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三池炭鉱・宮原坑において、坑底に下げられた対州馬などの坑内馬は、囚人坑夫たちの不満を抑えるための見せしめとして敢えて残虐な扱いを受けた

武松輝男さんという、三井三池炭鉱で働かれていた方がおられまして、もう亡くなられてしまっているんですが、この方すごい方でして、どうすごい方かは、またいつか話していきたいと思いますが、この武松さんが描かれた「坑内馬と坑内馬と馬夫と女坑夫 地底の記録−−呪咀」とう本があります。

この本が、もしこの世に無ければ、炭坑の坑内で働かされた馬たちのこと、とりわけ三井三池炭鉱の宮原坑で残虐な扱いを受けた対州馬を中心とする在来馬たちの真実は、文字通り坑底の闇の中に永遠に葬り去られていたでしょう。

武松さんの執念ともいえる取材が、そして深い地底で無念の死を遂げていった馬たちの魂が、今私にこうして語らせていると言っても、何ら誇張はありません。
残念ながら、この本。出版社が無くなっていることで絶版となっており、もう古書か図書館でしか見ることができません。

思えば、私の対州馬との出会いそのものが、何か見えない力によって、三池炭鉱宮原坑に導かれるための伏線であったような気がしています。

石炭というのは、太古の植物の化石でありまして、当然火を付ければ燃えます。
明治期に主力であった蒸気機関の燃料して、また鉄を造る過程の燃料として、列強が喉から手が出る程欲しいものが石炭でした。

ただ問題なのは、石炭のある地層に沿って深く深く掘り下げていかねばならず、当然地上から何キロという深さまで、掘り進まないと手に入らないという点です。

まだ機械化が進んでいなかった明治から昭和初期にかけては、石炭を掘りだす為に、人馬が頼りだったわけです。

一番の深刻な問題は、その環境です。

私は以前、長崎の軍艦島でツアー・ガイドをしていたことがあります。その時、ツアーのお客さんに次のような説明をしていました。

:炭鉱の坑内は、体温よりも高い40度前後。湿度は、ほぼ100%。そこにいるだけで汗が噴き出てきますが、湿度が高いため汗が渇くことはなく、体温は急激に上昇し、塩分も失われていきます。


おまけに地中には地圧というものがあり、地表から1,000m下では1平方メートルあたり60トンもの地圧が押してきます。大型の観光バスが1台約20トンあるので、畳半畳ほどの坑道内は、観光バス3台もの地圧で押されてきていることになります。

さらに悪いことには、優良な炭層の近くというのは、ぜい弱な地層が多かったそうです。上から岩盤が落ちてくることを「落盤」、横からのを「崩落」、下の地層が盛り上がってくることを「盤ぶくれ」と言います。

坑道内の写真を見ると、鉱員さんの頭上にある直径30~40cmもある坑木が地圧によりへし折られています。鉄柱であっても、ぐにゃりと曲げられてしまうこともあったそうです。

さらに・・・炭層というのは、生成過程においてメタンガスを蓄えます。メタンガスは人体には無害ですが、空気中の濃度が10%以上になると自然発火を起こします。石炭を掘る、という行為はメタンガスをどんどん出すという行為でもあったわけです。(バッテリー式のキャップランプが開発されるまでは、カンテラと呼ばれる「火」を灯りにして作業が行われていました。)坑内はもちろん火気厳禁なわけですが、ツルハシや炭車の火花、そして自然発火により大爆発が起こったのです。

また、石炭そのものも「燃料」として掘っています。坑内は炭塵(たんじん)と呼ばれる細かい石炭の粉が黒煙のように立ちこめていましたので、一度火災が発生すると、まさに「火に油を注ぐ」という状態になりました。(炭塵は、肺に入ると、塵肺という不治の病を引き起こしました)。

さらにさらに・・・石炭の「炭」は一酸化炭素(CO)の「炭」です。炭層には一酸化炭素がたまっていることがあり、石炭を掘ることは一酸化炭素を蓄積させる危険もはらんでいました。一酸化炭素は無味・無臭で、ヒトが感じとることはできません。

