コミュニケーションの機微
僕だけだろうか。
感謝やお礼をされると違和感を覚えることがある。
相手にとっては善行に見えたかもしれない。
だけど本当は自分の欲を満たしたかっただけ、ということも意外と多いからだ。
自分の中から湧き起こる使命感に駆られ、体が勝手に反応しただけだったり、自分なりの責任を果たしただけに過ぎない。
そこに対しお礼を言われることにむず痒さを感じる。
それが自分勝手な感情であることもよく分かっているが、そう思わずにはいられないのだ。
〇
近所の商店街には様々な店が立ち並ぶ。
スーパーや花屋、八百屋、肉屋など、ごくありふれた商店街だ。
その中をふらふら歩いていると、「日常」の間隙に目を魅くものがある。
出稼ぎに来日したであろう外国人の出店だ。
それに気づいた瞬間、もはや商店街の中ではなく、頭の中では「僕とその店の世界」になってしまう。
「ちゃんと稼げているのだろうか」「生計は立っているのだろうか」
店が視界に入ったときからいくつかの疑問が頭の中に湧きおこる。
そんなことを考えながら、店の方を見ながら歩いてると店主と目が合う。
「お兄さん、買ってって」
満面の笑顔で声を掛けられる。
そう口説かれれば最後。
論理では語りつくせない盲目的な衝動に駆られ、踵を返し無意識に店へと向かっているのだ。
商品を選り好んで、ご機嫌に会計を済ませるとあの言葉が待っていた。
「ありがとう」
少しカタコトな感謝の言葉に、例によってむず痒さを感じた。
感謝されて嬉しくないことはない。
ただ、この状況では違う。
感謝は要らない。
あなたが良ければ、僕はそれで良いのだ。
〇
もう一つこんな話を思い出した。
友人とスーパーへ買い物に行ったときのこと。
そもそもスーパーというのは友人と行く場所として向いていない。
同じご飯を作る訳でもなく、ともすれば片方の買い物に付き合わせてしまう。
その上、買い物かごを持ったお客が店内に溢れ、歩きづらいことこの上ない。
ただ、一つ不思議な経験をする。
料理を店で一緒に食べることはあっても、料理を作る前の食材選びを友人と一緒に過ごす事はほとんどないという点で新鮮なのだ。
普段なら一人で選んでいる。
でも今はその時間を誰かと共有している。
鶴が機織りをしている様子を見られてしまった、そんな気分になるのだ。
ただ、そんなときにしかできない話もある。
最近の悩みとか、自分の性格の事とか。
普段は出てこない言葉がポロリポロリと口からこぼれ落ちていく。
今度会ったときには口に出さないような、今だからこその面映ゆさを秘めた言葉たちなのだ。
「それ、おいしいの?」
一旦冷静になってみると、買い物中の会話にはそんな言葉がお似合いだと思った。
「おいしいよ」
そう返されるとなぜだか無言で自分の買い物かごにも放り込んでいる。
自分の生活の一端を見られた気恥ずかしさを紛らわそうとしたのか、会話を通して心の垣根が低くなっていたのか、それはよく分からない。
でも、それは相手も同じで、次の瞬間にはそんな僕の心理状態を向こうも悟ったのかもしれない。
その関係は言葉よりも強い意味を持つ。
意味は雰囲気の中に凝縮される。
僕にとってそれが心地よく、むず痒さに苛まれることもないのだ。
〇
「コミュニケーション」というのは一言では説明できない。
言葉でもあり雰囲気でもある。
言葉と雰囲気の間のスペクトルをピンポイントに「ここ!」と指差すことができる人もいるし、そうでない人もいる。
僕の場合、雰囲気を心地よく感じるというだけにすぎないのだ。
ただ、何であっても血が通ってなければどこかむず痒さを感じる。
「ありがとう」と言われたむず痒さは、僕の思いの丈を店主に説明できていなかったという意味で、血が通っていなかったから起こったのだろう。
言うなれば「コミュニケーション不足」の産物なのだ。
今回の感謝の事案に限らず、そんな事象が人生の中で往々にしてある。
もちろん、血が通っていない原因はそれだけではない。
僕も相手のことをほとんど理解できていない。
商品を買うまでまるっきりの他者であり、商品を買った後は少し心を通わせられたかもしれないが、きっとあまり変化はない。
相手にとって、僕は「ただの一人のお客さん」という印象がほとんどだろう。
(最後、笑顔でお別れしたので「ただの気の良いお客さん」くらいには思ってもらえたかもしれない。)
お互いを理解しあえるにはどうすればよいだろう。
完璧な理解は難しい。
一緒にスーパーに行けばよいのか?
裸一貫、銭湯に浸かればよいのか?
はたまた、目的もない世間話?
実際は、どれもが理解への一歩であり、お近づきの手段が異なるだけなのだと思う。
何となくでいいからお互いの雰囲気を分かち合えればよい。
「見かけよりも複雑な内面を持っている」
そう知ってもらえているだけでも素敵なことなのだ。