【いま、何も言わずにおくために】#002:演じる、記憶する、やってみる 後編|森脇透青・渡辺健一郎
※こちらのnoteは森脇透青さんの不定期連載「いま、何も言わずにおくために」第二回の後編です。
前編はこちらから。
他の記事はこちらから。
誤読されること、ずれること
渡辺
私は今でこそ批評家を名乗っていますが、2年くらい前まではほとんど書いてこなかった人間なので、今「顔の見えない読者に向かって書く」ということに強く悩まされています。誤読されることを恐れて、書くことに臆してしまうというか。俳優が、発言「内容」の責任者ではないから、という話と接続するかもしれませんが。
森脇
それは当然僕にもあります。我々は普通に意味を想定して書いているし、伝えようとして書いている。そういう意味では、「僕はちゃんと書くので、みんなはちゃんと読んでね」ということから一歩も出るつもりはない。誤読されたら戦えばいいと思う。でもやっぱりそれが読まれていくっていうところで生じるのはきっと意味の変容であって、デリダのいう「誤配」──別の宛先に届いて意味が変容していくこと──なんですよ。マジックワードなんであまり使いたくないんですけど。結局、誤読されようがされまいが、そこから面白いものが生まれてくればいいと考えてもいるんです。どれだけ忠実に何か読んでくれたとしても、その人が何か触発されて起こす行動がなければ面白くない。
そういう「誤配」に関してやらなきゃいけない自分の仕事こそが、「考古学」だと思っています。つまり、別の宛先に届いて意味が変容していったと言うのであれば、いつそれがどうやって変容していったのかもちゃんと見ていかないといけないと思うんです。偶然起きたことは後から発見されるしかないわけですから。
出来事とは何か
渡辺
これ、テクニカルなのか、本質的な問題なのか、身もふたもない質問になってしまうかもしれないんですけど、どうやってそれを可能にするんだろうか?(笑)
いや、つまりどのテクストを読むのかとか、テクストの連続性ないし不連続性が、いかに発掘されうるんだろうか、ということです。
森脇
どの水準で見るかというところはあるんですけど、やっぱり「出来事」だと思うんですよね。「出来事」が起きて「意味」を変えてしまうっていうのが重要で、それは最近東浩紀が「訂正」と言う言葉で表しているものに近い。僕だったらあえて「革命」と言い続けたいところですけれど(笑)。よく知られているように、もはや大きな変化は起きえないのだ、という、冷戦後にフランシス・フクヤマが言ったような態度に対して、しかしそれでも出来事は到来するのだ、とマルクスの革命論を援用して語ったのがデリダだった。
たとえば絓秀実の『革命的な、あまりに革命的な』(ちくま学芸文庫、2018年)みたいな著作は、六八年という切断面において、「訂正」がいかに起きたかを詳細に論じる史論として読むことができると思っている。もっと遡れば、1930年代だっていいし、フランス革命だっていいわけです。ただし、僕は大文字の切断、全部が変革されるリセットみたいなものとしての「革命」を信じているわけではない。どんな革命についても、持続している問題設定は必ずある。持続と切断のバランスを見つつ、その配列を変えるために介入することが大事だと思うんです。そのことが将来起きる出来事のチャンスを作ることだと思う。
渡辺
今、人文学者というか哲学者としての真っ当な態度を示してもらったなと思うんですが、「出来事」という言葉で何を想定しているか、ということなのかもしれません。その出来事は、書き手が勝手に作ってしまっているものなんじゃないか、という。
森脇
いや、むしろそうした出来事を発見するのは、「勝手」ではあるかもしれないけれど、哲学者や歴史家の仕事としてはもっとも重要なものに属すると思う。
渡辺
でも、人は意味を見て取っちゃうじゃないですか。つまり、元首相が殺されるっていうのも、ただ一人の人が殺されたということだとも言えるわけで、無数の事象のうちの一つを特権化するみたいなことになってしまわないか、あるいはそうだとして、その特権化はどのように正当化されるのか……。
森脇
