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ヴァン・ゴッホの生前、唯一売れた作品である「赤い葡萄畑」


37歳で自死したヴァン・ゴッホにとって、生前唯一売れたのが、「赤い葡萄畑」という作品。

作品は、有名な「耳切り事件」を起こした1888年の12月のわずか一か月前、11月に描かれた。
つまり、「アルルの黄色い家」でゴーギャンと共同生活をしていた時のものである。

この「赤い葡萄畑」が売れたのは、それから1年後の1889年の暮れである。(つまり、ゴッホが自ら命を絶つ、約半年前)
この絵を買ったのは、友人の画家であり、また詩人でもあったベルギー人のウジェーヌ・ボックの実姉アンナ・ボックであった。
彼女はブリュッセルにおいて開かれた「20人会展」に出品された、この作品を400フランで購入した。アンナ自身もまた画家であった。

ウジェーヌ・ボックとアンナは、父の財産を使い、多くの才能ある画家たちを無償で支援したので、もしかするとアンナも、支援するという意味で「赤い葡萄畑」を買ったのかもしれない。
また、テオから「赤い葡萄畑」が売れたと聞いた時も、その相手がアンナだと知って、同情から購入されたのだと感じたかもしれない。

しかし、私は、アンナの画風からしても、本当に「赤い葡萄畑」をよい作品だと思って購入したことには偽りが無いのだと思っている。

アンナ・ボック 1848-1936
ウジェーヌ・ボック。ヴァン・ゴッホは、33歳のウジェーヌも、油彩に描いている。ゴッホによって描かれた「ウジェーヌの肖像」はゴッホの死後、ヨハンナによってウジェーヌに贈られ、またウジェーヌの死後、オルセー美術館へ寄贈された。私たちはそこで鑑賞することができる。

「赤い葡萄畑」を描いた頃、共同生活をしていたゴーギャンは、皮肉なことに、すでに画家として成功していたが、事件をきっかけに共同生活は解消され、ゴッホはアルル市民から「赤毛の狂人」と呼ばれ、有志30人から強制的に病院に強制隔離するよう嘆願書が出された。
このことは、ゴッホにとってかなり精神的にショックな出来事であっただろう。

発作と失神を繰り返す中で、自ら施設で療養することを望み、1889年5月から1890年5月まで、サン・レミにあるサン・ポール・ド・モゾール療養院に入所している。

その間、一日に2枚以上というようなスピードで多くの作品を描いているが、その費用はすべて画商として成功し、結婚もしていた弟テオによるものだった。
テオは、皮肉にもゴーギャンなど他の画家の作品を売ることでゴッホに送る費用も捻出していたのだが、ゴッホが自殺した半年後に体調を崩し亡くなった半年後まで、「赤い葡萄畑」以外の絵が売れることは無かった。

そして、弟テオが亡くなった後、テオの妻ヨハンナは、テオとフィンセントの間で交わされた書簡を整理し、1914年にオランダ語で書簡集を発刊した。また、フィンセントの回顧展を開催し、その知名度の向上に努めたが、10年後、アムステルダム生まれの画家ヨハン・コーヘン・ホッスハルク(Johan Cohen Gosschalk、1873年 - 1912年)と再婚するも、63歳という割合若い年齢で他界している。


テオのテオの妻ヨハンナと息子フィンセント・ウィレム。1890年にパリにて撮影されたもの。



その後の1961年、ゴッホの作品をアムステルダムに「フィンセント・ヴァン・ゴッホ財団」が設立され、ゴッホ家の遺族は専用の美術館をつくることを条件に、所有する膨大な作品を売却し、高額な富を手にすることになった。

テオの遺志を継ぎ、フィンセントの作品を守り続けたヨハンナは、ついに生前、ゴッホの作品による対価を受け取ることはできなかった。
そのことを考えると、何ともため息が出るとしか、言いようがない。


テオとヨハンナが暮らしていたパリの部屋には、下の3点のフィンセントの絵が飾られていたという。



馬鈴薯を食べる人々(1885年 ヌエネン時代)


花咲くアーモンドの枝(甥フィンセント・ウィレムに贈ったもの。1890年2月 サン・レミ時代)



ローヌ川の星月夜 (1888年9月 アルル時代)




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江島 達也/対州屋
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