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【生物】鞠蹴りし 祇園祭の 前夜祭

 「ダ~ハッハ、『ヒルカラビール』は傑作やな」・・・時は2006年、サッカーワールドカップドイツ大会が間近に迫り、コンプライアンスまっしぐらの世情なんか何処吹く風とばかり、我々は“社内トトカルチョ”の新聞作りに夢中だった。ズバリ!優勝国を当てる「単勝コース」と、ピッタリ!優勝・準優勝・3位の国を当てる「三連単コース」の2つ。1口100ポイントから何口でも投票OK。投票状況によって日々オッズを変動させる作業の段取りが決まると、いよいよカタカナ9文字以内で“馬名”を決めるのだが、これが意外と盛り上がる。酒を飲みながら、八割適当、二割真剣に決めるから面白いのだ。エクアドルは「バナナシュート」、スイスは「アルプスハイジ」、オランダは「ダッチダッチダッチ」という具合に次々と決まったところで、「オランダがダッチなら、ドイツはジャーマンか?もともとダッチと言えばドイツの意味やったのに、いつの間にかオランダに名前取られてもうたさかい」といった展開になる。そこで、偉大なるゲルマン民族に敬意を表し、ジャーマンポテトをつまみながら「ヒルカラビール」と決したのであった。
 
 昼の酒は心做しか回るのが早い。京の酷暑を吹き飛ばすべく大ジョッキを干し、2杯目からウーロンハイに切り替えると、注文のペースも心做しか早くなる。全くもって酒というのは不思議な飲み物だ。「酒三杯は身の薬」くらいのつもりだったのが、あっという間に「大酒遊芸は末の身知らず」となる。
 「酒」という漢字は形声。音符の「酉」は酒壺の象形。甲骨文、金文はこの酒壺の象形であったが、のち「水」を付し「さけ」の意味を表すようになる。酒の歴史を紐解く証拠品もまさしくこの酒壺だ。伝説に「猿酒」というものがあり、これは猿が木の洞に溜めた果実が発酵して酒となり、偶然飲んだ人間がその味を知ったとする言い伝えである。可能性は否定できない。人類は自然発生した酒を飲み、やがて原始的な器を使って果実等を貯蔵する技術を覚え、ブドウ酒のような果実酒の原形を造るようになったという。紀元前5000~4000年頃の建築と考えられるエジプトのピラミッド内から埋葬品として酒壺が発見され、壁面にはブドウ酒を仕込んでいる絵が描かれていた。その事実が「人為的に造られた最初の酒」の推測資料となっている。日本でも世界の酒の歴史と同様の流れで、果実酒を造るようになったらしい。縄文時代中期の長野県高森新道遺跡から出土した土器の内側にヤマブドウの種が付着していたと言うし、コップ状や碗型の土器も発掘されている。天照大神が天の岩屋に入られた際、八百万の神々が岩戸の前で飲んで踊って大騒ぎしたという神話はあまりに有名で、日本人は古くから実によく酒を飲んでおり、また酒に対して許容性の高い文化を築いてきたわけである。そのせいで、いや、そのおかげで、私もこんな人間になってしまった、いや、なった。
 酒壺の中で何が起きているのかというと、酸素も無いところで、酵母様がひたすら糖を分解し、エタノールを生成していらっしゃるというのだから、自ずと微生物を神様のように崇めたくなる。私はふと「世の中にはオマエたち以外にも色んな生き物がいることを頭に叩き込め」というのが口癖だった高校の生物の先生を思い出す。「目に見えない微生物を人類が発見したのは17世紀になってからなんだ。オランダのレーウェンフックが顕微鏡を使って発見したんだな。当時の顕微鏡はたった200倍だぜ。今の研究は1000倍の光学顕微鏡が一般的だが、実体を見るのは理論上2500倍が限界。それ以上は電子顕微鏡に頼らざるを得ない。即ち、実体ではなく、電子的反応によって画像化したものを観察することになる。学問として微生物学がスタートしたのは19世紀後半のパスツール以降だから、ヒトが微生物の事をちゃんと知るようになったのは、たかだか150年くらい前からの話なんだ。」と言いながら、先生は顕微鏡を通したブドウ球菌の写真を嬉しそうに見せる。「ブドウに生息しているからブドウ球菌なんじゃねえぞ。紫色だからブドウ球菌で、学名の由来もギリシャ語の葡萄だ。いいか、オランダ人のおかげで、『目に見えない』ということが必ずしも『存在しない』ということとは限らない、とオレたちはようやく気付いたわけだ。目に見えない生物の世界はな、目に見える生物の世界と同じ範囲の広さを持っていると言われてるんだ。目に見える生物はほぼ100%特定できた人類がだぞ、目に見えない微生物となると、特定できたのは全体の1%に過ぎないと言われてるんだ。僅か1グラムの土の中に何千種類もの微生物が存在するのだが、その中にすら、まだ発見できていない正体不明の生物が潜んでいる。正体不明だけど、確実に居るってことだけが判っている。とにかく小さすぎるんだ。オイオイ、誰だ?ブドウみたいに美味しそうなんて呑気なことを言ってる奴は。此奴は食中毒の常習犯なんだぜ。あっ、それで思い出したけど、腐敗と発酵の違いな。同じ腐るんでも、人間に都合よく腐れば発酵だ。ブドウ球菌だからってブドウを発酵させて葡萄酒にしてくれるわけじゃない。酒を造るのは酵母だ。酵母で大体5~8マイクロメーターっていう程度のサイズだ。ヒトの赤血球が7~8マイクロメーターだから、まあ同レベルの大きさだ。なっ、小さすぎるだろ。人間はな、大きい者よりも小さい者を研究するほうが苦手なんだ。えっ?マイクロメーターって何メートルですかって?1000分の1ミリメートルだよ!もう、オマエたちがこんなにもバカな状態のまま高校を卒業するのかと想像するだけで、オレは泣けてくるよ。
 人間が目に見える者だけに一喜一憂する如何に愚かで無知な生物かって、きっと微生物はオレたちのことを冷笑っているのさ。いいか、世の中にはオマエたち以外にも色んな生き物がいることを頭に叩き込んどけよ!」・・・先生の仰せの通り、私はバカな状態のままサラリーマンとなった。
 
