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人は去り、時は流れ・・・ ~ 吉井町に残る炭鉱住宅

炭鉱住宅・・・炭鉱を経営する会社が労働力である鉱員さんたちを集めるために作った社宅で、家賃は無料であるのはもちろん、光熱費なども無料か非常に安いものだったようです。
従って、職を求めて各地から集まってきた人がすぐさま入居して働くことができたわけで、それが炭住のひとつの利点だったようです。
写真は佐世保市(旧北松浦郡)吉井町福井免あたりに残っている炭鉱住宅です。
閉山後は個人や市町村に払い下げられ、長い年月を経過しているので、市営(町営)住宅だと認識している方も多いようです・・・

会社としては多くの労働力を集めるために同じデザインの長屋風建築を一度にたくさん作ったわけですが、家賃以外にも魅力的なポイントがこの住宅・住宅街には結果的にたくさんあったようです・・・

そのひとつは、同じ間取り(厳密には幹部用、功労者用など違いはあった)でしたので、近所同士、非情に親近感が持てた、ということです。
軍艦島のような特殊な場所でない限り上層階、下層階というものもなかった。
つまり同じ規格でフラットだったという炭鉱町は同時に隣人に対する意識もフラットなものであったというわけです。

次に、造りがしっかりしていたという点です。
ご存じのように炭鉱というのは、地下数百mまで降りてゆき、水平坑道などは数kmも伸びているということもざらでした。
その坑道を押す地圧の力は平方mあたり何十トンというものですから、その坑道を支える鉄筋コンクリートの建築技術には各炭鉱とも非常に長けたものがありました。
よって住宅のRC(鉄筋コンクリート)構造なども、必然的にしっかりしていたというわけです。
これは台風のシーズンなどには住人にとって大変有り難いことだったでしょう・・・

また炭鉱というのは、その場所の石炭を掘り尽くせば閉山となり、また次の炭鉱へ移っていくというのが常でしたので、絶えず人が流動していました。ということは、「地元、よそ者」などという偏見が無かった、ということです。
むしろ炭鉱という運命共同体の仲間同士として連帯意識が強く、そこから「ヤマ(炭鉱)は、ひと家族」と言われたような血の通ったコミュニティを形成することができていました。

写真は「万年風呂」というプレートのあるお風呂の焚き口に置かれたマリア像と人形です。万年商店は福岡県朝倉市にある会社のようです。

その他、共同スペースなど炭鉱町の様々な長所については、こちらをご覧ください。


RC造に大きな窓。梅雨期の湿気や夏の暑さ、そして冬の採光などに有効であったと思われます。炭鉱住宅にはけっこう洒落たものが多く、こういった住宅の造りひとつをとっても鉱山技師たちの腕のよさが表れているように思います。

岐阜県中津川のフォーク・シンガー、笠木透さんの曲「川のほとり」の歌詞の中に次のような一文があります。

『 めぐる夏の雲がゆく 心のほとりの月見草
 一夜限りの花なのに 心をよせる人はなし
 同じ土 同じ草 変わりはないのか 悲しいぞ 
 人は去り 時は流れ 変わっていくのか 悲しいぞ 』

今でもこのドアが開いて中から子どもが出てきそうな感じがしますが、もうそんなことはないのですね・・・・

(元記事作成:2011年07月23日)

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江島 達也/対州屋
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