数馬探訪
3月の連休、春の陽気の中起きる。サクッと人と連絡を取り向かったのは東京都檜原村にある数馬という集落である。
中央線に乗り、新宿を過ぎ三鷹のあたりからなんだか雲行きが怪しくなる。青梅線の駅、拝島で五日市線に乗り換える頃には少し雨が降っていた、気温も下がる。春から冬に戻されている、拝島発、冬行きの列車である。晴れた河原で湯を沸かし、コーヒーを飲みたかったのだが、今日はやめておこう。
武蔵五日市という終着駅にて降りる。五日市や十日市など市と名の着くところは、その名の通り、市場があった名残である、日本各地にある。西日本に多いイメージだが、西日本をメインに歩いているのでそういう印象なだけだろうか。
駅前は出店などが立ち並んでいる、人が多く、マルシェのようである。イベントをやっているらしく、誰かがステージでフォークを歌っている。心なしか天気も回復したようだ。
駅前にてバスに乗る、数馬行き。1時間の道程である。山の中の蛇のようにうねる川沿いの道を力強く走る。途中、クロネコヤマトの係の人が、配達用のゲージを車内に乗せてさってゆく。見慣れない仕組みだが、どうもバスがクロネコの輸送を代替しているようである。
集落を何個か過ぎ、これ以上はもう何もないだろうと思ったところに数馬の集落はある。
東京都唯一の村、檜原村の最深部がこの数馬である。失礼な言い方だが、こんなところになぜ人が住んでいるんだろうかと思う。熊本の五家荘や宮崎の椎葉村など、そういった集落は平家の落人伝説が残る。ここも平家かな、しかし、東日本まで逃げてくるだろうかと考える。後ほど調べると南北朝動乱の落人が拓いたようである。はあ、そういうパターンもあるのか。
終点の少し前にて下車、降りたのは僕らだけだった。小雨、気温が低い。
河原に降りれないかと道を探すが、道路と河原にはそこそこな高低差がある。雨で階段も濡れているので諦める。
雨の降る山村は、寂しさが充満している。つげ義春が好みそうな、といえば伝わるだろうか。背中を丸めて歩きたくなる、そんなところ。
分校跡が残っているらしく坂を登り訪れると、小さな木造二階建ての建物と、小さなグラウンドがあった。ここの卒業生だろうか、1人のおじいさんが案内してくれる、1999年に廃校とある。
中を見回して面白い発見をする。黒板が壁にベタ張りではなく柱に立て付けられていた。まるで仮置きのように。どうしてこんな構造なのかと聞くと、「よく気がついたね」と管理人。どうやら昔は教室同士をつなげる事ができたらしく、仕切りは可動式だったそう。体育館のない小さな学校の工夫である。
木製の古い建物はとても趣がある、廊下を歩くと板の軋む音が暖かく迎えてくれる。さすが山間部、各教室にストーブが置いてある。石油式と、それより以前の石炭(⁇)式のものがあった。
廊下にはこの街の文化財のようなものが雑然と置いてある。中でも目を引くのは、消防車である。今見る車のような物ではなく、人力で動かす古のものである。
後ろ側をよく見てみると、昭和20何年との記載がある。戦後になってもこの古風なものが使われたのだろうか。戦後といえばもはや車社会のような気もするが、田舎と都会は違うのだ。
例えば、戦後(1945-60ごろ)が舞台の映画「二人で歩いた幾春秋」('62公開)では中国地方の田舎の街で未舗装の道を直す道路坑夫が、電気もないような貧しい家に住んでいる。かたや、都会を舞台にした「下町の太陽」('63公開)は市電にのり、工場に働きに行き、キャバレーで音楽を楽しむ若者が出てくる。
同じ時代でも都会と地方の文化や技術の発展は天と地ほどの差がある。
極端な例だと新幹線がある。東海道新幹線がオリンピックと同時にスタート('64)してから、九州新幹線が開通するまで('04)40年も経っている。中央ではリニアを走らせようと言っている傍で、北海道やら長崎はまだ未完成なところもある。
SuicaなどのICについても、田舎ではまだ対応していない駅がたくさんある。IC対応と廃駅になるのはどちらが先か、というような駅も多い。
話を戻す。
管理人曰く、坂が多かったので消化活動はとても大変だったらしい。まあ、それもそうだろう。山間部の村の生活は想像できないほど苦労があるだろうな。
消防車の隣には、数馬集落の地図がありその上に人名がずらりと並んでいる。どうやら卒業生と住んでた場所が載っているらしい。今ならプライバシーがどうだの、へちまがどうだのと言って作れないシロモノ。
ここの集落の人の殆どがここの学校を出たようで、一軒に数人から十人以上名前が載っている。ここで気づいたことがある。家々に名前がついているのだけれど、それが苗字ではなく屋号なのだ。例えば、大久保さんがたくさん乗っている家の名前が「大久保」ではなく「松の木」とか。
昔の集落では、同じ苗字がたくさんいるから屋号が付いている。存在は知っていたが実物を見たことは無かったので少し驚いた。明治以前、苗字がなかった時代は基本的に屋号で呼び合っていたのだろうが、それ以降次第に廃れたものと思っていた。それが昭和、もしくは平成にも使われていたのだ。歴史の上に生活があるのだな、と思った。
おじさんに礼を言い分校を後にする。まだ雨がしとしと降っている。寒いので本命の温泉へ向かう。立派な茅葺き屋根の建物が今日のお目当て、秘湯と言われる数馬温泉である。立ち寄り湯、千円也。
この独特な茅葺きの形は兜造というらしい。山梨などに多く分布するようで、養蚕に適した作りになっているとのこと。どこへ行っても知らないことばかりである。
湯はシンプルな作りだった、洗い場が5個、湯船が一つ。窓からは雨の降る渓谷が見える。湯温はちょうど良く、疲れが取れる。天気は悪いがいい休みだ。
近くの食堂で定食とビールを頼む、たらふく食べる。後は寝るだけ。
乾杯。