実際に長く生きている事よりも、人の心の中に、長く生き続けているか?の方が大切な事
過日、高橋源一郎の「飛ぶ教室~はじまりのことば」の中の一編を読んで、とても心が軽くなった。
高橋氏の大好きな文章の1つとして、現代詩作家である荒川洋治さんの「会わないこと」の中の言葉を紹介しつつ以下のような文章で結んでいる。
反対に、相手が亡くなった人だと、会うことはできない。
だとすると、「会わない」状態のなかで、耐えていることは、
相手もこちらもが、いのちをもつ、つまり生きていることのしるしなのだ。
私が、私の亡き大切な馬ひん太を想い続け、記し続ける限り対州馬ひん太は、「生きている」。
人に想われている限り、生きている。
確かに、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホもアンネ・フランクも生きている。
2人は、けっして不幸の中で亡くなったのではない。
物語の中で語られている人もそう。
「アラバマ物語」の中で語られたアティカス・フィンチも生きているのだ。
もちろん生物だけではない。
物、場所、風景だって、誰かが想っている限り生き続ける。
そして、誰かによって記し続けられる限り、生き続けるのだ。
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