シン・エヴァの巨匠「庵野秀明」と宇部
シン・エヴァンゲリオンでヒットしたアニメ興行師・庵野秀明監督は、山口県宇部市の出身である。
庵野監督が子供時代を過ごした木造アパート「明光荘」が、シン・エヴァのラストシーンに登場する宇部新川駅近くの西中町1丁目に残っている。
そこが、かつて上町と呼ばれていたのを私が知っているのは、すぐ前の駐車場の空地に、戦前まで私の祖父・堀磨の屋敷があったからだ。
私は祖母に連れられ、子供の頃に、よくその界隈を歩いた。
大分県直入郡宮砥村(現、竹田市の一部)の村長(堀頼彦)の2男として明治23(1890)年に生まれた祖父は、日韓併合前に渡鮮し、朝鮮総督府の官吏として働いたのである。ところが半島からの炭鉱労働者が大量に宇部に流入したことで、役人を辞めて大正末に沖ノ山炭鉱に入ると上町に屋敷を構え、外地から入る労働者の人事管理を担ったのである。
その祖父も、昭和5(1930)年に肺炎で亡くなり、2人の子供を抱えた祖母は屋敷を人に貸し、近くに別に小さな家を借りて、弟が営む居能の野村呉服店の手伝いをして暮らしをたてた。
祖父の旧宅は、大東亜戦争期に米軍の焼夷弾で焼かれた。
しかし、まさかその焼け跡に隣接して、大工の松本銀次郎さんの親(松本行雄氏)が戦後に「明光荘」を建てていたとは、知らなかったのだ。
そこが2歳年上の庵野監督の旧宅となっていたことも、である。
シン・ゴジラに登場した「西中町」と「鵜ノ島小学校」
実は「明光荘」のある現在の西中町は、庵野監督の「シン・ゴジラ」にも一瞬だが登場する。
映画の中ほどで、強大化するゴジラの被害から逃れる住民の避難所として「群馬県伊勢崎市 避難所(西中町公民館)」の字幕が現れるのだ。
それが監督ゆかりの地であることは、直前に登場する「埼玉県加須市避難所(鵜ノ島小学校体育館)」で、宇部の人たちにはわかる仕掛けになっている。
すなわち庵野監督の母校・鵜ノ島小学校は、「明光荘」からJR宇部線の踏切を越えて直進し、酒のフロンティア(鵜ノ島店)の角を右手に折れれば到着できる。
平成11(1999)年10月24日にNHKが放送した「課外授業 ようこそ先輩」では、その鵜ノ島小学校で庵野監督がアニメの授業をしていた。
仕立師の父
庵野監督の一家と共に「明光荘」で暮らしていた成藤圭吾さん(昭和15年生れ)は、隣接して自分の家を建てていた。
すぐ横を、かつてクモハ42が走っていたJR宇部線の線路が走る。
これも鉄道好きの庵野監督の原風景の一つである。
成藤さんは、懐かしそうに思い出を語る。
「庵野さんの一家は、最初は大家の松本銀次郎さんの家の2階に住まわれていました。それから明光荘の2階の真ん中の部屋に移られたんです」
―お父さんは何をされていたのですか。
「卓哉さんは仕立師でした。出身地のツワノ(島根県津和野町)の製材所で足を怪我されたとかで、宇部に出て来て洋服の仕立ての仕事をはじめたと聞きました。当時は、宇部興産に消費組合というのがありましてね。最初のころは、そこの仕事を請け負っておられました。私の父が布を切る裁断師で、卓哉さんと一緒に働いておったんです。工場は、三炭町のワサキさんの奥にありました。卓哉さんは私より10歳くらい上だったでしょうかね」
―そのころの庵野監督のご家族は…。
「卓哉さんと奥さんの文子さん(宇部市広瀬出身)。それから秀明さんと妹の富士子さんの四人家族でした。私たちは、秀明さんを〈庵野の兄ちゃん〉、妹さんは〈フジちゃん〉と呼んでおりました」
私は明光荘の大家である松本さんに頼んで、かつて庵野監督一家が住んでた「明光荘の」の2階の部屋まであがった。
庵野監督が過ごしていた部屋からは、宇部興産の工場の煙突が見えた。これがシン・エヴァのモチーフとなったテクノスケープ(産業景観)だったのだ。その後、ご両親の卓哉さんと文子さん夫妻は、銀天街の中のトキヒロ(中央町3丁目)に仕立てた洋服を収めに行くようになったという。
トキヒロのオーナーだった時廣一さんは、大型スーパー「大和」の社長でもあった。両方の店を手伝っていた弟の時廣篤雄さん(昭和12年生まれ)は、庵野夫妻をよく知っていた。
「ご主人のほうが上着で、奥さんの方がズボンを仕立てておられましたよ。二人とも非常にまじめな職人さんでした。昔は銀天街の入口にうちの支店がありましてね。そこの2階で庵野さんご夫婦が仕事をしておられたです。私が成人式に着ていった服も、庵野さんが作ってくれた洋服でしたからね」
いまその銀天街のアーケードも、一部分を残して取り払われている。すでにトキヒロも営業を終えているが、建物はかろうじて往時の姿を保ち、「トキヒロ」の文字だけが残る。
さて、明光荘を経営していた松本銀次郎さんの妹・橋本美和子さん(昭和18年生まれ)は、息子の智仙さん(昭和42年生まれ)が、アパートの子供たちと遊ぶスナップ写真を取り出すした。
「これですよ、庵野さんは」
指さした先には、片隅で絵を描く学生服姿の中学生がいた。
「こんな感じで、アパートの前でも絵を描いていたのですね」
「そうですね、息子が五歳くらいなので、庵野さんは中学の一年生くらいじゃないでしょうか」
「藤山中学校の」
「ええ、そうそう」
絵を描くのが好きだった中学時代の姿をとらえた貴重なポートレートを、橋本さんの許可を得て紹介しておこう。
以上が庵野監督を郷土宇部から深堀した内容である。
更に詳しく、その前後まで含めて、宇部時代の庵野監督の全貌を知りたい方は、『エヴァンゲリオンの聖地と3人の表現者』(UBE出版)を読まれることをお勧めする。ここには、未だ語られなかった庵野ワールドの原風景がいくつも取材されている。
なお、著者プロフィールも山口県情報誌『トライアングル』(2023年5月号)の「山口イズム」から転載しておこう。
この『トライアングル』も山口県の食、観光、歴史、文化、イベント等々をわかりやすくきれいな写真で紹介する人気雑誌なので、山口県を知りたいかた、満喫したいかたには、一読をお勧めする。