ココロザシナカバ~壮絶な自分史~ 第一話:「私が生まれた」
東京府中市の「3億円事件」が起こる少し前、昭和43年11月の中旬。
岩手県の山奥の産院で、私は阿部家の長女として産声をあげた。
しんしんと雪の降る明け方だったそうだ。
このあと私が、9人(うち3人は里子に出た)きょうだいの長女になるなんて知る由もなかった。
私を産んだ母は20歳と若かった。大工をしている7つ年上の父の元に、18の年に嫁いだと言っていた。見合い結婚だったそうだ。
岩手の家は父の実家だったが、長男だった父が出稼ぎに出ることになり、生後2ヶ月の私を連れて、母と3人で上京した。
そこは東京の練馬だった。風呂なしアパートの1階。
間取りを今でも覚えている。
玄関を入るとそこは小さなキッチンで、すぐに4畳半くらいの部屋がふたつ続いていて、その先に縁側があった。
日当たりの良い、暖かな部屋だった。
誰も信じてくれなかったが、その家の玄関には若い女の幽霊が住んでいた。
私はしょっちゅう話しかけられて、時々母を呼んで「そこにいるよ。」と指を指して見せたが、母は何もいないといつも私をからかった。
でも本当にいつも玄関に立っていて、モゴモゴと何かを言っていたのだ。
私が幼すぎて理解できなかったが、その女はいつも同じことで怒っていた。それについて私に文句を言いつけてくるのだ。
そんな練馬で私は伸び伸びと育った。2歳の時に弟のコウが生まれ、4歳の時に妹のミユが生まれた。それが私にとってはひどく嫌だったらしく、毎日彼らをいじめて母を悲しませたという。寂しかったのだろうけど、そんなことは覚えちゃいない。
毎日行けるというわけじゃなかったが、近所の銭湯に行くのが大好きだった。タイルで描かれた大きな富士山の壁画の前にプールのような浴槽、ちょっと熱めのお湯にドボンと入る、あのいい気分がなんともたまらなかった。そしてもっと私をいい気分にさせてくれたのが風呂上がりの《森永マミー(乳酸菌飲料)》。瓶に入った冷たいマミーを、濡れた髪のままゴクゴク飲むあの幸せ。昭和の子どもはそんなことで幸せを感じることができたのである。いい時代だった。
そういや一度、大人の腰ほどのブロック塀から滑り落ちたことがある。
塀の上を平均台のように歩いて遊んでいた。
足を踏み外して、飛び出ていた鉄筋棒がお股に刺さって大ケガをした。
刺さって引っかかった場所は左太ももの内側の付け根で、もうわずか上部だったら、女性の大事なところがぶっ裂けてしまうところだった。
おぉ、クワバラクワバラ。
その日のことはよく覚えている。
太ももを血だらけにしている私に、田舎から遊びに来ていた母の母、つまりおばあちゃんが「オロナイン塗れば治る!」とケロっと言ったこと。
でも痛みよりとにかく怖かった私は、その一言ですごく安心したのを覚えている。
ちなみにその傷は、運ばれた病院で7針も縫った。
つづく
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