『セールスマンの死』―松前了嗣追悼―作家◉田月隆治(山口市在住)
墓場に現れたセールスマン―これが二人の始まりであった。
二〇一一年五月六日。私は山口の生家におり、翌日の帰京を前に山間にある墓地にきていた。掃除を済ませた処で、ふと下の方に目をやると、三〇代後半か、童顔、背広姿の男が、カバンを提げてこちらを見上げているではないか。一体、何?
ひょっとして墓石のセールス? ……
狭い急坂をようやくに上がってきて言うには、各地を転戦、維新を勝ち取りながら、戦後の処遇に抗議したのを弾圧され、処刑された奇兵隊戦士の墓がここにあるというので来たのだと。そうか。しかしここにはなかった。折角なので曾祖父堀来蔵(元藩士で彼らとの交渉役を務めたと後に分る)の墓でも見て貰ったのだが、別れ際、名刺を残していった。松前了嗣。墓石じゃない、自動車保険のセールスマンであった。
翌年私が初めての小説本を出すと、A4の封筒に宛名など、墨で大書した便りをくれ、祝辞と共にプリント二冊が同封されてあった。氏が菜香亭で行った二回に亘る大講演会。「七卿の足跡全紹介」前編、後編。記述に山口弁が混じり、古い文書も山口弁で翻訳。更には高杉らの緊迫のやり取りを山口弁で創作、彼らの必死さも伝わるが人間臭さに笑ってしまう。
前編の「むすびにかえて」には、歴史を辿ってみるに「世の中というものは「思いがけない、偶然なる縁で結ばれ」新たなものが誕生、「実に不思議なものでございます」とあった。
松前氏と私もそのような奇縁から始まり、帰郷の度、酒豪の氏と杯を酌み交わす仲となったのだが、東京にいては、彼が当時力を入れていたブログを見るしかない。定期的に萩往還道にまつわる事柄が取り上げられ既に相当に回を重ねていて、実直に作られた記事は極めて好ましいものであった。
講演会の方は、七年前に私が生家の方に居を移してから市民館で交流館で、また公民館で拝聴させていただくこととなった。歴史として新たな発掘があるわけではない、ただ山口県人ながら先祖の維新期の苦闘を殆ど知らない。そういう者相手に面白おかしく歴史の一ページを開いて見せてくれるのだとしたら、貴重な人ではないか。何より彼には郷土史家の先生方には望めない芸人の才が感じられ、先ず語り口が平易である上、人物のセリフを山口弁で、それも形態模写迄交え、さもありなんと言った調子でやってのけるものだから、大笑いとなる。彼の本業に引っ掛けて言えば、郷土史の素晴らしきセールスマンではないかと思ったのであった。
その中に分ってきたのは、彼が山口市内のあちこちの地区、団体、また市の催し、広報からの講演依頼、執筆依頼が絶えない、大変な売れっ子であるということだった。サンデー山口には二〇一六年からは大村益次郎伝を連載、十八番となった大村の講演会も定期的に催され、又そのおでこの大きく突き出た似顔絵も、巧みなものであった。松前了嗣は、人気の郷土史家、市の有名人と言いうる存在になっていたのだった。
その源である語りの才能に惚れ込んだ私は、杯を交わす度、今からでも遅くないと講談師の元への弟子入りを勧めるのであった。その熱情に打たれ、ついに意を決した彼は居住いを正し、「やってみましょう」と明言するのであったが、期待を裏切らなかった試しはない。
無理もなかった。既に現在、各所で講演会を開き、月一程度、希望者を引率して史跡巡りをして回る、恐らくは少年時より人気者であった彼の人生の夢はほぼ充たされている。加えて維新期の要人たちへの顕彰事業も続け、更には墓地での出会いがそうであったように、維新を成し遂げ栄達の道を歩む者たちの蔭で無念の死を遂げた人々を照らすこともしていれば、既に自己実現すらなされていると見るべきであろう。
年長者(正しくは私より二十下、出会い当時四十三歳であったと最近知る)との約束を反故にする常習犯となりながらも、彼は私が開く飲み会の常連であり続けた。これから行っていいですかと、夜遅く電話してきたこともあった。会えば気が済んだか、深夜の酒盛りにも彼が屈託を吐露することはなかったが、そのように奇縁で結ばれ、酒宴で育まれた二人の絆もしかし、絶えず流動し続ける彼の世界の中に紛れ、消えかかろうとしていた。彼の活動交際範囲の拡大があり、それを彼はフェイスブックでまめに伝えるようになっていたのだ。そうなってはあの静かな記述の往還道(ブログ)が懐かしく、会に行事にと彼の周囲にひしめく人も多くては余り見たいものではない。友人の中には、フェイスブックにどっぷりの人たちのことを、「おかしいんじゃ」と切り捨てる者もいた。ただ私は山口出身の唯一人の首相・寺内正毅の残した桜圃寺内文庫の保存運動に関るようになっており、運動に資する目的で寺内の生涯を講談化、演者として誰をとなった時、彼をおいて他に誰がいよう、彼しかいなかった。
私のたっての願いに、張り扇だけはご勘弁と言いながらも松前氏は承知してくれたのであったが、その試演会直前のドタキャン。コロナワクチンを打たないと言う彼を説得しようとしたのに反発したのだった。絶交状態となったが、一年後、偶々先生がご老人方を率いてわが家の前を通られたのがきっかけでまた杯を酌み交わすことに。ウクライナ各地がロケット弾攻撃を受け、死屍累々という時で、その不条理さに酒も苦い思いでいると、彼が異なことを言い出した。プーチンさんは、全く悪くないと言うのだった。これには松前氏とは私以上に気の合う仲になっていたNが身を乗り出し、どうしてそういう考えになるのかと聞くが、終にプーチン擁護の根拠らしいものは出てこなかった。
思想信条の自由は尊重したいが、納得迄は無理でも、せめて一理あると思えなくては。まさかフェイクニュースの類に憑りつかれている? と懸念された。名士であり、知識人であるべき人が! 新聞なんか読まないのか。郷土史は得意でも元々教養の深さに問題がある人だったのか。
コロナワクチンの時にもげっそりした思いをしたのだったが、彼の依怙地さ、頑なさはどこから来ているのであろう。
フェイスブックから垣間見れば、相変わらず旺盛なる講演活動、郷土史家としての活躍がある。がもう彼はそうして生きることに、虚しさを覚え始めているのではないか。彼にとってもう刺激的でなくなっているのではないか……そんなことも考えるようになっていた。破綻の予感、と言っては大げさになるが、私は危ういものを感じずにはいられなかった。
思い余って私は彼に手紙を書き、偏った情報源にだけ耳を傾けることの無いよう訴えた。思えば大晦日に遅く迄飲んで、泊まっていったこともある。時移り事去り、彼ともう会うつもりはないのであったが、私は彼の本業の保険に入っておりその期限が切れて会社に言うと、彼がやってきた。手続きが終わり、聞いた。あれを自分は五日かけて書いたが、どうだったか。彼は言った、「私は自分が間違っているとは思っておりませんので、変えるつもりはありません」。
今生の別れであった。そしてそれは、その後間もなくの彼の死によって正にそのようなものとなったのであったが、私の破綻の予感が、交通事故という形をとって現れようとは!例え彼の酒がそれに絡んでいたとしてもである。
もうあの山口弁は聴けない! 私を含め、大勢の人を楽しませてくれた。山口市民、いや県民は、かけがえのない郷土史の無償のセールスマンを亡くした、永遠に失ってしまったのだった。
追悼記事
山口の地域情報紙・サンデー山口 (sunday-yamaguchi.co.jp)