子ども 日本風土記〈長崎〉より① 「大浦天主堂の下で」
昭和47年発刊の「子ども日本風土記」は当時の子どもの作文を各県ごとにまとめてあるものですが、「大人ならではの利害を考えた忖度」もなく当時の風俗や家族の暮らしの様子をリアルに伝える貴重な資料となっています。
今日に照らすと、家族観などおおいに参考となるとか考え、何回かに分けて紹介いたします。
大浦天主堂の下で
長崎市大浦中 二年 平野 厚子
『 私の家は、大浦天主堂の下の小さな売店で、長崎名物のザボンや、パイナップル、おかし類、飲み物、夏はみつかけ(かき氷)や、すいかなどをうっています。
むかしはよく売れていましたが、このごろ大きなみやげセンターが三つもできました。
唐人館、観光土産センター、異人館と、大きな建物が三つもできて、お客の取り合いのような形で争っています。
ことに、異人館ができたために、私の家は、お客は通らないし、売れません。
坂の上の方から、異人館の入り口へみんな入れてしまいます。
異人館には。土産センターのほかに、資料館、食堂などもあるのです。
家では困ってしまいました。そして、父が異人館に話にいきました。
そしたら、私の家も土産センターの中に入らないかと言ってきました。
ふつう土産センターの中に入るには、はじめ三十万円くらい出して、家賃が十八万円くらいで、その上にその日の売り上げの二割五分も収めなければなりません。
でも、私の家には迷惑をかけているので、家賃もいらないし、ただ二割五分収めればいいと言ってきました。
しかし、それでも私の家にはきつすぎます。
だから入りませんでした。
でも、お店はなかなか売れません。たまにお客がおりてきても、売れるとは限りません。
たまにはお客さんから送りをたのまれることもあります。送った後、お礼の手紙が届いて、
「ザボンがとてもおいしかったので、また送ってください」と言ってきたこともあります。
そんなとき、父母は喜びます。
大浦天主堂の所には、小さなお店が二十軒近くあります。
バスの駐車場には、ザボン売りやアイスクリーム売りの人が、やはり十何人もいます。
私の家にとって、お店だけがたよりです。
母はよく、「もっと売れんば困るけんね」と、ぐちをこぼします。
でも、今からどう変わるかわかりません。
だんだん小さなお店は大きなお店に食べられてしまいそうですが、みんな一生けんめいがんばっています。 』
☆彡
今の大浦天主堂下界隈を確認してみると、作文中に出てきた「唐人館」も「異人館」も「観光土産センター」も見当たりません。
個人商店は一軒あるかないかぐらいのようです。
別の大手資本がこの辺りを買収して店舗を展開しているようですが、残念ながら昔のような活気は無く、利益を上げている店舗は無いのではないかと思われます。
今は何でもネットで検索してワンタッチで購入できるので、店舗で気に入ったものが目に付いたとしても、高価なもの、まとまったものは何でもネットで買うためです。
そう。50年近くの間に、最初の「我田引水」式?な資本が、このあたりの人気(ひとけ)をすっかり無くさせてしまっています。
第一、【はじめ三十万円くらい出して、家賃が十八万円くらいで、その上にその日の売り上げの二割五分も収めなければなりません】とこんな無茶苦茶なブラック商法で利益などでるはずもなく、結局自分たちも倒れる結果を招いてしまっている事実は、「愚か」以外の何物でもありません。
この作文を書いた平野さんのお店ももう間もなくお店をたたまなければならなかったでしょう。
その時、平野さんはどのようなきもちになったのでしょうか。
そして今、どのような気持ちで、大浦天主堂界隈の様子を見ておられるでしょうか?
とっても考えさせられます。