 「お前、トーゴやから『トーゴヘイハチロウ』て、雑にも程があるやろ、ダ~ハッハ。やっぱりロシアに強いんやろか?」と先輩が振れば、「う~ん残念、ロシアは出場してませんわ~」と私が返す。漬物の盛り合わせを挟んだ二人は、とうとう青竹の筒にたっぷり入った冷酒に切り替え、差しつ差されつ――。平和とは尊いものである。ハナから武器など捨てて、ボールを持って争えば良いのだ。「前回大会ベスト8のセネガルを退け、初出場を手に入れたヘイハチロウ。アフリカ王者のタイトルすら無かったことを思えば、この躍進は歴史的快挙と言えるが、予選で得点王に輝いたエースの爆発力は本物!」と先輩は寸評し、デスクとして「注」の予想を入れた。
 「お前、アルゼンチンが『タンゴデマラドーナ』ってのはまだしも、メキシコが『テキーラハシユキオ』って滅茶苦茶やんけ。」と先輩が振れば、「いや~、これをストレートに『メキシカンロック』としないところがいいでしょ。しかもピッタリ9文字!」と私が返す。――今一度繰り返す。平和とは斯くあるべきである。ハナから武器など捨てて、微生物の賜物を酌み交わしていれば良いのだ。「昨年のコンフェデ杯ではブラジルを破ってセンセーションを巻き起こし、本大会の組み合わせ抽選会でも、欧州・南米以外では唯一のシード馬に選ばれるなど最近のユキオの評価は鰻上り!攻守にタレントが揃っている。」と先輩は寸評し、デスクとして「△」の予想を入れた。
 ワールドカップの決勝戦は7月9日、街が祇園祭の準備を進める前から、こんなにも素敵な“宵山”に酔い痴れることができようとは――。人間とは、微生物の力を借りながら、くだらない新聞作りに夢中になれる生物である。そして、ただ芝のコースを走って競ってボールを蹴り合う様子を観るだけでは飽き足らず、ついついそこに1口100ポイントの小さな幸せを賭けようとしてしまう生物なのである。そこにコンプライアンスという概念は皆無だ・・・つづく

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