【入学式】大学に 夢と希望を 持つ君へ(その3)
「アメリカの大学には日本ほど大規模な学園祭みたいなモノはゴザラン。」3年の時を経てゴザランが帰国した。再びこのキャンパスで法律を学ぶらしい。母国が奨学金を認めてくれたと言うから本気なのだろう。卒業したはずの私が大学に残っていることには微塵の違和感も抱かぬまま、彼は3年前と均質の調子で喋り続ける。
「その代わり、小さくても有志が手作りの催し物をやって、そこに地元住民やハイスクールの子達なんかが集まるようなことはある。それでな、難民救済のチャリティーイベントに参加してみたらサア、ステージ上でオレより上手いカンツォーネを披露しているオジサンが居たのヨ。そりゃもうお見事なテノール独唱で、気が付きゃオレは握手を求めてたわ。話を聞くと、彼は医者だったんだ。しかも『赤ひげ』みたいな風貌なもんだから、オレ、勝手に彼をパヴァロッティって名付けちゃったゼ。で、パヴァロッティはこのイベントで集まったカンパ金でアフリカの僻地へ行くって言うから、『どうかオレも連れてってくれ』って、土下座で頼み込んだんだ。土下座ってスゲーな。アレされると瞬時に相手は断り切れなくなるもんナ。アレ考えた日本人はスゲーゼ。
えっ?別に理由なんてゴザラン。困ったフリをしている奴らに助けたフリをして自己満足に浸っているよりも、ホントに困っている人を助けてみたくなったんだ。それだけ。生まれた子供の5人に1人は5歳未満で死んじまう地域なんだゼ。原因は食糧不足というよりも実はもっと深刻な伝染病と医療不足なんだ。母親がサ、夫からエイズをうつされたことを知らないままエイズの子供を産んでしまうって連鎖がそこに加わっちまう。とんでもない惨状の中をナ、おカネより尊い命を熱意だけで献身的に守ろうとする看護スタッフの生き様にも感動したけどナ、この広い世界、もっと泣かせる出来事があったんだ。
自分達だって貧しい農民暮らしだってのに、引き取り手の無い子供の面倒まで見ているっていう老夫婦が居たんだ。或る日、風邪をコジらせた子を診てほしいって、何と200キロの悪路を病院まで連れてきたもんだから、思わずパヴァロッティが『何がアナタをここまでさせるのか?』って尋ねたら『子供がいるという生活がこんなにも幸せだとは思わなかったから』って、老夫婦はサラリと答えた。その場に居る全員が涙でグチャグチャになったヨ。
献身的だなんて自覚すら無い行動に、愛情ってのは存在するんだな。子供を育てるのは、国とか会社とかの支援ではゴザラン。夫婦の経済力でもゴザラン。愛情なんだゼ。だからナ、少子化を補助金とか保育園とかで何とかしようとしている段階で、その発想から政策ミスなんだってば。愛情を念頭に置かないから『オンナは子供を産む機械じゃない』って反感も出る。だいたい少子化ってダメなのかな?同世代の競争人口が少なくなって有効求人倍率が上がれば、戦わずして良い会社に入れるんだから、受験戦争も就職戦争も停戦こそしないけど苛烈にはならネーゼ。未来の子供たちの青春期に平和が訪れるってメリットは結構デカいんじゃネーノ?年寄りが大勢集まって困り顔してると思ったら、年金制度の破綻抑制やら労働力人口の維持やら、そんなショーモナイ課題のために『産めよ殖やせよ』って流布してんだろ。せっかく『カネの問題はカネのチカラで解決します』って宣言すんだったら、その基本線に忠実な政策を考案すれば済む話サ。例えばダヨ、生活力があって子供も欲しいのに相手がいなくて結婚できないって男性、増え続けるだろうよ、これからも。そういう人に子供を育てたいっていう意志と愛情をちゃんと確認して、高いお金を納めてもらって、精子バンクに登録させるんだ。一方、そのお金で代理母を引き受けてくれる女性を募集して、産まれた子の親権を父親だけに認める。両親がお互いに顔を合わせる事は一度もナイ。けれど、その男性は確実に自分の遺伝子を受け継いだ我が子をシングルファーザーとして大切に育てるんだ。もちろん男女逆のパターンも用意する。そうやって、毎年、婚姻件数が減っても出生数を一定値に保てる制度設計をするのサ。どうせ未婚率も離婚率も上昇していくんだし、入籍した夫婦間に生まれた子供たちとの違いによって差別が起こるような心配は無いヨ。なっ、カネだけで解決しているかに見えて、今よりよっぽど人間らしい政策だゼ。それにハナから財源の確保が見込める政策だから、今より税金を無駄にもしネーゼ。そういう仕事をするのが立法府の役目だろうが。」・・・ゴザランの舌鋒鋭い持論は「少子化問題」にも展開したのだった。
