拒否したドイツ人の若者などを番組に招いてトークしたことも貴重な経験となった。


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この駅前の風景も今では見られなくなってしまった。

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江島 達也/対州屋
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