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私が対州馬を絶滅から救いたいと思う理由 その88

娘とひん太 Ⅱ

 

今は、家を離れてしまった娘ですが、あらためて日記などで振り返ってみると、娘と対州馬ひん太との間は不思議な縁があると感じます。

 

幼い頃から娘は、動物が好きで、それもウサギやモルモットなどの小動物を膝に乗せると、「この世にこれ以上の喜びは無い」と言ったような顔をします。

小学校2年の時、苦手な給食がきっかけとなって登校を渋る時があったのですが、バイオパーク(ふれあい型の動物公園)で子犬とうれしそうに触れあっていたのを思い出し、近所のお馴染みの犬を投稿の時に借りて一緒に登校するということがありました。
最初は校門まで行って、徐々に距離を短くし、最後には犬と一緒でなくて、自分一人で行くようになりました。

その頃、長崎新聞で月に一回コラムとイラストを担当していたのですが、その取材で訪れた大村市で、一頭の対州馬と出会ったことが、私にとって運命的な出会いでした。

それから対馬滞在中に深夜のNHKで「人力だけで日本百名山をトラバース」している田中 陽希氏の存在、娘や息子と参加した福山 雅治 稲佐山ライブビューイングの中で「帰るたびに懐かしい長崎の風景が無くなっている」という言葉に背中を押され、対州馬ひん太との出会いが実現しました。

 

初めて馬を飼うということであり、まず馬を手に入れるということもそうですが、実際に飼養する場所の確保には大変苦慮しました。

 

結局は、自宅から片道25分もかかる山の中になったのですが、そんな道のりにも関わらず、娘はよく、ひん太の世話についてきました。

初めの頃は、「ひん太に、プレミアム青草を食べさせる!」と言って、少し離れた場所のクローバーやマメを採っていました。

 

また、夏休みが終わる頃、部活動が無くなると、新学期の9月1日まで連続4日間も夕方ついてきました。

クリスマスの日も、元日の夕方にもついてきました。

隣接する馬のいる施設に人が大勢いて、何だか寂しいような状況であるときにも、娘が一人ついてきてくれると、百人力でした。

年が明けて、大雪が降った時には、自分もぜひ朝から一緒に行きたいといってくれました。

 

今はデザインの勉強を福岡でしていますが、小学6年の時のなりたい職業はドッグ・トレーナーでした。

 

東京パラリンピックをテレビで観ていた時には、もし自分が身体にハンディを負ってしまったら、馬術競技を目指すと言いました。

 

これらのことを考えると、やはり不思議な縁を感ぜずにはいられません。

 


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江島 達也/対州屋
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