ボランティアとお金、仕事の関係について(2023年8月)
会社員にとってのボランティア
2023年7月22、23日、児童養護施設の里山付き別荘・さとごろりんお披露目会には48名もの方が来られて、自由にさとごろりんのよさを体感いただきました。ここは、NPO法人・東京里山開拓団が10年以上通いつつけてきた里山のふもとに見つけた築300年の古民家、といっても朽ちるにまかされていたゴミ屋敷でした。半年かけてボランティアが児童養護施設の子どもたちとともに大した予算もなく素人DIY、ほぼ手作業で自らのふるさとを作ろうと改修してきたのです。
その際に私は、ご招待した支援団体の方からインタビューを受けることになりました。東京里山開拓団ではこれまでどんなことに苦労したのか、何を目指しているのか、どうやって展開していくのかといったことを一通り話しました。
最後に、オフレコで構わないのでぜひ聞きたいのですがと切り出されて、こんな質問を受けました。
「堀崎さん個人のことをお聞きしたいのですが、働きながらどうしてこんな大変なことが実現できたのですか」
つまるところ、忙しいはずの一介の会社員が、どうしてボランティアに相当な時間を割ける環境を作れたのかという質問です。
実は私は30代後半から40代後半まで10年間ほど、さらにボランティアに注力できるよう人生設計を描き直して、お金・時間・心のゆとり、周りの理解を拡げるための試行錯誤を重ねてきました。その結果、5年前に目途が立って、転職して週3日だけ勤務し、あとはボランティアや家族、そして自分の時間に充てられる、私にとって理想的な環境を作り上げることができました。
でも、どうやってそんな環境を作れたのかについて、公の場でお伝えすることは内心はばかられるところがありました。それは、正直に話したとしても、聞いている人に、たまたま運/才能/環境に恵まれていたからこんなことができたのであって、普通はできないことと受け止められてしまうことを恐れていたのです。それがボランティアをしない理由にされてしまうのではないかという心配です。だから、本気で話を聞きたいという方だけにしか率直には伝えてきませんでした。
でも、これだけははっきりとお伝えしたいのですが、普通の会社員や主婦、学生にボランティア活動の立ち上げができないということは全くありません。むしろ会社員や主婦、学生だからこそ、休日や平日に空き時間を確保して安定的にボランティアの時間を作り出すことができるはずです。実際、私自身もこの活動を立ち上げたときは、ごく普通の雇用環境で一介の会社員として働き、2児の父として家庭を支えながら、休日に何十年も荒れたままになっていた山林を開拓し、平日夜などに仲間を募ったり児童養護施設に働きかけたりしてきたのです。
私の理解では、「忙しいからボランティアができない」というのはほぼ言い訳にすぎません。多くの人がボランティアをしない理由は忙しいからではなく、「社会課題克服への思いがそこまでいたっていないから」です。もしかしたら、毎日相当無駄に費やしているスマホ時間の一部を回せばいいだけなのに、それもせずに忙しいといっているだけではないでしょうか。24時間365日猛烈に忙しくしている企業経営者のなかにも、熱心にボランティアに取り組んでいる人はたくさんいるのですから。
社会課題克服の必要性は分かるけれども、やはり自分は精神的に日々の生活で精一杯と考える方もたくさんいると思います。でも、これもはっきりとお伝えしておきたいのですが、ボランティアは本来自分の生活を犠牲にしてまで行うものではありません。それではいつか無理が来て継続できないからです。私の場合はボランティア活動を自分のアウトドア・DIY趣味、育児、交友関係の延長線上に構想してそのついでに立ち上げてきました。こうすれば、何かを犠牲にすることを大きく減らせるからです。
これからボランティアに取り組もうとする人にとっては、こんなステップで進めていくのがいいのかもしれません。
・まずは自分の関心を持っているところの周辺に社会課題がないか探して理解を深めます。
・次に、自分に無理なく継続できそうなかかわり方をじっくりと考えます。
・それから自分の時間の使い方を本気で見直して、時間と心の余裕を作り出します。
・そしてボランティア活動を試行錯誤しながらじっくりと継続して取り組んでいきます。
こんなふうに本当に自分に合ったボランティアのあり方を追求していけば、何かを犠牲にすることなく継続して取り組めるようになるはずです。その際、大切なことは、社会のために自分がやらなければなどと思い込みすぎずに、肩の力を抜きながら、じっくりと継続して取り組んでいくことです。肩に力の入りすぎた思い込みは、しばしば独善的で周りを振り回すばかりですので。
