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子ども日本風土記 (佐賀) 「 炭坑の町 」


炭坑の町


おとうさんは五坑につとめています。
山口駅の方から、私たちの住んでいるこの小高い五坑を見ると、二つの大
きなボタ山が三角形にそびえていて、同じかんかくに電燈がともりますが、昔は、このかんかくがもっと短かく、あかりをつける場所も多かったので、まっくらな夜の中にキラキラとかがやいて、人びとは「不夜城」とよんで
いたそうです。
ボタ山も、昔は直角三角形のように先がするどくとがっていたそうですが、今は、まるくなって草がたくさん生えています。
それは炭坑からあまり石炭がとれていないためです。
ときどき、おとうさんとおかあさんが話しているのを聞くと、石炭が出なくて、炭坑がだんだん苦しくなっていることがわかります。
でも昨年のクリスマスはすてきでした。
おとうさんが会社から帰るなり、「ふみ子いいことがあるぞ」と私を公民館にひっばっていきました。
出炭目標額六万トンをとっぱしたので、おいわいに会社から社宅の一けん一けんに大きなクリスマスケーキがくばられたのです。
それには社長さんのていねいなお礼のことばが手紙の形でそえられていました。
私は、そのケーキにおどろいたりよろこんだりして、両手にかかえて家に帰りました。
けれども今年になってから、また日標額にたっしない苦しいじょうたいが続いているそうです。
ときどき夜に、坑内からおとうさんに電話がかかります。
それは、事故の知らせであったり、仕事のさばけないことだったりします。そしてその声は、千メートルも地の底からとのことで、「少し声が遠いな」といいながら、ときどき私たち家族には通用しない炭坑だけの「あんごう」のようなことばを使ったりしますが、その中には私たち家族が思わずわらい出すような「ェプロン」とか「ポケット」「フケ」「おろし」というような言葉があります。
ある日、おとうさんは目のふちを黒くくまどつて、家に帰ってきたことがあ
りました。ちょうど女の人がアイシャドウをしたように目が大きく見えるのでびっくりしましたが、それは坑内の石炭の粉がいつのまにかくっついていて、おふろにはいってもすぐには、とれないということでした。
私はふしぎな思いもしましたが、おとうさんの役目は、とても大変だと思い、心の中で「ありがとう」と小さな声でいいました。
事故が起こると、みんながねむっている夜中であっても会社にとんでいかねばならぬおとうさんのためにも、昔のようにあかりの多い五坑だったらなぁと思います。

( 杵島郡江北小四年  川副 ふみ子 )

日本子ども風土記(佐賀)

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私の祖父母は、この炭鉱があった場所から、ほど近い佐賀県杵島郡白石町で農夫をしていた。
南満州鉄道時代は、大陸で昇進話もあったそうだが、なぜだか終戦の4年も前に、その昇進話を蹴って内地勤務に戻り、東京~福岡と勤務地を移った後、農業を生業に選んでいる。
「にわか農夫」であったため、大変苦労したらしいが、当時杵島炭鉱が栄えていたため、よく野菜をリヤカーに積んで売りにいったらしい。

作文の女の子の父親が勤めていた五坑も昭和40年代に閉山となっているので、この作文の後間もなく、この地を離れざるをえなかっただろう。
その事を思うと胸が痛む。
それだけに、クリスマスの日に、うれしそうな顔でケーキの箱を抱えてうちへ帰る父と子の姿が、まぶしく浮かんでくる。


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