たしかに恣意性の問題はどこまでもつきまとうと思う。それになんでも「出来事」にしてしまうと、その都度のスキャンダルに振り回されるだけになってしまいますから。「考古学」の使命のひとつは、一般に大きな出来事として受け止められ、その周りに大量の「意味」が発生している事象に対して、それは本当に出来事として考えるに値するのか、実は大した変革をもたらしていないんじゃないかと考えることでもあります。しかしいずれにせよ重要なのは現在優勢を占めている観念を少しばかり変えることでしょう。
未完成を見せる創作
渡辺
出来事のまわりで何が語られている/きたのか、ということですよね。これに関してちょっと聞いてみたかったのは、森脇さんは「物としての言葉」ということを強調していると思うんですが、このとき「完成」についてはどう考えているか、ということです。さきほど触れた書くことの責任みたいなことにもつながるかもしれないんですが、例えばワークインプログレスという言葉があります。それに代表されるように、良くも悪くもプロセスの共有が重視されている時代だという風にも感じるんですよね。まだ一つの「物」になっていない、感触のようなものを提示しているというか。
ちょっと違う話かもしれませんが、最近の批評は一時期、たとえば80年代と比べると、「書く私」みたいなものをあまり問題にしていないですよね。自分の場合は批評史を通っていなかったので、「書く私」にこんなに困惑していることに恥ずかしさを覚えていたんですけど、最近ようやく批評史を学んで……。
森脇
小林秀雄とか、「私」に悩みまくってますからね(笑)。柄谷行人も。その悩み自体が「批評」と呼ばれてきた事実は確実にあると思う。
渡辺
そうそう。で、「書く私ってなんだよ」ということについて書くというのも、ある意味、プロセスの提示というふうにも言い得るかもしれないんですけど、これが個人的な関心の中心の一つになっています。
森脇
良くも悪くもですが、表現のハードルみたいなものが下がっている時代だと思うんですよ。去年文學界で、『エッセイが読みたい』という特集があったんですが、いわゆるエッセイスト・随筆家の人たちじゃなくて、文学フリマで売っている人まで含める企画が中にあるんです。
エッセイというのはまさに言葉通り試みることですから、要するに「やってみた」なんですよ。いまは「やってみた」の社会、エッセイ社会であり、何か作られた結果よりも、「やってみている」作り手に、そのプロセスに同一化して、その成功物語を一緒に体験したいという欲望が強くあると思う。もちろん、「やってみている」試行錯誤が受け入れられているのはとてもいいことではあって、そういうベンチャーな試行錯誤に対して厳しすぎるような社会に進歩はないと思う。しかし同時に、作品よりも「やってみている」作り手の方に過剰にスポットが当てられ関心の中心になってしまうことには警戒しておいたほうがいいし、それが結果として一種の「試行(エッセイ)」として、「実験」の価値を持つのかは、やはりもっとシビアにみたほうがいいと思うんです。
僕は、完成とプロセスの提示は、やっぱり両立することだと思うんですね。つまり自分が完成したと思ったものであっても……他者によってでもいいし、時間が経って、他者としての自分によってでもいいんですけど、あとから欠陥が発見されたときには、続きの作業が必要になっちゃう。やっぱり完成っていうのは、理念的なものというよりは締め切りとか文字数とか時間とかですよね。だから「これでいい」、つまり、有限化ってことじゃないですか。「もの」は、ある意味では、どこかの段階では有限化されないとずっと続いてるわけだし。
渡辺
聞いていて、私は表現のエッセイ(実験)性をまさに強調したいのだと思いました。エッセイが完成されているとはどういうことか、完成された物がまだエッセイに開かれているのはどういうことか、といった様な。端的に言って、ただプロセスを露出するだけの、悪い意味で「無責任」なワークインプログレスもやはり多いと感じてしまう。やはりプロセスが提示されるならば、何らかのレベルで「表現とは」と問われていなければならないだろうし、その問いをすくいあげて増幅させるのが批評家と呼ばれる人たちの大きな役割のうちの一つなのだろうな、と。かなり素朴でクラシックな考えだとも思いますが。
「最近の若者は批評ができない」は本当か?