そして試行錯誤を継続していった先には、自らの取り組みへの確信、自分自身への自信、将来の理想、共感できる仲間とのつながりといったものがしっかりと形作られるようになるのです。その結果として、乗り越えられない壁ばかりに見えていた現実のなかにも一筋の光明が道筋を照らし、その先に向かって一歩ずつ確実に歩いていけるようになるのです。
ボランティアへの見方を変える
ここでは、誤解が多いと思われるボランティアとお金、仕事の関係について、さらに掘り下げてお話したいと思います。
長年ボランティア運営をしていると、周りからしばしばこんな話を聞きます。
・自分の仕事や生活で忙しいだろうによくやるね
・ボランティアだからきっと運営面でお金には苦労しているだろう
・お金をかけて便利なものやサービスを活用したらもっと早く手間なくできるのに
・もっとお金があったらもっと大きな社会貢献ができるのに
・ボランティア運営もお金を回すことが大切
・職員を雇えばもっと成果が出せるのでは
こういった見方は世間では一般的です。でも、私自身がそう感じることはほぼありません。むしろ長年ボランティア運営を試行錯誤してきて至った結論は全く対極のところにあります。
☆「仕事や生活で忙しい」と思い込んでいるからいつまでたっても時間にも心にも余裕が生まれない
☆自分の趣味の延長にボランティア活動を位置づけられたら、忙しいからできないなんて考えなくなる
☆ボランティア活動そのものの存在価値を上げれば運営面でお金に苦労しなくてすむ
☆お金で解決できるような社会問題だったらすでに解消されているはず
☆お金で便利なものやサービスを利用することで大切なものを見失ってしまうことがある
☆ボランティア運営で大切なのはお金が十分なくても継続して回り続ける仕組みをつくること
☆職員を雇うことで目指すべき道を誤ってしまったり中断したりするリスクもある
いま、企業のSDGs活動、ソーシャルビジネスなど社会課題をビジネスの力で解決しようという風潮が高まっています。きっと企業にできることはたくさんあるでしょう。でも、ビジネスの力では解決できないところもたくさんあるのです。むしろ今も出口の見えない社会課題というのは多くはお金で解決できないために深刻化しているのです。
極論に聞こえるかもしれませんが、私には社会課題の多くは、お金至上主義社会のひずみのなかで生まれていて、解決に関わってきた行政や専門家、業者も含めて多くの人がお金の幻想にとらわれているから、社会課題は一向に解決されないのではないかとさえ感じているのです。そんな現状がお金の力で本質的に解消できるとは到底思えないのです。
そして、青臭く聞こえるかもしれませんが、私は企業よりボランティアという運営形態のなかに社会課題克服の可能性を感じているのです。
その理由の一つ目は、社会課題克服のためには活動を継続することが何より大切だからです。どんなことがあっても継続するためには、収入がゼロになっても乗り越えられるコスト構造、つまり固定費ゼロであることが理想的です。企業経営で賃金ゼロ、オフィス代ゼロにしたらついてくる人も多分ゼロになるでしょう。でも、ボランティア運営では本質的に、賃金や肩書を求めて人が集まるわけではなく、志に共感した人が集まって協力してくれますので、それが実現可能なのです。
二つ目の理由は、社会貢献活動に自らの利害関係を絡ませてしまうと道を誤ることがしばしばあるからです。収益事業化による活動の拡大を目指していたボランティア団体が、結局自らの人件費確保のために行政や企業の下請けになり果てて思い描いていた理想に取り組めなくなるケースはごまんとあります。また、社会貢献を高らかに掲げていた企業が、結局公金にたかったり、自社商品サービスのPRに終始したり、コストをかけずに社員の意識を高めようとしたりするだけのケースもごまんとあります。現場の担当者はその矛盾を深く感じながらも、自分の給料を差し出すこともできず、現実をできるだけ見ないようにしてやっているふりをしたり自己正当したりする程度のことしかできなくなってしまうのです。
三つ目の理由が、むしろ元々お金がない状態で志に満ちた人たちが現場で試行錯誤したときに一番いい社会課題の克服方法にたどり着けると考えているからです。私たちが、長年放置された荒れた山林や空き家に目を付けたのも、自然の恵みやボランティアの力をフルに生かそうとしたのも、児童養護施設の子どもたちとふるさとを作るプロセスに協力してもらうことしたのも、元々お金がないことを前提として試行錯誤して思いついた方法論です。でも、それらは妥協の末の方法論ではなく、お金があふれるほどあっても到底手に入れられない本当に心豊かな暮らしや社会にたどり着くための理想的な方法論と考えているのです。
もちろん社会課題のすべてがボランティアの力で解消されると言っているわけではありません。ただ、肥大化する行政や巨大化する企業と比べて、ボランティアというのは世の中であまりにも過小評価されている気がしているからそう言っているのです。ボランティアこそが一番理想的な形で社会課題を克服していける領域はたくさんあると思うのです。
