俺も・・・鳥になる!!


昼下がりの午後、父不在を良いことに掃除を終わらせて、茶香炉を炊いて自宅自室のPCの前で文章(といえるものかどうかは置いといて)を書いている者がいるとしたらそれは私である(わからんて)
私と母は窓をガラッと全開にして掃除機をかけて空気を入れ替えを兼ねて掃除をするのが好きなんですが、左派である父は在宅の時が多いためそれがかなえられることは少ないので、本日のように父が数時間だけ不在の時は空気を入れ替えて掃除するのである。過去にどのように説得しても物別れに終わっているので、隙あらば・・という状況を狙っている訳でございます。おかげさまで階下はスッキリ★です。

さて、表題。
この言葉・・・というかセリフに何かしらの記憶がある方はそれは私同様数年前に「ガンダムNT」を観た方であるかと思います。
ええ、というわけで今日は私の本業が壱、オタク系の話について・・ではなくて。
話したいのは仏教が日本にわたってきて極楽浄土輪廻転生等の
「人は死んだらどうなるか」
という観念というか概念がそれ以前はどうだったかという話です。
ガンダムの話か!と思ってこちらに来られた方はすみませんorz

今はまるで宗教の一つのように扱われている神道なんですが、様々な本を読み返すと本来は宗教というか縄文時代から行われてきた日本人の民俗みたいな一面があったらしいです。
先日、3/6付の産経新聞の「正論」欄を読んで目からウロコでした。
産経新聞をなぜ読むに至ったかということはまた後日思い出したときに書くにして、教科書が教えてくれない、マスコミも雑誌も教えてくれない(というかお前ら知ってるくせに封殺してるんじゃねえかと思っている私)知らなかった原風景を教えてくれるので、日本とは、とを知りたい方がいらっしゃったらコンビニやネット等でご一読をどうぞ。

そう、鳥になると信じられていたんですよ。
『鳥居。それは鳥になった死者が止まる止まり木(居場所)』
という内容の文章を読んだとき目からウロコというかウロコの大きさももう鰯レベルじゃなくてもう鯛レベルですよね、大きな衝撃でしたと共に古来の日本人の信仰を垣間見れて嬉しかったような気持でもありました。
神社の鳥居は所謂「死後の世界(異世界)への入り口」でもある神聖な場所なんですね。
子供の頃、鳥居に小石を投げてそこに小石が止まるかどうかという遊びをしたことがあり、その都度「罰当たりだなあ」と親だったか近所の大人だったか誰かに言われたことがありましたがなるほどそういうことかと納得ました。確かにそれは罰当たりだと思う。

神道はもともとはこの国古来の民俗である。

それを「天皇教という諸悪の根源」と決めつけたGHQは戦中は神社という神社を焼き払い(そもそも、天皇教なんかねえし!)戦後に在っては「経典もなければ教義もない愚かな」神道を廃止してキリスト教を広めようとしましたが、諦めたようです。
それでもあいつら日本人は年中の神事をやめないし、新年の詣でも絶対に続けやがる・・・(←GHQ視点)。
そりゃそうだよね、だって宗教じゃないんだもんよ。
ちなみに牧師さんや神父さんを招いて戦禍を生き残った人々にキリストの教義を教えようと国内各所に派遣したらしいですが、某タレントさんのお母さんのように「マリアさんの処女受胎ばありえんとよ」と反論する御仁もいらっしゃって現場は混迷を極めた模様です。(おお、室町時代のザビエルさん論破の再来か)ちなみに、入信すればパンとか食事を与えようとしていたらしいですが、みんな話は聞くだけ聞いてましたが目的はただ一つ。
「食事を持って帰る、ただそれだけだ」(キリッ)
ちなみにマリアさん受胎論について芥川龍之介さんが「西方の人」という著作の中でとあることを書かれてますが、これはこれでなるほどと思った次第です

無論、その頃には仏教が浸透していた日本ですから亡くなったら浄土へ行き、そして転生するということの方を信じていたと思います。私もそうでした、3/5までは。
でも、仏教が渡ってくる前は・・・・ということを思わないでもなかったんですが調べようともしなかった怠惰な私ですが、3/6の記事を読んでなんか感慨深かったですね。主に縄文自体の人々の世界観でしょうがそれに少しだけでもふれられたような気がしました。歴史的にも民俗/民族的にも。

縄文時代の世界といえば今以上に生きるか死ぬか、食べることができるか否かという厳しい状況の中にいたでしょうし、生い茂る山々の広大さに様々な魂を感じたことでしょう。木や草が作る陰影の中に何か測り知れない存在を感じてきたでしょう。
獲物を求め山道を歩き汗を拭きながら空を見上げればそこには飛び交う野鳥が。なんであの生き物(鳥)だけあんなに自由に空を飛ぶことができるんだ?と不思議に思ったことかもしれませんし、現実的に「まあ、鳥は鳥やんww」と思ったかもしれません。
地上を歩き、その日の恵みに感謝しながら生きてそして今生を終えたとき、やはり「この人はどこへ行ったのか」と思ったときに空を見上げると鳥が飛んでいるのを見て、ああ、そこにいるんだねと信じていたのだろうなあ・・・。そしてそんな「彼ら」のために用意したのがきっと鳥居なんでしょうね、その奥には神が鎮座します死後の世界。

ちなみになんですが、日本食を食べるとき、自宅で食事を食べるとき、手前に箸を横に置き、その奥に食事がありますよね。
理由はちゃんとありまして
箸を横に置いてこの世(現世・食べる側)とあの世(自分の栄養分になってくれる元々は生き物だった食事)を仕切っているのだそうで。
なので食べる側は「いただきます」と手を合わせ、頭を下げるんです。
(そのあたりにアイヌ民族の命に感謝する言葉「ヒンナ」に共通するものを感じるのですが)

何事にも、意味はある。無意味なものはありません。
今どれだけのお宅で箸をちゃんと横に並べて配膳しているご家庭があるのかわかりませんが、本来はそうなんです。命に感謝していただくのでお箸も礼儀正しく持ち、そしていただく。命を頂いているのですからこちらもそれ相応の礼儀をもって綺麗な所作でご飯に臨まねば、と田舎の侏儒は思うわけです。

話はそれましたが、
「死んだら鳥になる」
という考えも悪くないと思いました。

そうかそうか、だから俺は生まれ変わったらパイロットになるとか思ってたんだなそうかそうか・・w
どんなパイロットだろう、雀印か、烏印か、鷹印か、それとも白鳥印か・・
(もうそれパイロットじゃねえだよ)

鳥になったらさあ、

手を広げ高く空へ飛ぶだけ(by/MWAM)
俺も、鳥になる!


追記というか、弁解というか
私は宗教の選択は自由でいいと思っています。
実際何故かキリスト教関係の人々との出会いとかご縁が深いので・・。
でも彼らとも貴重な交流をさせて仲良くしていただいてもらっています。

ただ、自分のエゴのためによそ様の宗教施設やそれに関連する遺跡を破壊することだけはやってはいけないと思っています。世界中、だれでもどこでも。
お天道様は観ていますよー。



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