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人が見た事ないもの

昔、知り合いと刺青デザインについて話した事で今でも忘れられないやり取りがあります。

私「人が見たことのないものをやりたい」
知人「人が見たことのあるものをやった方がいい」

もちろんこれは
背景に「伝統刺青を受け継ぐ私たちは」という主語があります。

その主語ならば彼の主張は正しいようにも思えるのですが、今でも私の中で引っかかっているのです。

金看板大先生の初代彫俊一門の端くれに名を連ねる私ですが齢55にもなって師匠に叱られるほどに
いわゆる「可愛い」デザインや特異なスタイルに執着しておるところです笑

なぜか?

若い頃はスタイルが定まらずただ漫然と依頼されたデザインを彫るというスタイルでした。
ただ、休まず手を動かす事は技術向上の役に立ったとも思います。

でもそれって心からつまらない。
世界を見れば歌川国芳や河辺暁斎、月岡芳年の武者絵を使ってみんな同じ下絵の刺青。
海水浴に行けばみんな龍や水門破り。
私個人としてそれが心からつまらなかったのです。ただただ消費されていくコンテンツ。
果たして彫師側が水滸伝の原典を理解しているのか?
江戸の刺青愛好家がなぜその絵柄を嗜好したのか?
それらを一生懸命学んだ私のそんな背景もその疑問に影響したのかもしれません。

そこで気付いたのは彫師にも複数の自分でも理解していない嗜好がある事を分析して

「技術タイプ」
「アートタイプ」
「お金」
「またはそれぞれの複合」

 などに分けて話を進めたいと思います。あくまで個人的見解であって伝統刺青関連に限定します

技術タイプ

私は「個性」こそ人を惹きつけ
それこそ「後世に残るもの」の一つと考えます。
いわゆる「見たことのないもの」です。
そう言う目線で過去の浮世絵師たちの評価もしています。

たとえ大量生産される同じ水滸伝のモチーフでも全く違うアプローチで作品を作る事は私からすれば「アート」です。

ただ、そこにはお客さん側の刺青に対するリテラシーが関わっていて

「先輩が彫っているこういうのがいいです」どこかの誰かが綺麗な薄墨で浮世絵の様に彫っている写真を持ってきて「これと同じもの」という依頼はリテラシーの低さを感じます。(こんな薄いの10年も持たないのになどと思っちゃったりしますがこれはまた別な話)

これに従順に従う事ができるのが職人を志向する「技術タイプ」微妙に個性を散りばめて着物の柄や色使い、表情などは変えますが基本的には一緒です。
このタイプは結構多いように思います。刺青の綺麗さは素晴らしく道具のこだわりが半端ないです。
プロだからこそ道具のこだわりはどのタイプでも当然ですがその事でマウントや逆マウントを考えるようなら多分このタイプです。

まさしくこのタイプが作るモチーフを「見たことのあるもの」
と定義した場合
あの時の私は「見たことのないもの」と知人に反論したのです

アートタイプ(独創性)

自分の嗜好を過去学んだものと融合させて昇華させる事だと思います。
まず伝統刺青が基礎になければ全く話にならないのですが
ベースを持ってそこに自分を融合したうえでそこから少しづつ離れていく。
「守破離」の精神です。
伝統を「守って破って離れる」
横浜の先生も言ってました(^^)

私がアートタイプだとは言いませんが少なくとも「好きなものを」に目覚めてからは
伝統の縛りにとらわれすぎず
私が好きな絵柄を
一生懸命学んできた和彫と融合する事に心血を注ぎました。

独創性は言うまでもありません。
(このNoteを読んでいただいて改めて私の作品をInstagramなどでご覧いただければ移り変わっていく作風や苦労してるんだろうなぁと言うご感想をお持ちいただけると思います)

お金タイプ

言うまでもないです。
ビジネスです。
彫師は職業です。
食べていくための小さな生業(なりわい)です。
ですからビジネスの側面を否定しませんし大事なこととも思っています。
ですが、簡単に儲けられると思ってしまうのには違和感があります。
人の命すら預かる代償はかなり大きいです。
これからは制度化法制化が進みます。
お金目的で安易に彫師を名乗るにはリスクがあるでしょう。

閑話休題

さて結局彼と私の意見の違いは
思考するタイプと未来を見通す世界観の違いだったのか?
今では知る由もありませんが
今でも彼の作品は見ています。
変わらず美しく、到底真似のできない技術を持って最先端にいる彼と
こんなふれあいができたのは光栄であるとともに
江戸末期の有名浮世絵師が同じ時代を生き、お互い意識しながら切磋琢磨していた時代に重ねて浪漫を感じる次第です。

駄文乱文ご承知の上ご容赦ください
(毎度の事ですね)

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