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被爆時、救援の最前線となった 長崎本線・道ノ尾駅

長崎に原子爆弾が投下された後、県内や他県からも救護隊が派遣されたのですが、浦上一帯が壊滅した為、この小さな駅が負傷者を移送する最前線の駅となりました。

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この道ノ尾駅は、爆心地から約3.5kmの距離にあり、被爆時は、壁が落ちたり、窓ガラスが飛散したのですが、幸いにも駅舎に大きな被害がなかった為、駅前広場に臨時の救護所が置かれ、救援列車の基点となりました。
当然、この救護所には、うわさを聞いて辿り着いた半死半生の負傷者であふれました。

この駅舎は被爆遺構であり、「被爆」という歴史においても、意味深い建物なのですが、不思議なことに、行政による説明版は何もありません。

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その内に、「壊し好きな」、長崎市当局が、取り壊すのではないか、とひやひやしています・・・(令和3年現在、突然待合室を潰してパン屋が入り、景観を台無しにしただけでなく、待合室が亡くなったことで荒天時や厳寒時の利用者に大変な迷惑となっています)

今では、特急の走る新線とは違う旧線となり、朝夕のラッシュ時以外は、乗客の姿もまばらです。

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この駅は、私が幼い頃から親戚たちと遊びに行く際など、よく利用したものですが・・・
その頃は、まだ画像下に見えるホーム側にも線路が敷かれていました。

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被爆直後の1945年8月10日、この場所で、軍の報道カメラマン山端庸介によって撮られた写真の中で、長崎ではよく目にするものがあります。
救護所前で、大怪我を負った赤ん坊にお乳を飲ませる母親の写真です。NHKの取材班が、この母子のその後を、追跡調査しています。

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その調査班の調べで、この男の赤ちゃんは、8月21日亡くなったことがわかっています。2人の子どもを亡くし、家も全て失った、このお母さんは、お年寄りになるまで、ずっと畑で野菜をつくり続け、リヤカーに積んでは売り歩いたそうです。


カメラマン山端氏は、さらに救護所で活動する看護士たちもフィルムにおさめています。
取材班は、この看護士たちも追跡取材をしています。

当時、日赤を中心に多くの医療隊が派遣されており、その派遣元も島根、香川、愛媛、福岡、岐阜、滋賀、和歌山、佐賀・・・と様々で、長い間、この看護婦たちはどこから来たのか不明のままでした。

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しかし、取材班の執念の追跡で、この看護婦たちは、日赤佐賀県支部で結成された、「日赤第713救護班」だということが判明しました。
写真を見る限りでは、まだあどけなさが残る中学生ぐらいの少女たちにしか見えませんね・・・・

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当時19歳であった西久保キクノさんは、衛生兵とともに防空壕に入ると、寝ていた負傷者たちが、皆、神様でも来たかのように手を合わせてくれたと証言しています。
(写真は2枚とも西久保さん)

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駅前で、負傷者の手当をする西久保さん。終戦後は結婚して県立病院で働き、婦長も務めたそうです。
しかし、終戦から21年目の昭和46年、東京の大学に通っていた長男が急死するという突然の不幸に見舞われました。息子さんは白血病でした。
西久保さんは、長年ずっと自分を責め続けましたが、当時あの場所で救いを求めていた人たちのことを思うと、救護隊として自分が行ったことに悔いは無い、とかなり年月が経ってから、思えるようになったそうです。

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患者の背中にチンク油を塗っているのは、堤フサ子さん。11兄妹の次女として育ったフサ子さんは、家計を助けるために看護婦の道を選び、給料のほとんどは、家族の為に仕送りしていたそうです。
フサ子さんは、長崎の被爆者救護から帰ってくると、すぐに体が弱り、衰弱して翌21年9月に20歳の若さで亡くなったということです。
『 必ずしも残存放射能による被爆の影響とは断定できないが、それにしても若い死である 』・・と取材記は結んでいます。

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このような、あらゆる意味で「メモリアル」と言える、この道ノ尾駅。

長崎市北部にある滑石中学校の生徒会が立派な案内板と千羽鶴を設置しています。
被爆時、命のドラマが繰り広げられた場所であるわけですから、もっともなことですね。この他、同校生徒会は救護所跡や被爆樹木など、あらゆる場所に同様の案内板を設置しています。
しかし、毎年記念式典などに莫大な予算を費やしている長崎市からは何の案内もありません。
それどころか、前述のように駅舎の半分をパン屋に改装するぐらいですから、ここで亡くなった多くの方はまったくうかばれませんし、平和学習にも十分に役立っていません。
以前、同じく救護所の拠点であった「新興善小学校」が取り壊された経緯を考えると、この駅舎もいつまでこの姿のまま立っていられるか・・と、不安ばかりが胸によぎります・・・・

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道ノ尾駅の駅長ネコとして知られる「ねる」も寝床を奪われてしまいました。
小さな駅舎に小さな「命」がまどろむ姿こそ、「平和の象徴」だと思うのですが・・・。

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江島 達也/対州屋
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