森脇
今、多くの大学教員、特に批評理論なんかを教えている人たちは、学生を見て、全然批評ができないと言うわけです。それは一面では正しいのですが、僕はそこで逆のことを言ってもみたいんです。「意味」やら「想像力」やらが貧しい時代に対して「批評」が勇ましく立ち向かっていくのではなく、今はみんなが批評しすぎている時代、意味と想像力があまりに過剰な時代なんです。
批評の時代であり、もう一つ言えば、誰もが表現したい時代、創作したい時代でもある。僕はこれを最近は「ワナビー資本主義」と呼んでいますが、YouTubeの昔のキャッチコピーで、「好きなことで生きていく」と言われていましたよね。あるいはいろんな大学の創作コースの広告を覗けば、一様に「あなただけの表現を探そう」と言われている。いろんな人を、あなたは表現者になれるんですよ、もっと広く言えばインフルエンサーになれるんですよという形で意欲を掻き立てる。そしてそれ自体が商品にもなっている。もちろん、一番得をしているのはプラットフォームであって、そこで個々人の「やってみた」表現が成功しようがしまいが関係ない。
渡辺
これは現代に限らないかもしれませんが、漫画なんかでも、創作の過程を表現するようなものが出ている印象です。たとえば『映像研には手を出すな!』や『これ描いて死ね』、広く言えば『推しの子』なんかもそうかもしれないけど。批評の時代と言いつつ、書くということがどういうことなのかはわかってないから、そのプロセスがいかなるものなのか、何かお手本みたいなものも欲しがっているところはあるかもしれない。そういえば自分も大学生のとき、批評家になりたいって漠然と思ってた時期もあるんですけど……。
森脇
なったじゃないですか(笑)。
渡辺
僕の場合は、「書きたい」「表現したい」という欲望からいったん離れて、それこそ演劇教育についてとか、目の前の違和感を書き連ねていたら批評家として認知されるようになってしまった、みたいな感じなんですよね。批評家になろうとしてなったわけじゃないというか。
何かを言いたい。でも何を……?
森脇
かぶせて言うのもどうかと思いますけど、「批評家になりたい」って欲望はすごく漠然としているんですよ。YouTuberと似ていて、別にそれを目指すのはいいけど、じゃあ何のYouTuberになるのっていう。
僕もさっき渡辺さんが言ったように、自分が読んだものについてたんに書いているだけ、みたいなところがありますね。その意味では、決して何かを「やってみたい」という試行の情熱そのものを否定したいわけではないんです。
結局、目の前のものにまず没頭する作業みたいなものからしか何も始まらないとは思います。その意味では、僕は『これ描いて死ね』みたいに、野蛮な情熱——何かを受け取ってしまったから、それをやるしかない、という、ある意味間違った決意——そのものをストレートに出された場合には、決して嫌いにはなれない。ただ、これもあまりに古典的な倫理かもしれませんが、そのときには、何かをする「自分」じゃなくて、まず何ができるか、何をすべきか、ってことにまずはフォーカスしなくてはならないと思う。「自分」というのはそうした試行錯誤の果てに、開き直りのように肯定されるもののはずでしょう。「だって私、あの人を追いかけてる私が好きなんだもの」(今敏監督『千年女優』2001年)という仕方で。
とても素朴に言って、「もの」の手触りにまず集中するという経験がどんどん奪われているのではないか。ベンヤミンは集中や熱狂に対して、一種の注意力の散漫さ(「気散じ」)こそが大事だと言い、それも同意するけれど、他方で「気散じ」があまりに支配的になってあちこちに——大量の広告やら事務仕事やらスマホの通知やらで——注意を逸らされ続ける社会状況においては、リラックスと集中のモード・チェンジをいかに実践できるかこそが大切になる。
渡辺
現代では何かを言いたい、というときに、「何か」の方ではなくて、「言いたい」の方に焦点が当たってしまっているということですね。そうではなくもっと目の前の対象、「何か」に没頭すべきだという意味では、佯狂(ようきょう)という言葉がヒントになるかも、と思っています。「狂ったふりをする」ということですが、演劇ではよくそういう人物が登場します。このとき、俳優に「これは狂ったフリなんですよ」という態度が透けて見えると観客に対しても説得力がでない。目の前の対話相手を真剣に騙すんだ、というテンションで臨まなければならない。したがってこのとき、舞台上での没入と、舞台上での冷静さというのが、イコールになっていると言えるかもしれません。