しかし、一酸化炭素中毒の症状というのは、その人が「気持ち悪い」と感じた時には、もはや手遅れの事が多く、やがては死に至ります。

坑内で火災が発生すると、狭い坑道内には、この一酸化炭素が、あっという間に充満しました。(昭和38年11月9日、午後3:15頃に三井三池炭鉱三川坑で発生したガス爆発では、458人の死者、そして839人ものCO中毒患者を出しました)

CO中毒というのは、強い頭痛、不眠、記憶障害、いらつき等の症状を引き起こし、重度の場合は植物人間状態となってしまう、恐ろしいものです。


続けるのも辛いですが、さらには、掘進中に地層に溜まっていた地下水が出てきたり、川や海の水が流れ込むという事故もあったようです。

もうこの辺で、やめにします。」

軍艦島ガイドの途中、お客さん7~8人と、見学所のベンチに腰掛けて、「もし、このメンバーだけ特別に坑道におりてよい、という許可が出たとしたら、あなたは行くか?」という雑談をしたことがありました。
「行く」という人はひとりだったと記憶しています。あとの方は「行か(け)ない」と言っていました。
もし、私だったら・・・・。ただ取材のためだったら、行きたいと思います。でも、働くのは無理だと思います。
その、たった1回行くとしても、前日には家族の顔をしみじみと見ておくだろう・・と思います。

炭鉱とは、そのような「労働環境」でしたから、最初「金になる仕事がある」と聞いて集まってきた労働者たちも、なかなか定着しませんでした。
当然のことです。命あっての物種ですからね。

しかし、大資本としては何としても石炭を掘り出したい。そこで特にここ、三池炭鉱の宮原坑で目を付けたのが、囚人という「ただ同然の労働力」です。

当時まだ「人権」なんて、見向きもされない時代でした。
また仏教の考え方には「六道」というものがあって、その価値観が人々の間に深く浸透していた時代でもありました。

「六道」とは、生きとし生けるものが、その業によって天道(てんどう)、人間道(にんげんどう)、修羅道(しゅらどう)、畜生道(ちくしょうどう)、餓鬼道(がきどう)、地獄道(じごくどう)の6つに分けられるという考え方です。

当時の囚人たちは、この六道の中で人間道の下である修羅道にあたるとされました。つまり、「人間ではない存在」として扱われたわけです。

いつ命を落としてもおかしくない炭坑において、使う労働力しては、これほど都合のよい存在はなかったわけです。
事故で死のうと弱って死のうと、誰からも責められず、保証金はおろか賃金すらほとんど支払わなくてよかったのです。また死亡後は、弔いなどする必要もありません。人では無いのですから。
墓などなく、現実には「病気や怪我・飢餓により弱りきって、とても労働力として使えなくなった囚人は、まだ息のある内から、深い穴の中に重なるように投げ捨てた」という記録もあり、実際に折り重なるように埋まっていた囚人たちの骨も発掘されています。
そのような事実もあり、宮原坑は別名「修羅坑」と呼ばれ、恐れられました。

しかも、この宮原坑の近くにたまたま監獄があったというわけではなく、わざわざ炭坑で使用するために、近くに、長崎や佐賀など近隣から囚人を集める「九州一円囚人収容センター」とも言える巨大な監獄地帯を造っています。

今でもその壁の一部は、鑑別所が無くなった後つくられた三池工業高校の敷地に残されています。

囚人たちは、その強大な壁に阻まれ、逃げ出すこともできない状況の中、毎日手足首に鉄の鎖をはめられたまま囚人道路を歩き、サーベルを持った警官に監視されながら、坑道内に送られ、坑道内では一切食事も与えられない中で、12時間以上という劣悪な重労働を課せられました。そして死ぬと人として弔われることもなく、道具の一部として新しい囚人に取り換えられました。

