感想とは何か、あるいはゴダールの方法 ――フィロショピーを受講して
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講義の画面に福尾さんの顔や机や参考文献は見当たらず、ただWorkflowyがモニターに直結されていた。編集画面のカーソルの点滅、スクロールで上下するレジメ、オンタイムのタイピングと文字変換、それに福尾さんの声が重なる。
このインターフェースはすごくゴダール的だ。ゴダールの映画が他のどの映画とも違うのは、彼が他の誰とも違う方法で映画を見ているからだ。見方が違うから作り方も違う。
映画が面白かった時僕達はストーリー展開や演技の迫真性については雄弁だ。ゴダールは映画に必ずクレジットされる監督、脚本、出演者、撮影、録音、編集、衣装、美術、音響、照明などの諸能力すべてが達成した成果にいちいち平等に反応する。当然同じ方法で自分の映画を撮る。
ドゥルーズ講義で習ったばかりの能力、再認の二語を使えば、ゴダールの方法とは映画の諸能力を外部から「それは私の知っているあれだ」と何かの同一性を再認するのではなく、それぞれの能力を超越的かつ多元的に使用して新たな映画的実践を発明することだ、と言える。
全編を早送りにして1分半に短縮した2009年の『ゴダール・ソシアリスム』の予告編には度肝を抜かれた。とにかくカッコいいのだ。その仕掛けは目まぐるしく変わるコントラストが強調された画像ではなく、早送りされていない音楽にあった。試しに音を消すとメリハリが消え衝撃もしぼんでしまう。ゴダールはこの予告編で、音楽の抑揚が脚本の代わりに映画のストーリーを語るという新しい技法を発明したのだ。
この発明は、ゴダールが見た数え切れない映画のストーリー創造能力への賛辞という応答以外の何物でもない。ゴダールは映画史に対して新しい映画史を発明する。ゴダールは観客と制作者を頻繁に行き来する。「見るー作る」という感嘆と称賛の観客的連鎖を牽引するのが、「面白い」という当たり前だけど考えると少し不思議な一個の符牒だ。面白かったから自分も作りたい、面白かったからまた見たい。
「それってあなたの感想ですよね」と言うヒロユキ氏が正確に指摘するように、面白いという符牒と感想という言表のコンビは100パーセント主観的かつ非論理的で正しさや真理についての根拠と是非を問う論争では全くの役立たずだ。「面白い」に先導された感想は永遠に論破され続ける。
逆に言えば感想に求められているのは万人のための客観性や普遍性ではなく、つまり再認や共通感覚で対象の外側に特権的な場を築くことではなく、対象の内部に留まって外部から論破され続けること、内部的役立たずであり続けることだ。感想を論破しても相手は何も得られないし感想は何も失わない。
感想だけでどんなに面白い本を書いたとしてもそれは「面白い」に関する分析と総合でしかない、だから面白くなるのだけれど。これはゴダールを見ればよく分かる。言い換えれば、「なぜ面白いは面白いとしか言えないのか」という問いの答えが感想ということになる。
「面白い」は何かを指しているけれどそれは概念ではないし、感性的な快・不快だけでもない。ただ「美しい」という語は「面白い」にかなり近い、美しいものは美しい。この二語は符牒仲間だ、符牒はパスワードに似ている。「面白い」というパスワードを入力すると感想というワンダーランドが出現する。
ここに来て感想という一語は一般的な感想の範囲を大きく逸脱しようとしている。臆面もなく言えば、ドゥルーズ講義最大のトピック「哲学とは概念を作ること」に触発されてその一語は概念を孕み始めたのだ。ゴダールの方法は〈感想〉の方法だった。
映画を「面白い」とつぶやきそれが〈感想〉になるのはどんな機制によるのか。映画はイメージであり「面白い」は言葉、つまり意味だ。イメージが意味にジャンプする時、〈感想〉に何が起こるのか。
僕たち主体は、いかにそれが流動的で不確実であっても、身体という袋に含まれるあらゆるものを一つのまとまりとして感受している。昨日の自分と今日の自分は同じだけれど、昨日から今日にかけての出来事が一日分の過去として記憶によって書き加えられてもいる。もし昨日見た映画が面白くなかったのに今日は面白かったとしたら、その一日の経験が「面白い」という判断に作用したからだ。
映画を見ることは、記憶の総体としての過去をもつという条件下でこそ可能になる。その総体を人生と言い換えれば、人は人生を背負って映画館に行くのだ。人生を一本の映画に例えるなら、映画を見る僕たちは他者の映画と自分の映画を重ねて見ていることになる。映画を見るとは二つの映画の相互干渉のイメージを体験することだ。当然二つのイメージはピタリと重なりはしない。
けれど僕たちが「面白い」とつぶやく時、つまりヒロユキ氏に「それは感想ですよね」と指摘されるだろう時、映画では二つのイメージがピタリと重なる奇跡が起きる。面白かったから自分も映画を作ったという他者と、それを面白いと思ったボクが「面白さ」で重なるのだ。
自分で自分の作った映画を「面白い」と断言することは主観の円環が邪魔をしてどうしたって不可能だけれども、ただの観客のボクは自分だけに固有の記憶、100%の主観性と非論理性、つまり自由に担保されていとも簡単に「面白い」と断言できるのだ。
他者もボクも人生を背負って映画に対峙しているのだから、重なったのは二つの人生だとも言える。もう一歩踏み込めば、ボクは他者の映画に何らかの仕方で出演している自分を見たということになる。
〈感想〉とは他者の中に新たな自分を発見すること、そしてその限りない連鎖なのだ。「面白い」と〈感想〉の最強タッグはこのような機制によって何事も意味づけず、何事も権威づけない仕方で僕たちをひたすら映画のイメージの中に留まらせる。にも関わらずその連鎖は外へ外へと広がって行く。
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