私たちのボランティア活動というのはとても小さな、でも大いなる社会実験です。それは、荒れた山林や空き家というこれまで多くの人が問題視しながらも自分はかかわりたくないと目を背けていた存在に向き合い、児童養護施設の子どもたちという支援すべき対象と思われていた存在がボランティアの大人たちとともに原動力となり、大した予算がなくてもみんなほぼ手作業で喜んで参加して、これまで願ってもかなわなかったふるさとという究極の居場所を自ら作り出していくなんていう高すぎるハードルは本当に乗り越えていけるのかという社会実験です。
この実験の成否は、この形のままどこまで継続できるかによって決まります。過去、山林の荒廃、空き家、子どもの虐待・貧困、過疎などには莫大な税金が投入されてきましたが、今なお社会課題として取り残されたままになっています。もしこの小さな実験が成功したなら、他の多くの社会課題に対しても、ボランティアの力と自然の恵みを生かして、大したお金もかけずに社会課題を克服していくモデルケースにもなると思うのです。
お金や仕事への見方を変える
もっといわせてもらうなら、私は世間の多くの方々にボランティアへの見方だけでなく、お金や仕事への見方も変えていただきたいと思っているのです。それこそが心豊かな暮らしや社会を作り上げていくためのスタートラインになると考えているからです。
例えば、私たちの社会では、小さな頃から将来の夢といえば「仕事」、すなわちお金の稼ぎ方を答えるのが当たり前になっています。実際、小学校の卒業文集に将来の夢はボランティアなんて書いている人は見たことがありません。片や、Youtuberが子どもたちに人気の夢となったのは、それでお金が稼げるようになったからです。そして、大きくなるにつれて(最近は小さなころからずっと)、勉強やトレーニング、試験、試合、面接など、将来夢の仕事に就く準備のために多くの時間をささげます。
でも、私は仕事の中に夢を過剰に求めるのはどうかなと思うようになりました。そう考えるから人生が息苦しいものになってしまっている気がするのです。
夢の仕事というのは、人気があればあるほど少ない座席を他人と争ってそこに座る必要があります。そしていったん座ることができてもそこで終わりではなく、さらなる競争にさらされたり、現実との乖離に悩まされたりします。あるいは、残念ながら夢の仕事につけなくても、なお他の仕事をしながら追い求めたり、諦めてからくよくよと後悔したりして、いずれにせよ相当な時間と苦労を割かなければなりません。
それでもやりがいがずっと持続できればいいのかもしれません。しかし現実に目をやると、他人を競争してやっと手に入れた仕事も、ほとんどの場合他人や他社でいくらでも代替えがきくということに気づかされます。自分の持てる力を仕事で発揮して社会に貢献したいと思い込んでいたのに、実際には自分でなければできないなんてことはほぼなくて、もし自分がやらなかったとしても社会は一ミリも変わらない。お金になることなら他の人も競ってやろうとするので。このことが明白なる現実として明らかになるのです。
ところが、さらなる問題が現れます、夢を仕事にしようとしてきたばかりに、もしそれを失ってしまったらこれまでの自分の努力は無駄となり、自分の生活ももちろん成り立たなくなってしまうという恐怖にとらわれて、結局自己を正当化しながら既得権にしがみつく存在となっていくのです。かつては社会に貢献したいと描いていた仕事のはずなのに、今や自分のため以外の何物でもないという受け入れがたい現実が立ち現れてくるのです。
そしてはっと我に返るのです。仕事というのははじめ夢という形をとって目の前に現れていたけれども、結局のところ、私がやろうとやるまいと社会は一ミリも変わらないけれど、その仕事をして輝いている自分でありたいという心の狭い自己実現願望、いうならば幻想を見ていたに過ぎなかったのではないか―—
だったら、そんな夢にしがみつくようなことはやめて、仕事というのはお金などこの世の中を生き抜く手段を得るためと割り切るのも一つの方法ではないかと私には思えるのです。夢は仕事を通じて実現しなくともいいのです。夢を仕事にしようとするから、今を犠牲にし過去に固執し未来に疑念を抱いて、人生が堅苦しいものになってしまうのです。そして、むしろ夢は自分の利害を絡ませて仕事にしない方が、より究極の理想を追求できるのかもしれません。
私自身についていうと、かつて学者とか経営者といった仕事に夢を抱き、厳しい現実に触れて試行錯誤しながらそんな夢を見つめなおし、30代後半になって、仕事ではなくボランティアのなかに夢を見出すようになって今に至ります。
どうしてそう考えるようになったのかを振り返ってみると、私が高校生の時に亡くなった祖父の残した言葉がとても大きな影響を与えていたことに気づきました。
