宇部詩人◉永冨衛さんシリーズ⑥
中原中也の「思ひ出」-煉瓦工場への道のり
⑥れんがは古里遺産
話をれんがに戻そう。厚狭郡厚東村棚井(1954年に宇部市に編入合併)出身の父謙助(1876~1928年)が営んだ中原医院、その中也の生家跡には、赤みを帯びた塀が今も垣間見える。
謙助が幼い日の中也を連れて、土地勘のある地元の海辺を歩いたと考えられないだろうか。その記憶を基に「思ひ出」を書いたとしても、飛躍した想像ではない。
宇部市教育委員会教育次長を務めた宮本誠さん(2008年死去)が、厚東郷土史研究会(小野田智文会長)の会誌「厚東」に「中原中也の原風景、棚井」の題で謙助の足跡を執筆している。その中で「中也は謙助の実家の野村家に深い愛着を持ち、結婚してからも妻孝子を同伴して訪ねている」と書いている。
謙助が13歳まで少年期を過ごした野村家には、赤れんが塀が現存する。同所に住む野村美智子さんは「義母(2012年死去)から、中也のお嫁さんになった野村孝子さんとは、いとこ同士で仲が良かったと聞いていた」と振り返る。美智子さんが嫁いだ六十数年前には既に塀が存在していたという。
山口市内には、登録有形文化財として県立山口図書館書庫(中河原町・1918年建設)で今の文化施設「クリエイティブ・スペース赤れんが」や「小郡上郷・旧桂ヶ谷貯水池堰堤(えんてい)」(1923年完成)など、公共の建造物に赤れんが使用されているのが通例だ。
「クリエイティブ・スペース赤れんが」のイベントスペースでかつて一人芝居「土佐源氏」を演じた役者、坂本長利(1929年~)が公演で訪英した際に見た、シェイクスピア・シアターの外観赤れんが造りを懐かしんでいた。旧桂ヶ谷貯水池堰堤は、その取水口に赤れんがを徐々にせり出させ装飾風な蛇腹仕立てをアクセントにしている。いずれにしても、赤れんがは威厳のある建造物をさらに引き立てる役目を果たしている。
山口市内の民家には中原家のような赤みを帯びたれんが塀はほとんど見当たらない。宇部で生まれ育ち、医院を営んだ謙助が、宇部かられんがを取り寄せたと考える方が現実に近いだろう。故郷をしのんで築造したと想定されるれんが塀は、謙助にとっての〝記念碑〟だったのかもしれない。
宇部地域がかつては桃色れんがと古い赤れんがの一大生産地だったことを実感したボクは、れんがに魅せられて市内のれんが塀・倉庫・祠(ほこら)を探し回った。壊され消えていく風景の中、残してほしい遺産だと認識した。愛おしさを感じながら。
そして写真をメーンにし、キャプションを添える新聞連載に取り組んだ。撮影には、れんが構造物の〝お気に入り〟のアングル、光線の角度があるはず。気がつけばれんがを擬人化していた。
自ら探したり、読者からの情報も参考にしながら、ロケハンに数度通った。撮影の条件を整えるために、周辺をうろうろしていると通りすがりの人に奇異な目で見られた事例もある。いや、不審者を見るような目付きも。幸いにも? 警察には通報されずにすんだ。
さて、取材の決行である。取材しながら、これは宇部の遺産の記録だからと確信し、新聞記者の使命だと肝に銘じた。当たり前だけれど、れんがの持ち主にはすべて撮影の許可を得た。本記を「中也の『思ひ出』-海と煉瓦工場」で連載をスタートさせ、れんが風景の連載へと発展させた。ボク個人としては本記を書いて、もう退職してもいいかなと目論んでいた。それは間もなく泡と消えた。
桃色れんがと赤れんががどんな風に市民の日常の中にあるか。ビジュアルつまり写真で訴えなければ、仕事は終わらない。なので、退職を少し先延ばししようと決断した。
連載は「れんがのある風景」をメーンタイトルにし、サブタイトルを「中也『思ひ出』への物語」13回、「道と暮らし」11回、「わが家の思い出」8回と、3シリーズを切り口を変えて計32回にわたって写真と200字程度の記事で紹介した。
3シリーズの終了後、れんが風景を見るたびにもっとやればよかったと悔いが残らないではなかったけれど、老兵は死なずにただ消え去るのみ、である。現役の終わりごろには、いつもそう胸に刻んでいた。あとは後進記者が、宇部の財産であるれんがに関する歴史などを、引き続いて発掘してくれることに期待を込めるに留めた。【おわり】
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