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推さないで。

「推し」という言葉に違和感を抱いていました。

そのことが意識化したのは、以下の企画がきっかけでした。

何の悪意もない、ひとつのエンターテインメントのコンテンツです。

多くの人が楽しんでいたし、これから始まる楽しい群像劇に期待が高まるものでした。

でも僕はうっすらと「番組が始まる前から「推し」を決めても良いのか」と思っていました。時間が経ち、今では、そもそも「あまりに早く「推し」を決めることは不健全なことなのではないか」と感じています。

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推す / 推さないは、「好き嫌い」とも通ずるものです

推さない=嫌いであるというのはやや乱暴かもしれません。ですが推す人の活躍は嬉しい一方で、それを跳ね除けるほどに推さない人が優勢に立つと、複雑な思い(人によってはネガティブな感情)を抱いてしまうのは想像に難くありません。

例:
推しているAさんが好きなのに、Aさんは不遇な状況に追いやられている。その代わりに推していないBさんがとても活躍していている。全然Bさんなんて良くないのに!あ、BさんがCさんに酷評されている。分かる分かるよCさん、Bさんなんて全然大したことないですよね〜!

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「大好きというのは、差別かもしれない。」というのはコピーライター・佐倉康彦さんが生んだ言葉です。1994年の商業コピーとは言え、ドキっとする表現です。

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僕が言いたいことはシンプルです。

好き嫌いを決める自由はあるけれど、無理やり好き嫌いを決める必要はないのでは?ということです。

確かに「推し」がいるということは便利です。同質のコミュニティでは話が盛り上がるし、好きであることを前提に世の中を眺めた方が全てが分かりやすくなります。(前述した「バチェラー・ジャパン」の場合は、推している人に感情移入することで、物語の展開がドラマチックになります。スポーツも同様ですね)

ですが「好き」「嫌い」を区分けすることで、不必要なノイズが生まれてしまうことも事実です。ひとたび「嫌い」と認定したものの評価を自らの手で上げることは困難です。

好き嫌いのグラデーションの間で、ゆらゆら揺れつつ、あえて立ち位置を表明しない。そうすると新しい発見があるかもしれない。意外と楽しめるかもしれない。

しばらく時間をかけた上で、じんわりと好きになったもの。そこには愛すべき価値があるのかもしれません。

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ほりそう / 堀 聡太
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