炭鉱跡を歩いて、記事にしたことの意味
下のコメントは2023年の2月に頂いたものです。
かつて佐世保市にあった、文殊岳炭鉱の記事を書いたのは、2011年02月16日ですから、約12年前のことです。
炭鉱跡を記事にするのは、非常にデリケートな問題を含みます。
誰でも、今暮らしている場所の地下に坑道が残っていて、地表近くに「ボタ」と呼ばれる石炭にならなかった石が多く堆積しているということは、いい気持ちがしないでしょう。
しかし、なぜそれをやったか?と問われるとしますと、上のような多くの方々の為にあるのでした。
関係の無い人には、どうでもよいことかもしれませんが、自分や自分のルーツを探し求めている人にとっては、かけがえの無い記憶そのものだと思うのです。
昭和36年頃、二十歳であるということは、現在は80歳を越えられておられると思います。
二十歳の頃の、佐世保の街というのは、どうのようであっただろうか?
炭鉱が多くあって、造船も盛んで、人も多く賑やかで活気があっただろうな等と想像をすると、何かこちらまで嬉しくなります。
(以下が、記事部分です)
佐世保・紋珠岳炭鉱跡 2011年02月16日
かつて佐世保市内には、無数の炭鉱があり、最盛期と言われた昭和32年には、38鉱を数えたといいます。
その中の1鉱、紋珠岳(もんじゅだけ)炭鉱は、現・市街地の中央付近にありましたが、何かしら跡は残っているのだろうか?・・と思いたずねてみました。
ちなみに、昭和57年に空撮された付近の写真には、まだはっきりと紋珠岳炭鉱のボタ山が写っています。
紋珠岳炭鉱は、昭和25年開坑。閉山の年は、はっきりしていませんが、昭和35年に佐世保市内で操業していた26鉱のひとつに名を連ねています。同37年には19鉱、40年に6鉱と、この頃激減しているので、おそらく30年代の後半に閉山していると思われます。
ちなみに41年まで残ったのは、中里炭鉱、山住炭鉱、協和炭鉱、但馬岳炭鉱の4鉱のみ。42年には山住とこの年に発足した柚木の2鉱となりました。翌43年に山住閉山、47年に柚木閉山となり、佐世保市内から炭鉱がすべて姿を消しました。
(後に40年、6月8日閉山と判明)
ボタ山の下は、西海学園のグラウンドです。
紋珠岳を目印に・・・と思いましたが、その肝心の紋珠岳そのものが、はっきりしません。あたりは一面宅地が造成されて、きれいな家がたくさん建っています。
↓ はじめは、これが航空写真に残っていたボタ山か!と思ったのですが・・
よくよく地図と方角を確認してみたところ、このコンクリートで補強された「小山」のようなものが、紋珠岳だと後でわかりました・・・・
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