遠回りをした結果、私は卒業要件を満たす単位を取得していたにもかかわらず、学費が割引となる「自主留年」という制度を利用して、大学5年生を経験していた。そこに「夢を諦めきれずに」とか「他人とは異なる道も模索したくて」とかいった美しい武勇伝は無い。私は司法試験のような難関に挑戦するつもりも無ければ、進路変更や軌道修正を試みるつもりも無い中で、ただ単純な“延長戦”の形を採ったのだった。しかし、これが混迷の時代に安定を得る基礎固めとなったのかもしれない。この遠回りで掴んだものは「大学のつまらなさに対する納得」だけではない。「譲れないし、譲るべきではない、己の生涯における価値観」平たく言えば「自分の好き嫌いや大切にしたい生き方」がハッキリと確立できたのである。そして、この「己を知る」という作業こそが就職戦争の明暗を分けるのだった。いかなるノウハウ本にも決まって「就職活動には『自己分析』が重要」と書かれているが、これは履歴書やエントリーシートを上手に仕上げるための付け焼刃ではない。一見ムダも多い大学生活の自由の中で、じっくりと時間をかけて己を熟成させる作業が『自己分析』なのである。
私は周囲より1年出遅れたが、この1年のおかげで、学生時代の悔いをその後の人生に引き摺らずに済んだ。しかも、たった1年だけ浪人した者と相違ない出遅れで――謂わば傷を最小限に食い止める形で――社会へ旅立つことが出来た。4年生の前期までに未練も単位も一切残さず全てを完了すると、そこから先は早かった。気の迷いというものが無かったし、本当に早かった。はじめから目標は分かっていたのだ。分かってはいたけれど「目標の達成手段に何を選べば本当に納得できる人生となるのか、自問しては迷ってしまい、決めきれなかった心理状態」が暫し続いた結果、1年の遠回りに及んだのである。
ウチは私を大学へ行かせるほど裕福ではなかった。否、率直に言って貧乏で困っていた。だから、ウチの生活をずっと援助してくれていた血縁には両親も私も頭が上がらなかった。親戚であるが故、いちいち目障りな存在でもあったけれど、私の遠回りに喝を入れたのは有難い愛情でもあった。一方、私の両親はというと、ひたすら私を信用してくれていた。父も母も、私に対して「どうだ、大学は楽しいか?」「マジメに勉強しているか?」といったことを一切訊かなかった。寧ろ父に至っては、悶々としている私に声を掛け、「大学なんか明日でも行けるだろ。それより今日のレースは今日しかねえぞ。」等と言って、私を競輪場に誘っていたくらいであった。そういえば昔から「競輪場も学校の1つ」というのが父の持論だった。「レース予想に真剣になれば、専門紙を隅々まで読むから、人名や地名で漢字を覚える。確率を踏まえて勝負するから算数も学べるし、出身地や卒業期でラインを組む出世競争は観るだけでも社会勉強になる。」息子に向けて無条件に無尽蔵の愛情を注ぎ続ける父の生き様もまた私にとっては十分な社会勉強だった。
そう、はじめから私の目標は「貧乏からの脱出」「親を楽にする生活」「血縁からの独立」であった。そうなると、比較的安定志向の業界で大企業の正社員になるのが、どう考えても近道だった。好きでもないのに無理と背伸びの挙句、活躍できるかどうかも担保されない法曹界や公務員を目指すより、どう考えても近道だった。ところが、大企業の正社員内定を半ば約束できるレベルの大学に居ても、一次面接にすら辿り着ける保障のないほど、時代は就職氷河期だった。そうなると、もはや学歴なんて運転免許証のようなもので、相当な芸達者か、もしくは志望動機に哲学や可能性や執念を感じさせる学生でなければ、企業は容赦なく不採用の判断を下した。薄っぺらな自己分析力では勝ち残れなかったのである。
