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長崎医科大学・角尾学長らの終焉の地であった~長崎市滑石・太神宮救護所

長崎市北部に横たわる滑石(なめし)地区にある太神宮は、その名の割りにこじんまりとした神社なのですが、住人にとっては初詣など馴染みのある場所です。


これは昭和19年に鳥居脇の灯篭あたりで撮られた写真。学徒出陣する仲間を見送る記念として撮られたもののようです。この地区にとっての中心であったことが伺えます。


また滑石地区における教育の出発点が、うら寂しい畑の中のこの小さな社でした。太政官布告により明治6年、平宗小学校の仮教場が開かれ、周辺地区児童への教育が開始されました。この頃はまだ長崎県彼杵郡滑石村という時代です。その後明治17年に西浦上村となった滑石地区は西浦上小学校区となり、滑石分教場(後の滑石小学校)が出来る前は、児童たちは橋もない川をいくつも越えて遠く住吉まで通わねばなりませんでした。(当時の西浦上小学校は現住吉神社の近くにあった)

(昭和36年頃)


太神宮の拝殿近くにある「西浦上小学校発祥の地」碑。


そして運命の日である昭和20年8月9日。ここを発祥とする西浦上小学校は原爆による校舎全壊という大被害を受けています。(当時は現長崎大学付属小学校のグラウンド辺りにありました)
かつて校区を同じくしていた滑石地区も爆心地から距離はあるものの、間に高い山も無い為、家屋半壊あるいは倒壊といった被害を受けています。
また救護活動の最前線基地となった道の尾駅がこの方面にあることもあり、多くの重篤な被爆者が救護所を求めて集まり又は運ばれてきました。


爆心地から500~800mという至近距離にあり、甚大な被害を受けた長崎医科大学に調 来助という外科の教授がおり、滑石地区に家族を疎開させていたのですが、即死者や重傷者の多い中で奇跡的に大きな怪我や熱傷もなかったため、この大神宮内に臨時の救護所を開くことを思い立ち、各地で救護活動にあたる傍ら薬品や人材を集め、被爆から4日後の13日より負傷者の治療を開始しています。


ここにも滑石中学校の生徒たちが設置した案内板がありました。さすがですね。大変よくできた案内板ですが、風雨に晒され、劣化が進んでいるようです。本来こうした活動は町や市などの行政がやるべきことですね。


それにもまして残念なのは、自分はこの滑石中学校の出身であり、太神宮に隣接する大園小学校の卒業生なのですが、この神社が被爆後救護所になっていたことを語ってくれた教師にはひとりも出会えなかったことです。当時の幼い自分は「原爆」とはここから遠く離れた場所で繰り広げられたことだ、と感じていました。


二人の息子を原爆で失った調教授でしたが、長崎医科大学内にて負傷した角尾(つのお)学長や山根教授らもここの救護所に搬送して治療にあたっています。
(写真は長崎大学医学部の構内に立つ同氏の胸像です)


角尾学長は東京・下谷の出身。東京帝国大学医科を卒業後留学経験などを経て第5代長崎医科大学学長に就任。奇しくも東京出張からの帰り、被爆翌日の8月7日に広島市内を視察、翌8日に長崎医科大学に帰り、全職員と学生に広島の惨状を伝えた翌日に自らも被爆し、多くの同僚や学生を失うという悲劇に遭遇しています。


被爆時の角尾学長は、内科病棟で外来患者の診察を行っていたのですが、病棟の窓は爆心地側の北側を向いていた為、学長は爆風により飛び散った窓ガラスを背後からまともに受けてしまいました。


原爆資料館に陳列してある角尾学長のズボン。


ガラス片により裂かれた跡と黒く変色した血のりの跡が被爆(爆風)のすさまじさを表しています。


拝殿内の救護所に運ばれた角尾学長は木陰の多いこの場所に対し、「ああ、いい所だ。おかげで気分がさっぱりした。」と喜んだといいます。


その角尾学長も17日頃になると41度の高熱と下痢により容態は悪化していきました。また強い放射線を浴びた負傷者たちは同様の症状を発症しつつ次々と命を落としていき、遺体は学生らによって付近の空き地にて荼毘に付されました。この頃より9月頃までは滑石地区のあちらこちらで荼毘の煙が立ち上っていたといいます。


当時はまだ放射線障害や内部被爆という知識が浸透しておらず、嘔吐や下痢を繰り返す被爆者たちは「赤痢」と判断され、隔離されてしまったことが、更なる悲劇となってしまいました。

また更には終戦とともに「アメリカ軍が上陸して乱暴狼藉をはたらく」というデマが飛び交い、この地区の婦女子や看護婦らが恐怖から山中に避難するなどして、救護所もその機能を失い、岩屋救護所などは閉鎖のやむなきに至っています。このデマによって助かったかもしれない命の多くが犠牲になったことを思えば、残念としか言いようがありません。

太神宮の救護所も22日の角尾学長の死去によって閉鎖となっています。わずか10日あまりの短期間でしかなかったのですが、それでも多くの人々の生と死と救護活動とのドラマが繰り広げられた場所であることにその尊さはかわりありません。
平成24年8月8日の今日、明日で67回目の長崎原爆の日を迎えようとしています。11時2分にはこの小さな杜の方にもにも手を合わせたいと思います。



(元記事作成:2012年08月07日18:56)


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江島 達也/対州屋
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