【修学旅行】湯けむりも 霜降り肉も 溶けし春
「ああ、コレか。テレビで旅番組視とるやんか。ええなぁ思う温泉宿があったら、冥土の土産に行ってみよか思うてな、連絡先をメモすんねん。一度も掛けたこと無いけどな。」
――卒寿も近い冬さんの指先と同じくらい皺くちゃになった新聞紙の切れ端には、サインペンで全国津々浦々の電話番号が書かれている。これだけネットが普及し、今や部屋にテレビも固定電話も置かない若者が多い世の中だが、高齢者の人口構成比の大きさからして旅番組と電話番号の需要は根強い。
「クルマ無いし、運転も出来ひんさかい、電車で行けるところがええなぁ。」「あれっ?この『0279』って、群馬?」「ああ、伊香保温泉や。やけど、大阪から電車で行くのは、もうこの歳やと無理や。」「この『0269』は、もしかして長野?」「おお、よう知っとるな、野沢温泉や。」「鬼泣く(0279)伊香保、鬼向く(0269)野沢って憶えたよ。まだ、俺がセールスだった頃はね、社員1人ひとりに携帯電話なんて貸与されなかったから、着信は個人の携帯を使って、発信はなるべく会社支給のテレホンカードで公衆電話からするように指導を受けてたなあ。」
――鬼泣くほうも、鬼向くほうも、新聞紙に書かれた折角の電話番号と宿名が二重線で取り消されている。確かに、伊香保は渋川駅から近いけれど、それまでに新大阪から高崎まで二本の新幹線を乗り継ぐのが、年寄りには応えるだろう。野沢は北陸新幹線が開業したものの、敦賀まではサンダーバードを使うわけだし、その先も飯山まで時間がかかる。その下の市外局番「0266」も候補から外されている。そうだな、中信の上諏訪温泉なら名古屋までは新幹線だから少しは短時間かとも想像したが、その先の特急しなのが長旅だ。
関西に住んで20年になるけれど、ふた昔前、営業の激務の合間、まさに忙中閑ありといった具合に「片倉館」の平日の「千人風呂」を独占できた20代の頃の経験は、実は貴重だったのかもしれない。
先の尖った妙な虫に股間を襲われる夢を見た。目覚めて、暫くして気付いたが、寝巻のポケットに爪楊枝が入っていた。その翌日、群馬県から長野県への転勤を命じられた。
入社して数年の間は、自分が職場で意外にも大学と似たような生活を反芻している事実に落胆していた。1年目はいきなり「モノを売ってこい。やり方は自由だが、ノルマは達成しろ。」と市場に放り出される。2年目くらいで過ごし方が解ってくると、企画書を工夫したり資格を目指したりし始める。しかし、3年目くらいには人事異動に苦しむ結末を迎える。是、大学とほぼ同じだ。1年目はいきなり「勉強しろ。やり方は自由だが、単位は取得しろ。」とキャンパスに放り出される。2年目くらいで過ごし方が解ってくると、専攻科目に興味を持ったり資格を目指したりし始める。しかし、3年目には次の進路や就職活動に苦しむ結末を迎える。但し、サラリーマンの場合、この周期を10回近く繰り返さなければ「卒業」則ち定年退職とはならない。その長旅ぶりに落胆していたのである。
「純粋な向学心で大学に行く奴は、ホンマに学者肌か、タダの阿呆や。勉強の中身よりも、勉強してるゆう雰囲気に酔ったらええねん。ツレとの会話の中身よりも、色んな見識を持った仲間と交わってるゆう雰囲気に酔ったらええねん。そら、卒業証書に利用価値があんねんからな。本人が納得してたら、卒業までの過ごし方はどうでもええねん。
ホンマに好きな学問やったらええで。やけど、そない好きでも無い学問を真面目にやるの、しんどいやんか。仕事もそうや。そら、『給料貰うてる以上、最低限の責任は果たす』っちゅう精神は守らなあかんで。やけど、心底没頭できるような仕事に巡り合うのは限られた人間や。やし、真面目に働いとる演技に酔ったらええねん。演じとるうちにな、役者だった筈がいつの間にか本気になる時もあったりするしな。人間、オモテとウラがあって当然やて認めてしまえば、ラクになるで。全部オモテにしようかて、無理はカラダに毒やし、自分の本性が出てまうさかいにな、却ってついつい悪人になってまうで。上手いこと働いとるフリが出来る奴ほど善人なんや。演技やと割り切ればこそ、自分のシゴトの我儘も押し殺せるし、客やら上司やら相手の我儘も聞き入れられるんとちゃうか。オトコとオンナもそうやんか。互いの我儘が出えへんようにな、愛しとるゆうフリくらいが丁度ええねん。演じとるうちにな、役者だった筈がいつの間にか本気になる時もあったりするしな。