囚人と言っても明治初期においては西南の役で政敵となった九州諸藩の氏族たちが主で、別に罪を犯した者ばかりと言うわけではありません。そこへ送られた囚人たちが、毎日どのような思いで坑内へ向かっていたかは、容易に想像がつきます。


苦しい坑内労働が終わると監獄へ戻され、またそこで地獄のような仕打ちを受けました。一応、「懲罰」と呼ばれますが、内容は「リンチ」そのものです。

例えば「他の囚人に食べ物を分け与えた」とか「書物を団扇がわりにして扇いだ」といったことで、減食の懲罰を受けています。監獄が取り壊された跡を調査すると、地下室から拷問のための道具が多数発見されたそうです。

どう考えてもこれは、「懲罰」というものではなく、看守たちが「囚人たちが苦しむ姿を見て楽しむための」享楽と「恐怖による支配の為のルーティーン」であったことがわかります。

囚人とは言え人間ですから、自分の悲しく辛い運命をどれほど呪ったことでしょうか。

しかし、中には余りに激しく辛い虐待に負け、自ら命を絶つものも少なくなかったと言います。

囚人の自殺の方法としては、竪坑道を上下するエレベーターに乗っている時、一瞬すれ違う逆方向のエレベーターの前に頭を突き出して自らの首を切り落とすということもあったと言います。囚人たちにあまりにも絶望が広がると出炭に影響が出ます。そこで「修羅道である囚人よりも下」であるという役目を利用されたのが坑内馬たちでした。

当時、機械化されていない炭坑では、石炭の運搬に馬が多く使われました。

とりわけ背が低く小柄な割りに脚が強く、力があった対州馬などの在来種の馬は、天井の低い坑道内で働かせるのは好都合でした。おまけに「粗食に耐える」という点でも、経営側にはうってつけでした。
三池炭鉱に限られず、同じような理由で、福岡の筑豊や、その他九州北部に点在した多くの炭鉱で馬たちが使われました。

多少の差はあれど、炭鉱の坑道内の環境の悪さと劣悪な環境は変わらず、何も知らずに連れて来られた馬たちは、一度坑道におろされるとしばらくは坑道内の厩舎に留め置かれ、人間のように労働が終わっても、すぐに昇坑することはできませんでした。
その挙句、寿命が25年近くあった馬たちは、早い年数で亡くなっていきました。

ここまでは、割合に知られている事実です。

しかし、三池炭鉱の宮原坑では坑内馬に与えられた「役割」が他の炭鉱とは、決定的に違っていました。
武松さんは、執念の聞き取り調査でかつての馬方たちを訪ね歩き、証言をまとめた結果、「坑内馬と馬夫と女坑夫」の中で、次のように結論づけています。
それは、多い時で7割を占めた「囚人たちの不満や惨めさをそらす為」です。

つまり「六道」で言うと囚人たちは「修羅道」に当たるわけですが、まだ囚人たちの下には、「畜生道」に落ちた坑内馬がいるわけで、「どんなに坑内労働が辛くても、まだ自分たちより下にいる坑内馬たちよりは、まし」ということを囚人たちに示すための「見せしめ」にされたということです。

やり方は、一見仏教の教えを説くように見せかけていましたが、囚人たちを集めて説教を行っていたのは、地元の僧侶ではなく、知恩何某という炭鉱会社が作った組織であり、その説教者たちは囚人たちに向って「坑内馬たちは、お前たち囚人のように、坑道内から外に出してもらえない。生きて二度と外へ出ることすらできない。それは、坑内馬たちは実は、前世において悪いことをした者たちが、畜生道に堕ちた姿だからなのだ。だから、お前たちは善いことをしないと来世で、このような畜生道に堕ちることになる。善い事とは、人のため、自分の為になる石炭を掘り出すことなのだ!」といった説教を繰り返し行ったわけです。