面接まで辿り着いた学生でも「学生時代に注力したこと」「自分の得意分野や強み」をアピールするだけは無能も同然の扱いを受けることとなる。「あなたはなぜ働くのですか?」「はい、収入を得るためです」「その収入で何をしますか?」「はあ、それは生活のためで、いずれは家庭を築き・・・」「他の会社でも収入を得ることは出来ますが、なぜ当社を選んだのですか?」「御社は他社に先駆けて地球環境問題にも取り組んでいることに強い関心を持ちました」「では、あなたが地球環境問題の解決に向けて出来ることは何だと思いますか?」「はあ、それはまず、ゴミの分別をして、こまめに電気を消して・・・」「日常生活でも地球環境問題に取り組むことは出来ますが、なぜ当社を選んだのですか?」じわじわと土俵際まで追い詰められた学生は自らの企業研究の未熟さを益々露呈していく。
その点、私の遠回りは功を奏した。「自分とは何者か」について、絶対的な答えが出ないと知りつつ徹底的な究明をしようとした経験自体が、大学5年生という就職に不利な条件を克服してもなお余りある成果となって表れたようだ。それに、学生の狡猾な演技力を厳しく見破ることに長けた人事担当者の目には、私の並々ならぬ必死さと密かな頑固さといったものが物珍しく映ったらしい。「はい、小遣い3万で生活は可能と目論んでいますので、残りの全額は親への仕送りとします」「環境は大切だとは考えますが、私見を述べるほど強い関心を持っているのは、御社の別の特長です」と私は断言した。こういうことを堂々と断言できない中途半端な学生のまま、適当な会社へ適当に就職するのが嫌だったから、私は卒業を延期してまで自分に納得する遠回りの道を選んだわけである。その自信がさらに就職活動を順調に進める原動力となっていく。
目指す会社を決めるのも早かった。これは、法学部があまり好きになれず、他学部履修に積極的だった2年生の頃に、文学部の講義で懇意にしていただいた教授の影響も少なからず受けている。「キミはサラリーマンに向いていないからねえ。いや、有能なサラリーマンにはなっちゃうと思うよ。器用だから何でも出来ちゃう。けど、向いてはいない。だからねえ、大きなメーカーに入りなさい。大きければ、色んな部署に色んな仕事があるから、1つがダメでも2つめ、3つめがある。メーカーなら何かは作って売っているわけだから、自分に不可欠なモノを作っている会社であれば、嫌いになることはなかろうし、苦痛にも退屈にも耐えることが出来る。さあ、早速、生活必需品を思い浮かべてみなさい。その商品が無いと自分の人生が困るようなモノって、意外と少ないよ。見つかったら、その会社だけを狙いなさい。サラリーマンに向いていない人がサラリーマンとして長続きするには、この方法しかない。」・・・先生は私の性格とそれに似合った生き方というものを見抜かれていたのだろう。当時の仲間を見渡してみると、収入だけを魅力に感じて銀行や商社へ入った連中が今では結構苦労している。イメージだけに憧れて旅行会社や百貨店に入った連中や、刺激を求めて広告代理店やITベンチャーに入った連中はもっと苦労している。とっくに辞めてしまった奴も山ほど居るし、職を転々として自分の気持ちまで定まらない奴も居る。そんな中で、私は何だかんだと中年になり、大手製造業で勤続20年を超えた。大企業だが、超巨大グループというわけでもない規模だから、私の個性が埋没せずに済んでいる。メーカーだからといってモノを作って売るだけでなく、会社には総務も人事も経理も広報もあり、様々なポジションが用意されている。開発と営業に直接関連する任務でなくても、最前線から“外された”という概念は皆無で、むしろ間接部門のほうが昇格スピードの早い場合もある。学生時代でも「会社を動かしている組織全体のイメージ」を調べることは出来るが、当然ながら入社してしまえば徐々にでもリアルに理解していくことが出来るから、不思議なもので「自分にとって居心地の良い席」というものが次第に見つかるものなのである。私が社会人になってからも、世の中にはロクな事がない。米国同時多発テロ、リーマンショック、東日本大震災、新型コロナウイルス、それでも自分も会社も潰れずに20年以上やってこられたのだから、その土台となった大学の5年間に今では深く感謝している。
卒業式を控え、高校の時から長年お世話になったバイトも最終日が近づいていた。正社員の店長を除くと、当時からの古参といったら、バイトの美春さんと私だけになっていた。
