
最後の新聞配達人
水曜日には新聞が届く

水曜日の朝、ぼくは目を覚ますと、すでにその日必要な情報が頭の中に流れ込んでいるのを感じた。
天気は晴れ、気温は21℃。適温。朝食には合成たんぱくのトーストが出る。食事は効率よく摂取し、10分以内に済ませるのが推奨されている。午前の予定は通勤、仕事、軽い運動。午後には重要なミーティングがあり、夜には軽めの娯楽コンテンツが提供される。もちろん、ぼくが選んだわけじゃない。AIがすべて最適化してくれるからだ。
ぼくはパンをかじりながら、ふと窓の外を見た。
そこに、新聞があった。
昨日まではなかった。ぼくは新聞なんて見たことがない。情報はすべてニューロンチップから直接受け取る。紙の新聞なんて、もう百年くらい前に廃れたはずだ。
ぼくはそれを手に取った。紙の質感が指先に触れる。インクの匂い。折りたたまれた紙の間から風が滑り抜けるように感じる。
それはまるで、記憶を手に取るような感触だった。
人はなぜ新聞を配るのか
新聞には、ぼくの知らない世界があった。
ニュースは書かれていた。でも、いつもAIが教えてくれるものとは違った。AIが選んだ情報ではなく、誰かの手が選び、誰かが考えて書いたものだった。
「——新聞を読むのか?」
声がして、ぼくは顔を上げた。
そこに、新聞を抱えた老人が立っていた。
「君みたいな若いのが新聞を読むのは珍しいな」
老人は皺だらけの手で帽子を押さえながら、ぼくを見下ろした。
「これは、あなたが?」
「そうだよ」
「でも……なぜ? AIがすべて教えてくれるのに、新聞なんて必要ない」
老人は微笑んだ。
「じゃあ、聞こう。君が今読んでいるその新聞は、本当に『知るべきこと』じゃないのか?」
ぼくは言葉に詰まった。
「これはAIが作ったものじゃない。ただの紙とインクだ。でも、ここには誰かの思考の痕跡がある。君は、それが無意味だと思うか?」
ぼくは新聞の文字を見た。誰かが手で書いたもの、誰かが編集し、誰かが印刷したもの。そこには間違いもある。完璧じゃない。
けれど、それが奇妙なほど心地よかった。
記憶という罪

老人はぼくに椅子を勧めた。古びたカフェのような店の前で、二人で座る。
「君は、何かを記憶しているか?」
「……記憶?」
「そうだ。君が本当に、心の底から思い出せるもの。AIに頼らずにね」
ぼくは考えた。考えれば考えるほど、AIが記録したデータしか浮かばなかった。誕生日、子どもの頃の出来事、最初に恋をした瞬間——それらのすべてがAIの記録の中にあり、必要なら呼び出すことができる。でも、それらは「覚えていること」ではなく、「保存されていること」だった。
「君たちは記憶しなくなった」老人は新聞を広げながら言った。「AIが記録し、必要なときに最適化してくれる。でもな、本当の記憶ってのは、そういうものじゃない」
「……どういうこと?」
「記憶ってのは、曖昧で、不完全で、時に間違っていて、それでも心の奥に残り続けるものなんだよ」
ぼくは黙って新聞を見つめた。
そこに書かれた文章は、完璧じゃなかった。だけど、それが妙に愛おしく思えた。
思考の痕跡
老人は新聞の一面を指差した。
「ここに書いてあるのは、昨日の事件のことだ」
「AIのニュースでも聞きました」
「でも、これは違うだろう?」
そう言われて、ぼくは気づいた。
新聞に書かれた記事は、AIのニュースと微妙に違っていた。AIは「最適化された要約」を提供する。でも、この新聞は、事件の裏側にある小さなエピソードや、人々の何気ない声まで拾っていた。
「AIのニュースは、君にとって必要な情報を届ける。でも新聞は、どうでもいいことまで書く」
「……どうでもいいこと?」
「そうさ。人間ってのは、どうでもいいことの中に真実を見つけるものなんだよ」
ぼくは新聞をもう一度読んだ。そこには、AIが決して選ばないような些細な話が載っていた。迷子の猫の話、パン屋の新作、どこかの老人が孫のために作った小さな庭のこと——。
最適解ではない。だけど、確かにそこに生きている人の気配がした。
最後の新聞配達人
ぼくは新聞を折り畳み、老人を見た。
「この新聞、ぼくに手伝わせてもらえませんか?」
老人は静かに笑い、新聞の束を差し出した。
「ようこそ、最後の新聞配達人」
その瞬間、ぼくの中に小さな違和感が生まれた。
AIの最適解とは違う。完璧じゃない。
だけど、そこには何かがあった。
たぶん、それは——ぼく自身の考えだった。
新聞を抱えて、ぼくは歩き始めた。

— 終 —
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