従って、宮原坑の坑内馬たちは、つねに「囚人たちよりも悲惨で惨めな存在」でなければなりませんでした。
筑豊や他の炭鉱で使われた炭鉱と最も違う点が、そこです。

ですから、他坑のようにたまに昇坑させて外気に当てるなどということは一切ありませんでした。「死ぬか使い物にならないような瀕死の状態でない限り、一度降りた坑底から地上に戻ることが出来なかった」ということです。」

世界文化遺産となった山本 作兵衛さんの炭鉱画の中には、久しぶりに坑内から昇坑して外気に触れ、「欣喜跳躍」する馬の姿が描かれていますが、宮原坑に降ろされた馬たちは、このような姿を囚人たちに見せるわけにいかなかったのです。

劣悪な環境の坑道の中で、馬方に青竹で打ち叩かれながら、あえぎあえぎ何トンもある石炭を積んだ箱車を曳き続き、ろくにエサも与えられず、昼も夜も季節さえも無い坑道内で死んでいったのです。

その様子も武松さんは馬を実際に使った馬方から証言を得ています。

『 坑内馬ネー、私はそのときはまだ小さかったんで詳しいことはわからんが、対州馬、対馬の馬ですたいな、それと島原馬を取り扱っていたことは知っとります。背の高さは五寸五寸と言っとりました。四尺五寸のことで、今の寸法で136センチぐらいですたいな。こまぁか馬でしたバイ・・・・ 』 

『 一頭の馬が一回に運ぶ距離は、片道で307m、これを炭函(車)を曳いて28分費やしている。 10mの距離を1分もかかる。坑内というところは底盤は殆ど岩盤で、しかも凹凸があって平坦な道筋ではない。レールにしても、いま私たちの目の前にあるようなあの頑丈なものでもない。炭車の車輪もベアリングの車軸ではない。 坑道の要所要所に設けられた燈火にしても、今のような昼光色ではない。そういう軌道上を、背丈の低い矮小馬が重たい炭函を、10mを1分も費やしてあえぎあえぎ曳いた。 』

『 坑内はですな。ひらったか道ばかりじゃなか。上がり坂もあるが、下り坂もありますタイ。 上り坂を馬に曳かせて上る時には”ソラー!”チ、馬に気合いバ入れんといかん。 そんとき、手で馬の尻を叩こうもんなら、馬も人も汗ビッショリになっとるもんで、汗が飛び散ってワタシン顔にかかっとデス。そいけん私は竹ヒゴ持っといて、それで馬ン尻バ叩こりました。 馬ン口には白かねばっこか泡ンつこりました。馬はきつかったっでしょナ。 (中略)

馬に曳かせんと、馬方は金にならんもんですケン、少々くたびれとるとわかったっチ、叩いてでん曳かせよりました。ハイ 』

坑内馬と馬夫と女坑夫

馬たちは、唯一食事だけが楽しみだったと思うのですが、その食料さえ馬夫たちにピンハネされて、ろくに食べられなかったといいます・・・・

平均2年で死んでいくということは、たった数ヶ月で衰弱死したり事故死したりする馬も多かったのでしょう。ならばある一定期間が過ぎたら、地上に上げて回復させれば良いのではないかと思いますが、そういうことはいっさいなく、死ねばその分をまた補充した理由とは、前述のごとき囚人たちに対する「見せしめ」だったということなのです。

そして、これは本には書いてはありませんでしたが、囚人ですら生きたまま穴の中に投げ込まれたのですから、「畜生道」に落ちた馬たちが死後、埋葬なんてされるはずがありません。

