
差別と生命へのリスペクトの欠如から戦争が生まれる
最近では、平和学習も盛んになったようだが、相変わらずその「まとめ」は「戦争は二度としてはいけない。平和は自分たちの手で守り続けていかなければならない」といった浅いところで終わってしまっているようである。
「なぜ、二度としてはいけない戦争が、紛争も含め、有史以来一度も途絶えたことがないのか?」・・・そこからが、本来の【学習】であるはずである。
私は、差別と生命へのリスペクトの欠如から戦争が生まれると考える。
一見、「差別」などで戦争にまで発展するか?と思うかもしれない。
しかし、世界史を簡単に振り返ってみても、「~人の侵入」「~帝国の侵略」「~教と~教の対立」「~主義の台頭」など膨大な数の争いの元は、自分(達)とは異なる存在への「異教徒扱い」「他民族扱い」「外国人扱い」「野蛮人扱い」など「~扱い」という差別に他ならない。
地球規模で考えれば、さしたる違いでも無いのに、決して許せない違いであるかのように扱い、そのようにふるまうことはこの世に存在する命へのリスペクトの欠如とも言える。
生命へのリスペクトの軽視の歴史については、太古より同じ人間を奴隷として扱ったり、何の根拠もない身分制度を一方的に押し付けるなど、やはり枚挙にいとまが無い。
他人の存在を気にすることなく傍若無人にふるまう行為も十分、生命軽視であり、この意味では地球上の限られた資源や自然を独占し、多くの人々を極度の貧困や飢えに追い込む経済行為もまた十分な生命軽視と言え、戦争の火種と成り得る。
であるから、私たちが平和について考える時、常に心の奥に生まれてくる「差別感情」と「生命軽視」をいかに抑え込むかを同時に考え、話し合うべきなのである。
しかし、これは頭で考えるほどたやすいことでは無い。
例えば、車を運転中に横合いから合流しようとしていたお年寄りの車を入れてあげたとしよう。
ところが、入れてあげたにも関わらず、その車はあり得ないぐらい低速で走行し、大変イライラさせられたという経験があるならば、もうその後、入りたそうにしているお年寄りの車に出会っても、二度と入れてあげることはないだろう。
しかし、それはあくまで「確率」であって、その過去の因縁が過度な反応となれば、それは「年寄り扱い」という立派な差別である。
合流しかかったお年寄りの車を強引に妨害するようなことをすれば、「怒り」という感情を生む。
それが、具体的な行動となると立派な争いが発生するというわけだ。
また、合流させてもらった側の立場から言えば、せっかく合流させてもらったのに、その後不自然なまでに、低速で走行し、後ろに続く車の運転者の存在を無視しているとすれば、これはやはり他者の生命へのリスペクトに欠けると言わざるを得ない。
このような事例は人の世には無数にあり、誰もが結構な割合で遭遇する。
このような時にどのように対処すれば、負の感情を持たずに済むのかについて議論すべきであろう。
まったく関係ないようで、そういう試みこそが未来において戦争を無くす可能性につながるのだ。
いいなと思ったら応援しよう!
