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ココロザシナカバ~壮絶な自分史~ 第4話/60話:「長女まゆみの献身」


働こうと。

でも小2の私を働かせてくれるところはない。
そこで思いついたのが瓶拾いで稼ぐことだった。

当時はペットボトルなどなく、瓶が主流だった。
コーラやファンタの瓶を拾って酒屋に持ち込むと、
5円だ10円だ30円だと換金してくれたのだ。
放課後になると目の色を変えて瓶を集めた。
近所の子も巻き込んでジャンジャン集めたので、日々300円ぐらいは稼げた。
カブトムシやクワガタも獲って売った。
稼いだお金を母に渡すと母は喜んでくれたし、いつも褒めてくれた。
母からあてにされていることが嬉しくてたまらなかった。

その頃わたしは、瓶拾いで稼ぎながらサイドビジネスもしていた。
たまに瓶の収入が大入りの日は、それでハガキや切手を買っておくのだ。
何のために買っておくのかというと、懸賞目当ての応募に使うためだ。
川柳や俳句、標語に作文と、片っ端から応募して賞品や図書券をゲットしていた。鉛筆一本でお金が稼げる(お金じゃないが)なんて、人には教えたくないほどおいしい仕事だった。
特に文章を書く事が好きだったわけではない、
なぜならば、夏休みの読書感想文なんて一度も書き上げたことがない。
しかし、懸賞への応募は胸が躍ったのは、稼げて母を喜ばせられるからだ。

賞品でお米なんかがあると特に鼻息を荒くして書いた。
しかしそんな母への愛もむなしく、しばらく経つと母が仕事に出ることになった。どんな仕事か聞くと「水商売」と言った。
夕方になると出かける母を、水商売というから、てっきりお皿洗いの仕事でもしているのだと思っていた。

今まで母は専業主婦で、私は化粧した顔さえ見たことがなかったから、綺麗に支度して出かける姿を見て、とてつもなく遠い存在に感じたものだった。毎日夕方が来ると、寂しいのに寂しいと言えない自分に押しつぶされそうだった。
私の務めは弟と妹にご飯を食べさせて、お風呂に入れて寝かせることだった。
母はいつも一番小さいキヨだけ連れて行った。
託児所という、小さい子なら面倒を見てくれるところがあるのだと言っていた。

私も小さい子になりたかった。

そんな水商売とやらが続き、数ヵ月後には父に日産ブルーバードを新車でポーンと買ってやったのだから、母は相当稼いだのだと思う。
キャバレーというお店で働いていると母が話しているのを聞いていたが、そこのお皿洗いの給料って、子どもながらにすごいのだろうなと思っていた。

父は日産ブルーバードで毎日母を送り迎えした。

私の稼ぎは当てにされなくなった。
母の役に立てなくなった私は、精一杯に弟たちの面倒をみた。
母に必要とされることが私の生き甲斐だったからだ。

お金を稼ぐようになった母は、家の中で発言力を手に入れた。
今まで専業主婦で、「食べさせてもらっている」というのが口癖だったのに、それが逆転したからだ。

離婚したいと毎日言うようになった。

一番先に生まれた私に「あの時お前さえ産まなかったらこんな人生になっていなかった。」と、離婚できない理由を私のせいにしていつもプンプンしていた。

両親のケンカがどんどん激しくなっていく日々。

母はケンカの後、ぶっ散らかった部屋をそのままに、いつも荷物を持って出て行った。
いつでも出られるように押し入れの中には、一番下の幼いキヨと自分の着替えを入れたボストンバッグが用意してあった。
私は母に家出されるのが嫌で、このボストンバッグを隠して母にひどく叱られたことがある。

母の家出は1週間ぐらい帰ってこないのが常だった。
うちはお金がなくてもケンカ、あってもケンカでうんざりしていた。

そして母が家出で不在中の、父の機嫌の悪さと言ったら、それは手がつけられなかった。

鼻息がうるさいとか背中を丸めて座るなとか、些細なことでよく殴られた。
特に泣き虫の弟は「男のくせに泣くんじゃねぇ!」と、大工道具の金属製の物差しで年中ひっぱたかれていた。

つづく

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