おそらく死んだ馬は紐で縛られ、地上の操業に邪魔にならない場所に打ち捨てられ、死んでもなお「見せしめ」とされたでしょう。

また死なないまでも、脚を傷めたり、炭を積んだ箱を曳く力がなくなるほど弱った馬、怪我をした馬なども同じく生きたまま「見せしめ」としてうち捨てられていたでしょう。

長崎の対州馬を中心に九州一円から、あらゆる小型の在来馬が集められ炭鉱に送られたのですが、「見せしめ」であった三池炭鉱に送られた馬の多くは、元々体が弱かったり、少しどこかが悪かったりして戦場には送られなかった馬が少なくなかったそうです。
そうした対馬や島原といった田舎では、馬は人間と家族のように一緒に暮らしていたと言います。
なんらかの事情で馬と別れなければならなくなった時、馬は涙を流して泣いたという話はいくつも聞きます。
そのような馬たちが農家の生活の為に二束三文で買いたたかれて炭鉱に送られ、その炭坑内で、残虐極まりない見せしめとして死ぬか瀕死の状態まで追いやられていたことを知ったとしたら、元の飼い主は、気が狂うほど悲しんだでしょう。

平均寿命は平均2年ぐらいであったということですが、たとえ2年であっても、その毎日が苦しみ続け、一時の安らぎも無い坑内での日々であるのなら、長く生きれば生きたほど、辛くなります。

武松さんも書中で述べていますが、一体これほどの生き物に対する残逆極まりない「非道」が歴史上あるだろうかと思います。

武松さんはそれでも何とか、坑内馬の埋葬された場所を特定しようと、馬方たちの証言を聞いて宮原坑付近を歩いています。
そして、その場所は大まかではありますが、今でも特定することができます。
それも武松さんの詳細な記録が同書に残っているおかげです。

「 坑内で死んだ馬が埋められたのは、あそこの、ほら、緑で覆われている小高い丘があるでしょ、ネ、あそこ一帯ですよ。 あんた、埋められたところを探しに行くとですか。それはやめた方がよか。あの緑で覆われた場所はですナ、昔はずうっと丘が続いていたとです。それを切り開いて平らにしたり、坑内用の充填用の土砂に使われたりして、とりくずしてしまって、昔の面影はなくなってしまっているんですよ。だから、埋められた場所はわかるはずがない。

それにですネあんた、昔の遠眼鏡をみたことはあるでしょ。天上、人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄をネ。人間の下の修羅、三池炭鉱で言えば囚徒坑夫のことですたい。それは人間よりも下ということで、番号だけを刻んだ、俗名も戒名もなか墓石がありますが、畜生の馬は修羅の下ということでしょうかネ、埋められただけで、墓石はなかとです。 (中略) 修羅坑と呼びならわされていた宮原坑を。三池炭鉱の石炭運搬専用鉄道線路を跨いだ向こう側に見ながら、南へ向かう登り坂を歩いた。左側には、道に沿って家が軒を並べている。そのうしろは段々畑がつらなっていて、その上にこんもりと茂った森がある。その森のことを土地の人々は権現山と呼んでいる。登り坂の右側は、次第に切り立った狭い崖になって、その崖底を石炭運搬専用線路が、地を這うように伸びていた。自動車がとおるたびに、崖っぷちに立ちどまって、空気の乱れにあおられながら、登り坂を登りつめると、老人が指差していた、熊笹に覆われた小高い丘があった。丘はつきあたりにあった。・・・」

坑内馬と馬夫と女坑夫

ここが2022年令和4年の同地です。
このこんもりと茂った一角が間違いなく武松さんが述べている場所です。

炭坑で亡くなった馬たちが操業の邪魔であったりするのであれば、このような比較的坑口から近い場所に打ち捨てる必要はありません。人目につかない山中にでも、うち捨てるでしょう。

しかし、馬たちは「見せしめ」であったわけですから、毎日坑内から出てくる囚人たちから、その哀れな遺骸や苦しみつつ死にいく姿が見える場所である必要がありました。
武松さんが結論付けた坑内馬の役割と実によくつじつまが合います。

墓石や碑などあろうはずもありません。

人間の強欲の為に一方的に「畜生道」とされた坑内馬たちでしたが、その「畜生道」とされた上の「修羅道」の上の「人間道」にも、過酷な労働場所である炭鉱には、宮原坑が稼働した時代、幾重にも重なる上下の格付けがされていました。

