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今もなお 立ち続ける証言者たち ~ 長崎の被爆樹木に会いにゆく ②

若草町を後にし、今回爆心地よりわずか800mという至近距離にある被爆木を探します。800mという距離はちょうど山王神社の大クスと同じ距離にあたります。
竹の久保町にある引地さん宅の柿の木とカシの木です。引地さん宅は活水学院中・高等学校と長崎西高校のグラウンドの間に位置しています。
カシの木の方は、比較的すんなりと見つけることが出来ました。

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このカシの木は被爆時、中ほどからへし折られたそうなのですが、2年ほど経ってからまた芽吹いたそうです。向かって右側が爆心にあたり、やはりそちら側には枝が伸びきれないのがわかります。

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そして今回、もっとも痛々しい思いを抱いた「被爆木」が、少し離れた引地さんの親類の方にある柿の木でした。
引地さんにお断りして探してみても、すぐにはわからず何度か行き来してやっと確認できたのがこの木でした。
家屋と家屋に挟まれた裏手の狭い場所にあり、まずこの木を見に来る人はいないでしょう。

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爆心と反対側から見ると普通の柿の木なのですが、爆心側にまわって見るとざっくりとえぐり取られています。

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まさにこの方向に爆心がありました。この付近にある瓊浦中学校(現・長崎西高校の場所)や鎮西学院(現・活水女学院の場所)の校舎が壊滅するほどの爆風と熱線を浴びた当時のそのままの姿がそこにありました。

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なにせ鉄骨をぐにゃりと飴のように曲げる熱線が樹皮を焼き・・・
(画像は瓊浦中学校にあった貯水タンク)

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校舎を叩き潰すほどの爆風がこの木に襲いかかったわけですから。
(画像は瓊浦中学校・敷地の爆心とは反対側にあった場所)

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丘のうえに見える建物が鎮西学院(現・活水学院中・高)です。木はこのすぐ近くに立っていたわけです。
(写真には瓦礫の中に立つ電柱が見えますが、これは被爆後に立てられたもののようです)

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引きちぎられた樹皮の部分には当時板塀か何かあったのでしょうか。或いは爆風により何かがこの部分を削り取っていったのかもしれません。いずれにしても、この姿のまま立ち続けていられたのも奇跡的なら、こうして今も尚葉を茂らせていることも奇跡的なことです。

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この柿の木は2年ごとに多くの実をつけるそうです。この時も付近には柿のみのへたが散らばっていました。

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何の案内もなく、訪れる人はなくとも、この柿の木は凜としてここに立ち、木陰をつくり、被爆の実相を今も語り続けています・・・。

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この後、稲佐小学校の被爆クスはどうなっているかと思い立ち、行ってみました。しかし、残念ながらクスはまったく一枚も葉をつけていませんでした。近所の方に聞くと、ここ数年クスは葉を茂らせていないということでした。

その後は稲佐地区にある悟真寺近くにある曙町、吉村さん宅の榎(えのき)の木を目指します。(爆心より2.3km)

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この木は悟真寺裏手の稲佐国際墓地に面した通り沿いにあり、すぐにわかったのですが、平成8年の写真に比べるとかなり枝が落ちています。折れて通行人に当たるといけないということで切られたのでしょうか?

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こちらが爆心側です。キャプションにあるように、爆心側には枝が出ていません。

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被爆後も道ゆく人に木陰を提供し続けてきた被爆クスも、樹勢が衰え、すっかり蔦に覆われてしまっていました。

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墓地の中に立つこの大クスも被爆木です。

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やはり爆心側に枝が少なく伸びきれないようです。

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次に向かったのは、長崎駅の東側に位置する福済寺です。ここは爆心から2.4kmという距離にありますが、間に遮る山が無い為、大きな被害を受け、本堂は全焼しています。
唯一、ソテツの木だけが残っています。

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このソテツも爆心とは反対側から見ると、まったく普通なのですが、被爆した部分を見ると痛々しい傷跡がそのまま残っています。

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熱線により焼かれた部分は成長することもなく、そのままの姿を晒しています。

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これは被爆資料集の中にあった福済寺の羅漢さんの写真です。

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この羅漢さんもソテツとともに悲惨な被爆の様相を見てきたわけですね。

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今もじっと空を見つめるその姿・・・。原爆が落ちてきた方向を見ているように見えます。

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そいて次は桜町小学校(旧・勝山小学校)のクロガネモチです。
「勝山国民学校」であった同校は、被爆当日より臨時救護所となり、西山を越えて運び込まれる重傷者で溢れました。(爆心より2.9km)

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救護所となった校舎もすっかり建て代わり、校名も変わってしまいましたが、このクロガネモチは、ここで亡くなって行った多くの被爆者の姿を見てきたわけです。

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最後に訪れたのは家野町、井手さん宅のマキの木です。(爆心から1.5km)
ここは現在の長崎大学文教キャンパスのすぐ隣りにあたります。被爆時、同キャンパスは三菱兵器工場があり、壊滅的な被害を受けたところです。

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やはりこのマキの木も爆心側に樹皮の色の変わった部分が確認できます。この木は「兵器工場標柱」とともに、犠牲となった多くの動員学徒たちの無念さを現代に伝えるものですね。

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本当はまだ他にも多くの被爆木はあるのですが、今回はひとまずここまでとしました。

案内板が設置してあり、ひと目につく木もあれば、まったく人知れぬ場所にひっそりと立つ木もありました。
また痛々しい傷を晒しながらも葉を茂らせる木もあれば、一見枯れてしまったような木もありました。

しかし、いずれの木も十分な整備・案内があるとは言えませんでした。被爆された方々は高齢化し、年々亡くなっていかれます。そういった方がまったくいなくなる時代もそう遠い未来の話ではありません。
そのときには「被爆遺構」やこういった「被爆木」が背負う役割も大きくなることと思われます。今のうちにきちんとした整備・案内が必要であると痛感しました。

(元記事作成:2013年7月)

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江島 達也/対州屋
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