子ども日本風土記 (広島) 「 少なくなった牛 」 2 江島 達也/対州屋 2024年2月14日 08:56 少なくなった牛横谷は、音は、どの家も、牛をかっていました。ぼくの家にも、牛を入れてあったあとが残っています。ぼくの家も、げんかんから入って、右側にはざしきがあり、左側に、牛が入れてあったあとがあります。でも、今はもう、物置きみたいなものにしてあります。その中には、炭などが、たくさん入れてあります。ほかの家にも、牛を入れてあったあとが、残っている所がありますが、やっぱり、物置みたいなものにしてあります。昔は、牛を、家族のように、あつかわれていたそうです。そのことは、牛がすむところを家の中にしてあったことからもわかります。牛が病気になったときには、大さわぎをしたそうです。どうして、そんなに、牛をだいじにしていたかというと、牛は働き者だつたから、そんなだいじな牛に、死なれてはいけないからです。吉谷という所に、大山さんという牛のお宮があります。昔は、牛が、病気にかかったりして、死んではいけないので、お祭をして、いのっていたそうです。今でもありますが、もうぼろぼろで、だれもまいらなくなりました。今ごろは、どうして、人がまいらなくなったかというと、今は、牛を働かせないで、ただ大きくして、売って、お金をもうけるだけだから、牛が病気になっても、家族ではなくなって、今では品物になっていて、どうということはないから、おまいりをしなくなりました。だから、今では、牛のお宮はぼろぼろになっているそうです。横谷にも、少しは牛をかっている家はあるけれど、ほとんどの家は、牛をかうのをやめて、布野にある、熊谷の工場にいったり、 コンクリートエ場に行くようになりました。ぼくは、牛をかわなくなったのは、昔は、牛を使って、田をたがやしたり、炭を運んだり、田からいねを運ぶのに使ったりしていたけれど、今は耕運機で田をたがやしたり、いろんな物でも、自動車を使って運べばいいから、牛をだんだんと、かわなくなったのだと思います。牛のことをおとうちゃんに聞いたら、「そりゃあ、牛がぉったほうがええよ」と言われました。「なして」と聞いたら、「そりゃあ、牛がおったら、売ってから、お金になるがの」と言われました。それでも、牛をかってないのは、どうしてだろうかと思いました。ぼくのうちでは、牛をかうといっても、ぼくたち、子ども二人は、学校に行くし、おとうちゃんたちは、布野の工場に行ったり、おじいちゃんは、山の本を切ったり、草をかったりするのに毎日出て、家があきっぱなしで、牛のせわをする人がいなくなるから、牛をかってないんだと思います。でも、昔は、今ごろとちがって、耕うん機も、自動車もないから、牛がいなかったら、日をたがやすのに、くわで、 一回ずつうったり、炭なども、山からおいこでおうてきて、やらなければいけなかったから、ぜんぶの家が、牛をかっていたのでしょう。昔の人は、「牛を売ってくれ」と来ても、「ぜったいに売らない」といつただろうと思います。今では、そんなことはなくて、機械で仕事をすればいいから、昔と今は、ずいぶんかわったなあ、と思いました。 (双三郡布野村横谷小四年 中原力)日本子ども風土記(広島)***双三郡布野村横谷(現・三次市)は、島根との県境に接する山間の村である。牛と一緒に田畑を耕したり、物を運んでいた時には、牛を大事にして、牛をまつる神社もあったというのだが、肉牛として売る「商品」となってからは、誰も参る人も無くなり、神社は荒れていった。小学校4年の少年の心は、何を感じていただろうかと思う。そんな、牛たちをすて「新しく便利なもの」にすがった村も、結局はすっかりと寂れてしまった。今では、人も牛も、いなくなってしまった。横谷小学校も、平成28年に閉校となっている。 ダウンロード copy いいなと思ったら応援しよう! ※「チップ」は有難く拝受させて頂きます。もし、この記事が多少でも役に立った、或いは「よかったので、多少でもお心づけを」と思われましたら、どうぞよろしくお願いいたします。贈って頂いたお金は1円たりとも無駄にせず大切に使わせて頂きます。 チップで応援する #作文 #子ども日本風土記 #広島県三次市布野町横谷 #横谷小学校 #双三郡布野村 2