「長年って、アナタ、十年もココに居なかったでしょ。サラリーマンになったら三十年以上も同じ目的で働き続けるのよ。うんざりする毎日だって店長が溢してるわ。
まったく、メーカーだなんて、これだけモノが溢れている時代にまだモノを創造しようって、よくもまあ因果な業界を選んだものねえ。ほら、静かな田舎で育った人は騒がしい都会の夜が寝苦しいって、アレ、逆もあるのよ。あまりに静かだと眠れないってやつ。結局どっちも、夏の暑さとか冬の寒さみたく、時間と共に慣れちゃうんだけどね。でもねェ、商売ばっかりは『時間と共に慣れちゃう問題なら放置しときましょう』とはならないのよ。そりゃ夏冬のエアコンは有難いわよ。けど、便利の追求にも限度があるっていうのに、静かだと眠れない人向けに『適度な騒音を流す枕』みたいな新商品を本気で開発しようとする。それが“企業”って所なのね。
歯磨き粉もさあ、歯茎強化系だの、口臭予防系だの、ホワイトニング系だの、どれか1本で全機能っていうの無いのかしら。もう何年か前の話だけど、ドラッグストアで笑っちゃったわよ。部屋用の芳香剤で適当なのを見つけようとしたら、トイレ用、玄関用、ダイニング用、リビング用、寝室用って、眩暈がするほど店頭に並んでいるんだけどね、『部屋用』っていうのが1つも無いのよ。仕方なしにトイレ用と玄関用以外の3つを比べてみたら、そんなに驚くほどの香りの違いは無いし、どれもまあまあってとこだったの。でね、しばらく3つを入れ替えながら使っているうちに、別の買い物でその店へ行ったら、芳香剤の種類がまた増えてるのよ。『休日の香り』『月曜の香り』『朝の香り』って、妙なシリーズが『新入荷!』とか書かれたPOPと一緒に陳列されてるの。別に朝だからお日様の香りがするとかいうこともなかったわ。そんな感じでどの商品もピンとこないまま1年くらいかけて色んな香りを試した結果、我が家の部屋に最も合った芳香剤は何だったと思う?・・・それがさあ、ウソみたいだけど『車内用』だったの。エアコンの吹き出し口とかさ、シートに染みついた汗とかさ、あのクルマ独特の臭いに抗うんだから、さぞかしインパクトの強い香りを放つんだろうって先入観があったんだけど、これが嫌味の無い柑橘系でね、やさしくて柔らかい香りがお部屋向きだし、容器が小さいから可愛いし邪魔にならないの。ドライブの時間だけに使用を限定してしまう商品名が勿体無いと感じたわ。メーカーってね、無理矢理にでも新しい需要を生もうとして、悲しいかな自分で自分を追い込んでいるのね。でも、そうやって経済を回していくんでしょ。常識を貫いて普通に生きていただけなのに、少しずつ周囲の常識が勝手に変化してて、いつの間にか自分のほうが世間では非常識な人間に属してしまっていたなんて、そんな『不変化を選択できない経済の辛さ』みたいなもんに、アナタの人生、耐えられるのかしら。
風邪薬だって、発熱系、鼻づまり系、のど痛系って、十何種類もの中から選んで下さいって言われても、その前に頭痛薬が欲しくなるくらいよ。そんな世の中だもの、大きなメーカーに勤めるんだったら、自分でモノを作るより、他人の作ったモノを売ってたほうがまだお気楽かもねェ。」
私は応えた。「いや、作るんでも、売るんでも、どっちでもいいんです。会社に訊かれたら体裁もありますから自分なりの希望は所持しているように演じますけど、ホントにどっちでもいいんです。それよりも、まあ入社して最初が肝心でしょうし、どんな部署でどんな仕事だろうと、まずはエンジン全開で突っ走って、作るんだったら、モノを作るよりも、1円でも多く給料を貰える土台を作っておきたいです。オイルが切れたらまたその時に考えますし、走っているうちに環境や立場も変わっていきますよ、たぶん。」・・・すでに私は気持ちを“組織が欲するサラリーマン”に近づけようと切り替えていたのだった。それも強引にではなく、割と自然に。これは「学生気分が抜けた」といった陳腐なものともちょっと違っていて、謂わば「勤続可能な仕事で貧乏から抜け出す」という我が人生前半における本来の目標の達成手段をようやく具体的な形で見つけたことに伴う感情の昂りだった。