森脇
そうですね。僕自身他人事ではなく、文章を書いていてまったく至らない点があるなと痛感するのは、そのバランスです。書いているとテクスト上にはある意味で演技的に自分が勝手に立ち上がっていく。そのとき、まさに書いている途中の自分の興味関心とつねにズレていく。文章上で、方向性の引っ張り合いのようなものが起きる。そのバランスのとり方は、僕にもまだよくわからない……。
渡辺
私は一人の俳優として、「俳優の言葉」をもっと増幅させたい、という気持ちがある。演劇をめぐる言葉は演出家や批評家のものばかりだったので、俳優が演技について語る言葉をもう少し前景化した方が良いんじゃないかと思っています。トーンとかイントネーションとか、「言い方」を操る俳優は、表現に際して「意味」のみを考えていない。語が発される瞬間、「意味の発生」の際の身体感覚みたいなものが重要なんじゃないか。これは、さっき森脇さんの言っていた「革命」的な大きな意味と矛盾するのか、しないのか……。
森脇
「考古学」という言葉を用いたことで何か大局的すぎる物言いになったのですが、ある意味ではそうした日常的な身体感覚をいかに捉えなおすか、ということが批評の課題だとは僕は思っています。そういう意味での日常生活批判が──批判というのは吟味という意味で──もっと必要なのではないかと思います。それこそがかつて現象学がやったことですが、近年では随分誤解されているように思う。
いずれにせよ、日常的なもの、身近なものが議論や表現の中核としてポピュラーに用いられてはいるものの、そのインフレーションのなかで用いられている「日常性」のイメージはごく使いまわされたものにすぎない。「生活の時代」と、「生活を忘却した時代」は矛盾しないのです。
生活を問い直す言葉と戦略
森脇
たとえば、ゼロ年代以降に出てきた文学でいえばとりわけ朝吹真理子は、日常の感覚みたいなものを細かく見ていくと、何気ない風景を書いているだけでもグニャグニャ歪んで、危うげなものになっていくということを書いていた。近年そういう現象学的な取り組みは少し後退して、むしろ語られるエピソードや語る「私」のほうに中心が移っている印象があります。そのなかで、語ること、知覚すること、日常感覚が再度安全で自明な逃避の場所になってしまっているんじゃないでしょうか。しかし、日常や生活というものこそきわめてスリリングな、批評の現場ではないかと思う。
そういう意味で、文学や批評が、ひいては言葉が、生活というものを問い直していないという怠惰があるのではないかと思います。
渡辺
改めてブレヒトの話をすると、彼が身振り(Gestus)と言うときには、歴史的に形成されてしまっているその身振りは本当にお前のものなのか? という問いが含まれています。その身振りを相対化しようというのが彼の言う異化であって、まさに歴史からの切断を図ってるわけですね。それは「書く私」、「言いたくなってしまう私」の問い直しにも繋がっていると言えるのかもしれません。
森脇
その意味でブレヒトの「異化効果」自体が、あまりに陳腐なクリシェとして使われすぎてしまったのでしょう。それを「異化」すべき時期に来ている(笑)。渡辺さんが着目されているランシエールの仕事もそういうものかもしれません。
結果として、「意味の考古学」は表面上は二重に見える戦略なのです。マクロなこと──革命的なこと──を問うのも、ミクロなこと──日常生活のこと──を問うのも、結局は一つのことだと思います。
著者プロフィール
1995年大阪生まれ、京都大学文学研究科博士課程所属。批評家。専門はジャック・デリダを中心とした哲学および美学(学術振興会特別研究員DC2)。批評のための運動体「近代体操」主宰。著書(共著)に『ジャック・デリダ「差延」を読む』(読書人、2023年)。
Twitter:@satodex
1987年生、俳優、批評家。ロームシアター京都リサーチプログラム「子どもと舞台芸術」2019-2020年度リサーチャー。演劇教育活動の実践と哲学的思索とを往還した文章「演劇教育の時代」で第65回群像新人評論賞受賞。著書に『自由が上演される』(講談社、2022年)。追手門学院大学非常勤講師(2023年~)。