明治の終わりに愛知県の片田舎で、貧しい炭屋の13人兄弟の末の方に生まれた祖父は、中学を出てすぐ家業の手伝いを始めます。やがて商才を現し、映画や不動産の時流もとらえて財を成して、50を数える頃には早くも仕事から引退していました。お祭りになると血が騒いでたくさんの人を家に呼んで振る舞う一方で、信心深くて生涯で一万個の数珠を一期一会の方に配ったり、ひとり茶室にこもって物思いにふけったりする面もありました。
私はずっと近くに住んでいながら仕事やお金については特に話した記憶もないのですが、亡き後仏壇の中から家訓として書き遺したこんなメモが見つかったのです。
一日も早く生活を安定させよ
そして余力ができたら困っている人を救って
その方々の笑顔を見てこれこそ人生最高の幸せと思う人になれ
つまり、仕事というのは生活を安定させる手段にすぎなくて、本当に真価が問われるのはその先にどんな行動と思いを備えた人間になれるかだ、と祖父は考えていたのです。仕事=将来の夢=目指すべき最終形と思い込んでいた高校生の私は、この考え方に衝撃を受けました。仕事こそが夢の実現なんて考えていた自分が、いかにちっぽけで自分自身のことしか見えていなかったかに気づかされたのです。
その後私は、民俗学の本を読んで、祖父だけが格別に崇高な考え方を持っていた訳ではなく、明治生まれの地方に暮らしていたごく普通の人たちがごく普通に抱いていた考え方だったことを知りました(広く普及し生活に根付いていた念仏思想の影響と思われます)。やがて社会に出た私はこの言葉を忘れないようにと、毎年新しい手帳に書き写すのを習慣にしています。
この視座に立っていまどきの仕事やお金への考え方を見つめていくなら、多くの人が仕事のなかに「危険な夢」を抱いているように感じられてならないのです。夢というのは自分自身で考えついたことのような顔をしているけれど、その実は社会の誘惑から生まれた幻想であることも多いからです。
資本主義の膨張は、いまや個人の欲望(夢)を極端なところまで引き出すことによって成り立っています。情報過多の社会は、本当は自分には大して必要でないものも、それがないと恥ずかしくて生きていけないくらいまで、あるいはそれがあれば自分の理想の夢が実現できるはずと思わせるまで、人の心をあおり続けます。そこでは、権威やイメージ、口コミをフル利用して価値あるものにみせて価格を吊り上げ、将来の不安をあおって必要以上の保険をかけさせて、遠い将来の収入をあてにした高額な契約に判を押させます。
多くの人々はそんなふうに情報にあおられながら今はやりの仕事や暮らしを夢見て都会にやってくるのです。でも夢を実現しても夢に破れても厳しい現実の前に妥協せざるをえず、仕方なく普通に暮らそうとします。ところがそうなったときにはもはや手遅れで、自らの時間を強制的に差し出さざるを得ず、いつまでたっても忙しくてゆとりのない状況に追い込まれていくのです。
幸運にも家庭環境に恵まれた人ならそれほど追い込まれることもないかもしれません。でも人生のスタートラインからすでに大変な境遇におかれている児童養護施設の子どもたちは、人生のリスクへの備えが手薄で、いとも簡単に追い込まれてしまうのです。
私たちには残念ながら、そんな彼らの人生のリスクに対して資金的な備えを提供する力はありません。誰かが座れば誰かが座れなくなる椅子取り競争社会のなかでそれを本当の意味で実現することは、極めて難しいことです。
でも私たちには、厳しい現実の中にも心の豊かさに触れたり、生き抜いていく力を自分のなかに再発見したりする機会を提供することならできます。里山開拓や里山ライフの体験を通じて、心の安定や自分への自信を取り戻し、仲間との思い出やふるさとを自ら作り出していくのです。もしこれから先の将来大変なことがあっても、何にもない荒れ果てたところにあれほどの楽しみを見出した体験や、いざとなれば、自分には帰れるところがあって相談できる仲間がいることを思い浮かべることができたら、人生のリスクの受け止め方は大きく違ってくると思うのです。
思うに、お金なんていうのは、自分の代わりの誰かに何かをやってもらうための手段にすぎません。お金を見ると誰もが豊かな暮らしの幻想を抱きますが、本当に心豊かな暮らし、心豊かな社会というのは他の誰かの力なんかで実現できるものではありません。私たちは、自然の恵みや仲間とのつながり、そして自分自身の力を生かして自ら試行錯誤していくプロセスにこそ、心豊かな暮らしや社会の価値の源泉があることに気づきました。
つまるところ、お金や仕事の幻想こそが心豊かな暮らしや社会の実現を阻んでいたのです。多くの人の心を惑わしてきたお金や仕事の幻想からいったん離れてみて、当たり前と思い込んできた生活や社会のあり方を見つめ直すこと。そこが本当に心豊かな生活や社会をつくるためのスタートラインになると考えているのです。