多くの修学旅行生が訪れる城山小学校は被爆校で唯一、廃校が決まっていた
長崎へ修学旅行で訪れた小中学校生たちがフィールド・ワークを行う際、必ず向かうのが、原爆資料館と平和・爆心地公園、そして城山小学校であると思われます。
この坂は、表通りからは裏手にあたるため、修学旅行生たちもあまり通らない「平和坂」です。
その平和坂の上り口にある被爆木、「双子クス」。原子爆弾が投下されるまで、城山国民学校の校門に至る2本の坂道には大樹が立ち並び、夏には見事な緑のトンネルを形づくっていました。
しかし、わずか500mという至近距離で原爆が炸裂したため、このあたりの樹木はことごとくなぎ倒され、或いは焼き尽くされました。
被爆二股クスは、そんな状況にあって根だけになっても生き残り、ここまで成長して緑の葉を茂らせています。
城山小の生徒さん達が作った案内板に全てが記載されています。
この写真を撮ったのは何でもない12月の平日。しかし、ごらんのようにクスの袂には生花が供えてありました。
この緑豊かな学び舎を5,000℃の熱線、秒速250mの爆風、致死量を超えた放射線が襲いかかりました。
原爆投下の2日前、1945年8月7日に米軍機によって撮影された城山小学校付近の航空写真。中央にトラックがある場所が城山小学校です。写真の左手には民家の立ち並ぶ町並みが見えますね・・・
そしてこれが投下後、8月10日に撮影された同地。・・・言葉を失います。鉄筋コンクリートの城山小は確認できますが、付近はすっかり消滅してしまっています・・・
原爆が、もはや「爆弾」などという名称では表せないものであることがわかります。
クスとカラスザンショウがあったのは、矢印のあたりです。
原爆が炸裂した1945年8月9日。在籍していた1,500人もの子どもたちは頻繁になってきた空襲のために登校を控え、地区別の隣組学習を行っていました。
校地には宿直のため準備にあたっていた教師29名、庁務員3名、三菱兵器製作所所員67名、そして挺身隊員14名、学徒報国隊員46名がいましたが、投下後生き残っていたのは教師3名、兵器製作所所員9名、挺身隊員2名、報国隊員4名にすぎませんでした。
そして家庭にあった児童たちで生き残ったのはわずかに50人あまりでした。
(画像は荼毘の跡の残る校庭と破壊された校舎)
今では「平和坂」と名づけられたこの坂道も被爆後に育った樹木で覆われました。
永井隆博士の著書「この子を残して」などの印税で植えられた桜の木は、今も新1年生たちを迎えています。
爆心地付近に残る「被爆木」で有名なのは、山王神社の大クスですが、傷んでいるとはいえ、今は豊かな緑を回復するに至っています。
しかし、ここ城山小学校にはもっとも「痛々しい」被爆木があります。それが(現)体育館横にあるカラスザンショウの木です。
正直言って、被爆木というものを見慣れている私の目にもこのカラスザンショウの姿はあまりにも痛々しく、衝撃的でした。どうして生きていられるのか不思議です。木の幹というよりも、厚めの樹皮のみがそこにあるようにしか見えません・・・
(その後、このカラスザンショウは、残念ながら枯死してしまったことがわわかりました。2021年追記)
生徒の大多数が死亡し、校区そのものが「死の荒野」と化した城山小学校区では、いっさい授業再開のめどが立ちませんでしたが、ようやく10月のはじめに、依頼を受けた新興善国民学校長と生き残った吉野先生1人が八幡神社に児童を集めました。
しかし、その時集まってきた児童は1,500名のうち、わずか35、6名でした。また再開しようにも授業を行う教師が1人ではどうしようもありませんでした。
11月になり、生き延びたものの原爆症に苦しんでいた荒川教頭が郷里から戻ってきて、再び授業を再開しました。
しかし校舎は破損状況がひどく使用できない状態であったため、隣の稲佐小学校の1教室を借りての再開でした。
その場に集まったのは生き残っていた5人の先生とわずか15、6人の生徒たちだけでした。
焦土と化し、多くの犠牲者を出した城山小校区であることを考えれば、15、6人でも多いと考えるべきなのかもしれません・・・。
そしてこの時稲佐小学校まで通ってきた子どもたちというのは、原子野の中にトタンや廃材で作ったバラックに寝起きをしていた子どもたちであったわけです。
疎開する先も養育者も無く、瓦礫の中に寝起きをしていた子どもたち・・・。
そんな子どもたちにとっては鉛筆の1本もなくとも、仲間や先生がいる「学校」は希望そのものであったでしょう。
稲佐小も被害がひどく、窓ガラス1枚ないという状態で、厳しい冬には寒風が容赦なく吹き付けていたため、教師たちは生徒たちの体を心配し、「雪や雨の日は学校はお休みしますから、家で勉強してください」と伝えていましたが、どんな天気でも子どもたちは必ず学校へやってきたそうです。
しかし明けて昭和21年の2月、無情にも「城山国民学校は3月末日までで廃校とする。現在城山小学校に在籍する児童は、その住所によって稲佐、山里の両校に分けて編入する」と発表されました。
驚いた荒川教頭は保護者会長とともに市学務課をたずねました。
「城山校区は放射能で汚染されているし、住人に退去命令が出されているくらいだから、今後住人増加率は低い」と主張する学務課長に対し、両氏は「一旦廃校ということにしたら、これを復興するということについては諸種の問題が生ずる。城山校区は必ず被爆前にもまして復興すると思うし、その日も決して遠くはない。従って廃校とはせず、一時休校にしてほしい」と強く申し入れました。
そしてその結果「一時休校とする。校区に児童が多くなったら復校する」という確約を取り付けました。
・・・もし荒川教頭が被爆時に即死か、その後の原爆症でなくなっていたら、もしかすると、これらの被爆木はもちろん、被爆校舎も無くなっていたかもしれません。
当然、この画像のような子どもたちの活動も無かったことでしょう・・・
体育館の脇にある掃除用具置き場。たくさん並んだ竹箒はカラーテープで色分けがしてあります。
「永井坂」「平和坂」「平和の森」・・というように掃除場所ごとに分けられているのですね。廃校となっていれば、この有意義な活動ももちろん無かったわけです。
原爆の落とされた昭和20年の城山小学校の卒業式は、たった14名の卒業生だけでした。
例年300名あまりの卒業生を送り出す同校としては、あまりにもさびしいもので、式は稲佐小学校の一教室で行われました。
「・・・卒業生の皆さんは、原爆の苦難と悲しみにもよく耐えて、さらにまた先生たちが最も心配した風邪にもかからないで、こうして揃って卒業式を迎えることができました。本当におめでとう・・・・」と荒川教頭が挨拶をすると途中から卒業生たちが泣き出し、つられて在校生も、また来賓、教師、そして保護者も涙を抑えることができなくなってしまったといいます。
その後の「蛍の光」も「仰げば尊し」も涙で歌にならなかった・・と。
そして、荒川教頭の言葉通り、一年間休校した後、23年4月に城山小学校は復興したのです。