帆場岳/拝み石 ~ キリシタンたちが、二百年にわたりパードレを待ち続けた場所
先日、娘が進学の為、長崎を離れる前に最後に一緒に登った山、帆場岳に登ってみた。
今回は、その時には行かなかった直登コースを行ったのだが、あれから一年ちょっとの間に、山は激変していた。
山頂付近に何らかの新しい通信施設を建造する為に、重機が上がる林道が無理やり造られており、杉林をなぎ倒し、登山道をズタズタにして横切っていた。
這いあがるようにしてやっと、頂上付近まで登ったが、そこに待っていたものは、カトリックの古い史跡であり、聖地でもある「拝み石」であった。
これは、画面の中にある説明の通りなのだが、私が今回、無理にでも直登道を登らなかったら、永遠に出会えなかった場所であろう。
確かに、岩は手を合わせたような形だが、キリシタン禁教時代からずっと石だけは、こうして変わらず風雪に耐えて残っていることが、感慨深いものであった。
あやしい天気ではあったが、そこからは確かに長崎港が望まれ、約200年後にプチジャン神父が長崎に実際にやってきた時には、どのような思いで、ここから眺めていたのだろうかと思う。
ちょっと懐かしい頂上からは、かつて私の馬ひん太がいた放牧地も間近に見えた。
娘と登った時には、林道のすぐ近くでイノシシの唸り声がして、恐怖を感じた。
臆病なイノシシが唸り声を上げて威嚇するということは、子どもが一緒にいるということで、すみやかにその場から離れなくてはならない。
帰りも同じ道を通らなければならなかったので、もっていたスマホから音楽をずっと流しながら「通りますよ!」と知らせつつ下山した。
今回も、その記憶からMP-3プレイヤーを持っていき、シャンソンを流しながら通ったのだが、前述のごとく、山はズタズタに引裂かれていたことから、前回イノシシ親子に出会った付近も大きく木々がなぎ倒されて、林道が拡張されていた。
おそらくイノシシ親子もこの時、住処を追われただろう。
さびしい気持ちだけが残った。