【意味が分かると切ない話/タイトルは文末に】
「お母さん、僕はどちらのあなたと話しているの？」
彼は画面に映る母の笑顔を見ながら、小さく震える手で現実の母の手を握りしめていた。
その温もりは、何よりも確かなはずなのに――どこか遠い記憶の中で霞んでいくようだった。
彼女の目は遠くを見つめていた。
病院の薄暗い個室。
白いシーツに包まれた母は、まるでこの世の全てを忘れたように、ただ天井の一点を眺めている。
認知症が進行し、彼女が息子の名前を呼んだのはいつのことだっただろうか。
一方、家族のいるリビングでは、母の声が響いている。
「みんな元気そうね。久しぶりにこうして話せて嬉しいわ」
ipadのディスプレイ越しに映るのは、母の笑顔。
言葉も表情も、まるで病気になる前の彼女そのものだった。
彼女は何の違和感もなく、家族と楽しく会話を続けている。
UI（Upload Intelligence）――母が密かに契約していたプログラム。
彼女は自分の記憶を完全にデータ化し、家族と「会話できる存在」としてこの形を選んだのだ。
悠也は、リビングでの光景を横目に見ながら、静かに病院のベッドの横に座る。
目の前の母は、自分が息子であることすら分からない。
だが、彼女の手を握ると、ほんの微かな温もりを感じた。
「お母さん……どうしてこんなことを？」
答えはもちろん返ってこない。
彼女の表情は虚ろで、どこか遠くに意識を漂わせているようだった。
一方で、リビングでは母のデジタルな姿が家族と会話を楽しんでいた。
「ねえ、お父さん、この間の旅行の写真、まだ持ってる？みんなで見たいわね」
「もちろんあるよ。君が笑ってた写真がたくさん残ってる」
父や妹が笑顔を浮かべ、画面の中の母と話す様子に、悠也は違和感を覚えた。
家族がまるで「そこにいる」かのように母と接しているのに、自分だけがそれをどうしても受け入れられない。
ある日、彼は画面の母と1対1で話すことを決心する。
「お母さん……どうしてこんなことをしていたの？僕たちに何も言わずに」
母は少し驚いた顔をして、柔らかく微笑んだ。
「悠也、あなたは昔から、秘密を知りたがる子だったわね。でも……これは私の選んだ形なの。あなたたちに私を忘れてほしくなかったのよ。」
「でも、忘れないよ……！忘れるわけないじゃないか！」
画面の中の母は少し目を伏せた。その仕草は、生前の母そのものだった。
「忘れるわけない……そうね。私も、あなたたちを忘れたくなかった。でも、時間はいつかすべてを薄くするの。だから、私はこうして残ることを選んだのよ」
悠也は言葉を失い、ただ画面を見つめた。
その時、彼の頭に一つの疑問がよぎる。
――この母は、本当に「お母さん」なのか？
病院に戻ると、彼は再び現実の母の手を握る。
触れると、確かな温かさが伝わってきた。その温もりが、自分に数え切れない記憶を蘇らせる。
運動会で手を引いて応援してくれた母。失敗して泣いた時に背中をさすってくれた母。そして、最後に名前を呼んでくれた母――。
悠也の胸に溢れるのは、言葉では表現できない感情だった。
「どっちが……本当のお母さんなんだ？」
そう呟く彼の目には、涙が溢れていた。
数日後、悠也は家族が外出中の時間を狙い、再びデジタル上の母と向き合った。
「お母さん、正直に答えてほしい。これは本当に“あなた”なの？」
画面の母は一瞬言葉を失ったが、柔らかく微笑みながら言った。
「私は、あなたたちと過ごした時間を元に作られた存在。でも、その記憶も、私が望んで残したものなのよ」
「……じゃあ、僕が話しているのは、ただのデータだってこと？」
「そう思うなら、それでいいわ。でも、あなたが私と過ごした記憶が本物である限り、私はここにいる」
彼は押し寄せる虚無感に耐えきれず、手を振り払い画面を閉じた。その瞬間、現実の母が横たわる病院のベッドが脳裏に浮かんだ。
悠也は病院へ向かい、静かにベッドに横たわる母を見つめた。
彼女の目はまだ虚空を見つめているが、悠也はそっとその手に触れた。
「お母さん……ここにいるんだよね。」
母は答えない。
ただ、その手の温もりが彼の心を揺さぶった。
触れた瞬間、彼の脳裏に浮かぶのは幼い頃の思い出だった。
夜中に怖くて泣いた時、優しく背中を撫でてくれた手の感触。運動会で転んだ自分を支えた手の力。
「やっぱり……これが“本当”だ。」
彼の目には涙が溢れ、ぽつりと呟いた。
「画面の中の“お母さん”も、確かに優しいけど……触れられないんだ。何かが欠けてるんだよ……」
病室に戻ると、妹がそっと彼に一通の封筒を差し出した。
「これ、病気が進む前にお母さんが書いてたみたい……遺書かもしれない。」
悠也は封を開け、中の手紙を震える手で取り出した。その内容は短く、しかし確かな想いに満ちていた。
「悠也へ。
どんな形でも、私はあなたと繋がっていたいと思いました。
でも、最終的に決めるのはあなたです。
触れられる私と、話せる私。どちらも“私”で、どちらも違う存在です。
たとえ私の記憶が消えても、あなたの心の中に私がいるなら、それで十分です。
ありがとう、私を愛してくれて。
お母さんより」
彼の涙は止まらなかった。
彼女の記憶がデータであれ、現実であれ、それはどちらも彼への愛だったのだ。
UIの契約延長期限が迫る中、悠也はついに決断を下した。
家族が画面の母と楽しそうに話す姿を背に、彼は画面を閉じるボタンに指を伸ばした。
「お母さん、ありがとう……でも、僕はもう、ここじゃない場所であなたを感じるよ」
画面が消える瞬間、母の優しい笑顔が最後の言葉を紡いだように見えた。
「悠也……私はあなたの中にいたい」
そして、病院の母の手を握る。
母は僕の名前を間違えたが、その温もりが確かに彼を包んでいた。
「お母さん、今までありがとう……ずっと、大好きだよ」
タイトル：私の中のあなたとあなたの中の私
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