ほんで、辛い時はなァ、軍歌聴いとったらええねん。軍歌は軍国主義の象徴やとか、やたらケチ付ける奴居るけどな、アレは当時の流行歌やねん。2~3曲流すだけで、元気が漲ってくるでェ。」
――もう48歳の私には、学問も仕事も恋愛も手遅れだけれど、冬さんの語り、その一言ひと言には救われた。時の経過と共に、盲目的に美化されがちな20代だが、当時の私はプライベートにも悩まされ続けていた。入社1年目には、春代から突然「他の人が好きになった」と嘘まで吐かれて別れを切り出される。「仕事と私のどっちが大事なの?」と問うてくる女性が本当に存在するのだと知る。口にこそ出さなかったけれど「オレは君のように恵まれた家庭で育った人間と違うんだよ」と心の中で呟く。明るく楽しく元気よく振る舞ってきたつもりだったが、徐々に疲れが蓄積すると性根まで腐ってきた自分に気付き、これが悲しいほど鼻に付くようになる。入社2年目には、父が他界し、それまで我が家を経済的に支援してくれていた父の血縁からの嫌がらせが続いたため、中古マンションを購入し、夜逃げ同然で母と家を出る。住宅ローンの返済だけでも精一杯なのに、生前の父の借金が次々と判明していく。その直後、入社3年目で信州への異動を拝命することとなる。
私生活が斯様な情況なものだから、役者だろうと演技だろうと形振り構わず、私は猛烈セールスマンに徹した。収入を渇望していたのである。入社4年目で何とか人には恵まれた。毎年、直属の上司が交代していたが、漸く「喋っている事がまともに理解できる人」に出会ったのだった。余談ながら振り返ってみれば、大学でも4年目にゼミを変えて良き師を見つけたのだった。
上司の指示は飲み込み易かった。「だってさぁ、ティッシュなんかでも街頭で無料で配ってる時代だよ。日本人の半分は要らないモノを売ってるし、残念ながら俺達もその部類じゃないか。その俺達がだよ、世の中に必要とされる存在として営業利益から給料を貰うためにはさぁ、『すぐやる』『必ずやる』『できるまでやる』って言う会社の号令に対して忍耐力を身に付けるしか無いよ。いや、此間ね、教育テレビの番組で数学者の――ああ、有名な人らしいけど名前は忘れた――その先生が言ってたんだよ。『国語や社会、場合によっては英語も、寝転がって本を読んでいる感覚でも習得できます。しかし数学や理科ではそうはいきません。集中して問題に取り組まなければなりません。複雑な方程式や難解な自然法則は、考えても直ぐに解決できるものではありません。則ち、理系科目というのは忍耐を必要とし、理系科目を習得しようとする者は、忍耐をも同時に習得できるのであります。忍耐というのは、努力とも違いますし、根性とも少し違います。好きな事には努力も出来ますし、根性も発揮されて当たり前です。ところが忍耐というのはなかなか養えるものではありません。』ってな。いや~、俺はさぁ、国際教養学部とかっていうヘンテコな学部を一応卒業したんだけどさぁ、嫌味とか僻みとか皮肉とかじゃなくって、心からやっぱ理系の人間は立派だなって感じたな。」
――この噺を松本の城下町のすき焼き屋で拝聴しながら、私はこの上司も立派な方だと敬意を払った。そして、その翌日から折に触れて「忍耐」を意識してみることとした。すると、どうだろう。忍耐は自ずと努力も根性をも引き連れてきた。偶然の一致だが、私は営業車の中で軍歌を流していた。窓の外に音を漏らさないという条件が付いているだけで、ミニバンが右翼の街宣車と化していたわけである。今となってはまるでお笑いだが、当時の私はそれ程までに苦しかったのである。「平和な国に生まれた無事だけでも十分満足」という当たり前を自らに敢えて言い聞かせることによって、日々の業務の辛さを克服し、士気を高めていたのである。
現実逃避と謂うけれど、現実から何処へ逃げると云うのか。現実の対義語は空想だろうけど、空想へ逃げよと云うのか。余暇にこそ哲学は生まれると謂うが、丁度良かった。今の忙殺された私には哲学の入り込む余地など皆無に等しい。空想でも哲学でも飯は食えない。食うためには現実の中で働いて藻掻くしか無い。現実からいくら逃避したとて、その逃げた先にも現実の世界しか待ってはいない。私は闘う。闘うしか術が無いのだ。闘ってみなければ、白星も黒星も付かない。黒だって星は星。負けても、土が付いても、星が付くのは闘った証。