具体的に言うと、人間道の最上位に君臨するのが、「鉱山主」で、次が「鉱長などの管理職」そして「本鉱員」、その下には「組夫・臨時夫」、さらに「野蛮人であると差別された与論島出身者」、「日本に無理やり所属させられた朝鮮人」、「敵国人であった中国人」、「戦争捕虜」の順に続きます。どこかに不満がある者が出た場合には、「まだお前たちの下には、修羅道や畜生道という下がいるのだから、我慢して働け。頑張ればいつかは上に上がれるのだ」と巧みに欺き、その人生そのものを搾取していたというわけなのです。

もうひとつ、宮原坑などに送られた馬たちが、「見せしめ」であったことを裏付ける資料を、武松さんは同書の「体高減少」の項で述べています。
武松さんが手に入れた「三池炭鉱各坑別馬匹体尺変化表 -大正二年~十年」によると、調査した8年間の間に、宮原坑や大浦坑など平均して4㎝あまりも馬の体が縮んでいると報告してあったそうです。これは平均値ですから、坑によっては6㎝近くも体が縮んだところもあったというのです。
これは、人間に置き換えてみると大変なことです。ある労働をする前後に体格を測ったところ、働き盛りの大人の身長が8年間で4㎝平均も縮んだというわけですから。一体、どのような労働を体験すれば、そのようなことになるのか!と武松さんも驚嘆しています。

また、前述の調査票を分析した武松さんは、驚くべき事実も突き止めています。
それは、「坑内馬の体格は、坑内で使役し始めて、一年間では、ほとんど変わらないのだけど、二年目から急激に体高は減少し始めているというデータが残っていた」というものです。
つまり、どんなに長くても坑内馬の坑内使役を一年で中断し、地上に上げて他の馬と交代させた上で、疲弊した体を回復させたのち、また使役させるというサイクルを繰り返しておけば、馬たちの寿命もだいぶ違ったと思うと武松さんは述べています。
しかし、炭鉱経営側は、そこまで入念な計測調査をしておきながら、その後も構わず馬たちを使役させ続け、無残な死に追いやり、挙句には「坑内使役馬の寿命は、平均二年前後である」とただ冷たく「三池炭鉱夫月報」の中で報告していたにすぎなかったというのです。
つうまり坑内馬たちの体格を細かく測っていた理由は、「坑内馬の体力を回復させる」というものでもなんでもなく、ただ上から支持されていたことを盲目的にやっていたということであり、結局は「見せしめ」の存在である馬たちの惨めさをさらに嘲笑い、囚人たちへの圧力ぐらいにしか見ていなかっただろうという事実が浮き彫りにされたのです。



私は長崎県の炭鉱跡地をこれまで何か所も訪ね歩きました。
どの場所も、どこかうら寂しい空気が漂う場所ばかりでした。

しかし、2022年の夏に訪れた宮原坑のある辺りも三池炭鉱が点在した大牟田市自体もまったくそれとは違っていました。
むしろ街は新しく生まれ変わっていて、雰囲気も明るい感じがしました。


間違いなくそのきっかけになったのが、宮原坑や三池港などの炭鉱時代の遺構が世界遺産として登録されたことです。
それまでは何となく、炭鉱の遺構と言うのは表に出したくないような雰囲気がありましたが、今や三池炭鉱の遺構は、世界に冠する一大観光資源とテーマとなったのです。

私が宮原坑を訪れた時に案内してくれたガイドさんは、元三池炭鉱で働かれていた炭鉱マンでした。
とっても感じのよい方で、坑内馬について尋ねても、臆することなく知っておられる限りのことを話してくださり、馬が載っている資料なども出してくれました。

