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福山 雅治 ファミリー・ストーリー ~ 私がかつて目指した方向性を確認できたこと

私が中学校教師である時代、勤務5校目となる長崎市丸尾中学校に赴任してきた時のこと。

どんなタイミングか、は忘れたが、福山 雅治さんの楽曲「蜜柑色の夏休み」を聴いた時、自分の中で何かがつながった。

♪ 8時6分発、ヂーゼル汽車に乗って、蜜柑のおばあちゃんの笑顔に会いに行こう~~・・・・

これは、彼が幼かった頃、長崎本線旧線で、東園駅からほど近い祖母の家に遊びに行く時の思い出を歌った楽曲の冒頭の歌詞。

自分もまた同じ長崎本線で、祖父母の家に行っていた思い出とオーバー・ラップして、この曲に引き込まれてしまった。

そして、赴任した丸尾中学校辺りの景観は、その「蜜柑色・・」のルーツそのものだと感じた。
実際に福山氏が育った実家は、隣りの淵中学校校区なのだが、何故か「街並み」は、こちら丸尾だという不思議な自信があった。

そして番組の中で、両親が暮らし始めた家も、出会った親戚の家も、仲人を頼んだ方の家(この方は、偶然私のお客さんだった)も、全て丸尾中学校の校区内であったことが判明した。

その後、KTN(テレビ長崎)の40周年企画として、この「蜜柑色・・」の世界観を絵本にしたい、という企画を福山氏の事務所にオファーしてもらったり、地元・長崎市民FMで「やっぱ、長崎とましゃ(福山氏)ば、すいとぅ~」という番組がきっかけで、稲佐山ライブに合わせて17時間連続の福山雅治楽曲オンエアをやったり、ついにはニッポン放送の「オールナイトニッポン~魂のラジオ」の番組内で福山さんと話をさせてもらったりということもあった。
その番組のオープニングは、もちろん「蜜柑色・・」を使わせてもらっていた。


ファミリー・ストーリーの中でも、母方の祖母・貞子さんのエピソードは、大変印象的なものだった。

福岡県大川市の商家に生まれ育ち、長崎県大草の蜜柑農家に嫁ぐも、夫は40歳で病死してしまう。

その時、下は2歳、上は12歳まで4人の子どもがいたが、独りで蜜柑畑の重労働をこなしながら、子育てをしたと。(長女・勝子さんが福山さんの母)

私の母方の祖母も同じだったが、福山さんに嫌な顔ひとつ見せたことがない人だったらしい。

福山さんが高校卒業後、勤めていた会社を5ヶ月で辞めて、東京へ行きたいと言った時も、10万円ものお金を渡して応援してくれたのだとか。(福山氏は、そのお金を靴下の中にしまい、夜行列車に乗って上京した)


私自身がなぜ、あの「蜜柑色の・・」の楽曲にあれほど「とりつかれた」のか?
「蜜柑色・・」の楽曲があり、あの地区に赴任したことがきっかけで、私の方向性が定まり、今がある。
長崎の街を想うこととしての「対州馬の保護育成」がある。

その源流は、祖母貞子さんの「想い」だったことが、番組を観て確認できたことは、大変感動的なことでした。

写真は、写真家でもある福山さんが撮った貞子おばあちゃんの「手」です。

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そして、この「道標」は、貞子おばあちゃんのことを歌った楽曲。

今、私の娘は福山氏と同じ長崎工業高校の3年で、3年の課題学習として「長崎の街」をテーマとした動画を制作している。
コンセプト・イメージは、やはり福山氏の長崎を歌った楽曲「18」であるらしい。

ここにも「蜜柑色・・」の貞子さんの想いが繋がっている気がする。


幼少期257

fu uh uh 元気かな 元気かな
fu uh uh おばあちゃんの あったかい笑顔・・・

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