そうやって自分を鼓舞しつつ、月月火水木金金の生活を海ならぬ山の中、しかも日本の屋根に囲まれた地で送っていた。冬のアルプスが夕焼けに染まると、本来は青い筈の山肌が茜色に変わり、元々被っている雪の斑模様と相俟って、本当に霜降り肉のように見える。その雄大な姿をあの日の松本のすき焼き肉と重ねつつ、再び私は歯を食いしばり、夜の料飲店の営業回りへと向かうのであった。
こんな調子だから、派手に売り込み過ぎて、得意先から御叱りを受けることもあった。そして、謝る時こそ「忍耐」を心に刻んだ。業務上のお詫びをする際には、とりわけ相手が無理難題を突き付けて怒り狂っている際には、お詫びに心が籠もる筈が無いし、逆に心が籠もるようでは冷静な仕事のプロとは呼べないのかもしれない。但し、それが全うすべき職責である以上、心の籠もっているような謝り方をする演技の努力は最低限のマナーだと思う。私も客の立場だとしたら、相手に「心」までは求めない。ただ本当に申し訳なさそうに謝るのが礼儀だと思う。たとえ心を籠めた「フリ」であるにせよ、その「フリ」が一生懸命であれば、とりあえず誠意は伝わる。そこまで辿り着けば、もはや「心が籠もっている」と同然ではないか。
一方、恋愛のほうは「愛しとるゆうフリくらいが丁度ええねん」という訳にはいかなかった。適度な距離感というものが20代の私には分からなかったのである。否、それは桑年の今でも分からないのだが――。
新入社員研修が終われば、全国津々浦々への配属の可能性がある中、群馬の担当となったのはまだ幸運だった。それでも東京~高崎間のたった100キロ余りの距離にさえ“隔たり”を感じた彼女は、夏も終わらぬうちに私を見事に振った。ましてや今は225キロ離れた信州での営業だ。
実は、別れた後も春代とは数ヶ月に一度くらい連絡を取り合っていた。縒りを戻せるような印象も予感もさほど無く、未練というものも無かった割に、ズルズルとした関係を引き摺っていたのだった。寧ろ、これから何度目かの春に三度目の辞令でますます東京と離れ、中途半端なまま会わなくなっていく予感がすらした。・・・色々考えた挙句、靴も、ザックも、そもそも登ろうとしている山も違い過ぎる二人の今後を考え、ケジメというか何というか、あまりドロドロしないうちに私はきちんと「さようなら」を言いたくなって電話をした。彼女の胸の内を探るほど私も野暮じゃないし、私の「やり直そう」に期待するほど彼女も野暮じゃない。
こっちは月月火水木金金の日々だけど、向こうは土日どころか平日の有給休暇までたんまり消化できるご身分。それなのに、携帯電話というのは便利な悪魔だ。着信表示に架電者の名前が表示されてしまうから、この電話を拒む彼女の意地悪や屈折した心境が呼出音と共に跳ね返ってきて、痛い。1週間が過ぎ、再び土日を迎える。また出ない。そうだな、これを未練と呼ばずして何と呼ぶのか。しつこいな。電話に出ないというのが彼女にとっての「さようなら」なのだ。私が愚かで浅はかだった。と諦めていた3週間目、私のディスプレイに春代の文字が光ってしまう。
「私、今、一人暮らしをしてるのよ。うん、勤務先は変わらないし、転勤も無いし、実家からも通勤できるんだけどね、やってみたかったの、一人暮らし。うん、まあ会社は休んでいないよ、不思議とね。薬が効いているんだと思う。うん、会社には鬱病のことは隠してる。だって、普通だもん。私の職場の周囲にいる人達のほうがよっぽど病的よ。」
約束の30分も前に到着したが、すでに彼女は駅の改札まで迎えに来てくれていた。
「お茶は淹れるけど、お酒ならコンビニに行かないと無いわ。」「ああ、今日は、お酒は止めておくわ。ありがとう。」10分も歩かないうちに彼女の部屋へ通され、座布団に胡坐をかく私。「意外とオンボロアパートでビックリしたでしょ。テレビもラジオも置いてないの。新聞もとってない。ホントは携帯電話だって捨てたいくらいなの。でも、この電話のおかげであなたに逢えたんだけどね。ここにあるのは本と蒲団と冷蔵庫だけ。洗濯は近所のコインランドリーを使ってる。」