今、やっと「見せしめ」として苦しんで死んでいった馬たちが、世界遺産登録を機に、地上に出てこれたように思えます。

それはきっと永い永い「念」であり、「想い」だったでしょう。

思えば、私が教師を辞めてから幾つもの炭鉱跡を巡り、ある新聞社の連載のために取材で訪れた地で対州馬という馬に出会い、ひん太という一頭の対州馬を飼養したこと。
それはすべて、こうして宮原坑や万田坑、宮浦坑などの地底にいて亡くなった馬たちが私を引き寄せ、こうして記事や記録として残すことを託してきたと思えてなりません。

たとえひとつの石の碑すら無くとも、こうした記録が後世にどこかで残り続け、語り継がれることで亡くなった数千、数万とも言われる坑内馬たちの魂は暗闇の坑底から出て大地を吹く風に乗り、大空を自由に駆け巡ることができるのではないでしょうか。


私がこの記事を作成した目的は、どこかの誰かを断罪したいわけでも、糾弾したいわけでもありません。ただ何の罪も責任もない無垢な馬たちを苦しませた挙句に死に至らしめた人間側の罪を人間の一人として謝罪し、救われない馬たちの魂を鎮めたいという想いだけなのです。

これは、私の馬、ひん太が亡くなる数時間前に撮った写真です。舌を出して笑っているような顔の写真と見比べてみてください。この写真はもっとも私が見たくない写真です。

私の馬が亡くなった原因の詳細な原因はわかりませんが、亡くなったのは7月31日で、もっとも暑い頃です。馬という動物、特に在来馬は寒さにはめっぽう強いのですが、暑さには弱いのです。私は、気温が高い日にはホースで体に水をかけて冷やすなど、とっても気を遣いました。それでもその暑さが、ひん太を死に至らしめた原因のひとつが暑さであることはあきらかでした。
ですから、この写真のひん太の姿を見ることは今でも死ぬほどつらい事です。

かつて、何千何万という在来馬たちが、陽も差さない坑底で、このような姿で打ち叩かれながら炭車を曳かされ、苦しんで苦しみぬいて死んでいったことを後世に語り継いでいって欲しいのです。
これが、武松さんから受け継いだバトンなのです。

そして、世界遺産の構成資産になった以上、この宮原坑のやぐらも、半永久的に保存されることでしょう。このやぐらを見た人が、その地底奥深くで無念の死をとげた多くの馬たちのことを知るきっかけとなるのであれば、このやぐらこそが、坑内馬たちの「墓標」になります。
大変哀しい話をお聞かせしてしまって、申し訳ありません。でも、今回あなたに坑内馬たちのことを知ってもらうことによって、またひとつ坑内馬たちの魂は、坑内から外へ出られたのだと信じます。

今、絶滅n危機に瀕している対州馬や在来馬たちが、どうすれば保存と繁栄の道に戻れるのか?これはなかなか難しい問題です。しかし、問題である以上、解けない問題はありません。私たち人間は大きな問題に出くわしたびに、そのソリューション的な英知を結集して問題をクリアしてきました。

ぜひあなたの力をかしてください。どんなに小さい歩みでも構わないのです。
その一歩が集まれば、大きな潮流になります。
まず私は、この動画を通して、馬たちが今日の暮らしの繁栄の為に命を懸けて地底で働いたことをお知らせしようと思いました。
また、保存に関しては、志を持った者が集まれば、飼養し活用し、社会にPRすることも十分可能なことだと考えています。

古来より馬とともに歩んできた人間は、これからの未来の人間たちの存在のためにも絶対にその存在が必要だと信じてやみません。
どうかこの言葉を信じて、一緒に明日への扉を開きましょう。

そして対州馬や多くの在来馬を保護・育成する活動がどこかで始まり、そこここで集いが生まれ、坑内馬のように一歩一歩対地を踏みしめて歩いていくような活動の一歩のための一助となれましたら、それにまさる私の願いはありません。

出展:
「 ー呪詛 地底の記録  坑内馬と馬夫と女坑夫 」 武松 輝男 著 創思社出版

参考:
「 見知らぬわが町 1995 真夏の廃坑 」 中川 雅子 著 葦書房



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江島 達也/対州屋
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