実際、私は、入社早々、まるで時代を昭和に巻き戻したのではなかろうかと思うほど、猛烈な営業マンとして働いたし、働かされた。数年経ったら本社へ呼ばれ、目新しい業務に懸命になっているうちに、今度は労働組合に呼ばれて執行部入りした。専従ではなかったけれど、全国の彼方此方の事業場を飛び回るようになり、一気に視野も見識も広がった。驚くほど計画通り、否、計画なんて立派なものではないが、想像通りの展開にはなった。これぞ、大学時代の5年間の経験が活きた証ではないかと実感した。
そして、オイルが切れる頃になると、すでに両親とも他界していて、若いうちに購入した家のローンも完済してしまっていたので、稼ぐことに必死になるのを辞めた。出世して収入を得たいという欲望を捨てることについては、抵抗感が無かったというよりも、そもそも親孝行のために働いていたようなものだったので、欲望そのものが消滅していった感覚だった。モテないまま見事に婚期を逃した中年独身だったし、ある程度は貯蓄もあったので、会社自体を辞めてしまいたいとも考えたが、皮肉にもこの頃になると、もはやそう簡単に「辞める」とは言い出しづらい環境と立場に身を置いていた。会社にしがみつく根性が無くなるにつれ、逆に会社を放り出せなくなる責任が纏わり付いてくる。まさか、環境と立場の変化まで計画通り、否、想像通りに展開することになろうとは。
そんなわけで、与えられた職務には決して手を抜いていないが、かといって昔ほどエンジン全開でもないので、今は何となく過去の遺産で飯を食っているような心持だ。その「将来の自分に対して遺産となるほどの過去」とやらが、大学時代の5年間に端を発していることは間違いない。やはり大学時代というのは、その後に続く長い社会人生活を耐え抜くために“自分だけの哲学”を磨く場なのであり、勉強はその手段に過ぎない。学歴のためだけに入学した圧倒的多数の人にとっては、専門的知識を身に付けて資格試験を目指してといった青春自体が本質的に馴染まないのではなかろうか。
スポーツ推薦で入学したバリバリの体育会系に「どうして厳しい練習を積み重ねているのか?」と先生が問うたら、「金メダルを獲るためです」と即答する。しかし「何のために金メダルを獲るのか?」と問うたら、殆どの者が閉口する。「それを言えないうちは、君は試合に勝てない。心技体の心から学び直したまえ。」と先生は告げる。彼らのようなエリート中のエリートですら、まず“意識”を特訓するのだ。いわんや私の如き凡人学生をや、である。目の前の勉強に振り回されているうちに自分を見失う学生生活も悪くはないけれど、そこに介在する目的っていうやつこそが“自分”を形作る大切なものなのだと反芻しよう。至極当然のことなのに唖然とするほど忘れがちだから反芻しよう。そうせねば、卒業後に待ち構えるのは、目の前の仕事に振り回されているうちに自分を見失う社会人生活なのだから。
「ペンを動かすのは指先。指先を動かすのは脳。じゃあ、脳を動かすのは?・・・脳は自分で動かすの。脳だけは誰かに動かしてもらうんじゃなくって、常に自分で動かないとダメ。こういう矜持を忘れてしまうから、会社に動かされるだけのペンか指先になってしまうの。私みたいな学生が社会人になっても大した戦力にはならないわ。でもね、世の中に何も生み出していないということを誠実に自覚している分だけ、社会人より学生のほうが偉いのかもなあ。たとえ会社に命令されても、世の中に何かを生み出そうだなんて大それた事だけは考えないようにするわ。これが、私が自分で動かした脳の決定事項よ。」・・・卒業式を終え、共に5年生となっていた春代と私は、この学生食堂では最後となる酒の味を確かめていた。凛々しい濃紺の袴の上で、菫色に染まった矢絣の袖を私のネクタイに重ね合わせては、それを玩ぶ春代。春代の春を告げる菫の花言葉もまた「誠実」である。小学校1年生以来17年間にわたって勉強だけが趣味だった彼女が、この4月から東京で労働して対価を貰う生活に突入するのだから、不安でないはずがない。私はそっと彼女の瞼に口付けし、「大丈夫」と囁いた。が、数日後から会社のペンとなり指先となることを甘受していた私には、彼女の神々しい涙に接吻する資格など無かったのだろう。二人の関係はこの年の真夏までも持たなかった・・・つづく