――未だに勉強家であり読書家のようだ。文系でもこのレベルに達すると「忍耐」を要するだろう哲学書がアルプスの如く堆く積んである。
もっと互いに近況なんかを報告し合うものかと目算していたけれど、10分も経たないうちに会話が途切れてしまう。その沈黙に耐えかねてか、「やっぱ、ちょっとお酒、買ってくるね」と彼女は外へ飛び出していく。座布団の真ん中に残された私は、退屈凌ぎに部屋を見渡すだけ。カーテンを彩る花筏の柄が私の心の乱れを映しているようで泣きたくなる。
10分後、戻ってきた春代の手提げ袋に入っていたのは酒では無く、コンドームであった。私は聊か動揺したものの「このお酒、どこに蓋があるの?」と恍けながら箱を開く。それを待っていたかのように彼女は服を脱ぎ始める。
「オンボロアパートだから、激しいと床が抜けるよ。」「久しぶりだから、優しくしてね。」「まあ、オンナの子みたいなこと言うのねえ。ところで、あなたは友達なのかしら、恋人なのかしら、他人なのかしら。」「夫婦で無いことは確かだな。」「夫婦はゴム使わないってこと?」「いや、夫婦もゴム使う場合はあるんじゃないかなあ。」「ゴム使ってまでセックスしたいほど熱ければ、その瞬間だけ二人は恋人よ。」「すっ、凄いなあ、一度シェイクしたシャンパンみたいに吹いてますよ、奥さん。」「やだっ、お隣の奥さんにも同じこと囁いてるんじゃないの。」「ボっ、ボク達の関係は不倫なんですか。」「いいから仰向けになりなさい。今度は私の攻撃よ。」「5回ウラ終了後のグラウンド整備まで身が持ちますかね?」
――笑い過ぎて、互いの腹の肉と肉が吸い付いたり離れたりする。先程までの沈黙が嘘かのように、愛撫と共に会話が弾む。これが二人の最後の交わりだった。
「私、もう、男の人と付き合ったりとか、肌を触れ合わせたりとか、そういう欲求に関しては完全に枯れ切ったの。でも、あなたとだけは例外だったって、これで証明されちゃったわね。それにしても、セックス中にしか会話が弾まないのって可笑しいわね。セックスフレンドって、こんな感じなのかしら。」「セックスフレンドって、フレンドだから、やっぱり友達なのかなあ?」「バカなこと言ってないで。ほら、駅まで送っていくわ。」
春代と私は他愛も無い談笑を終えると、再び服を身に纏う。「他人に戻ろう」と宣言するかのように、それでも口では「さようなら」以外の科白を探しながら心の隙間を埋めていく。私は「さようなら」の代わりに「ありがとう」と告げて、改札口から先は後ろを振り返らなかった。10分ばかりのことだったろうか、ホームの端のほうのベンチで眼を閉じると、人目も憚らず、一度シェイクしたシャンパンみたいに涙を流していた。都会の人というのは有難い。怪我人や病人で無い限り、どんなに慟哭しても放って置いてくれる。
人生で一度っきりの本物の「カノジョ」。貴女のおかげで私はどんなに成長したことか。ほんの刹那でも「二人で生きる」という実体験を与えてくれた大切な恋人の土産なのか何なのか、その後の私は春代を失って20年以上「独りで生きる」という実体験の最中に在る。東京から凡そ450キロ離れた京都にて。
「ワシのオンボロアパートを訪ねてくるのは、市の介護関連の連中とアンタくらいのもんや。おおきに、久々に他人と会話したわ。独りで居ると何でも独りで決めなあかんやんか。他人を介することなしにやな、独りで決めたルールに従って、ずっと暮らすことになるやんか。いくら『人の振り見て我が振り直せ』ゆうてもな、人に会わへんさかい『人の振り』が分っからへんようになってまう。他者との交流を断つゆうんは、飢餓に等しいほど難儀なことなんやで。せやから、今日はおおきに。相手がオンナやったら、なおよろしいと言いたいとこやけど、贅沢は敵やったな。」
――欲しがりません勝つまでは、か。この人生、負けたか勝ったかと訊かれれば、十分に勝ったほうだとは思うけれど、もう欲しがれそうなものなんて残りの人生に無いよ。
恵美須町駅から堺筋線に乗って淡路経由で烏丸に帰ったほうが早かったけれど、大国町駅までフラフラと歩き、御堂筋線で梅田に寄った。百貨店はまだ営業中で賑わっていたが、特に欲しいものが無かったことを此処でも思い出した・・・つづく