【漢文】覇者でなし 王者でもなし みやこびと
「此間、なかなか変態な映画を観たんですよ。高校生の男の子がね、まあ思春期ど真ん中ですから、それはもう手淫に夢中なんですよ。」
すぐさま隣に座る彼の同期が茶々を入れる。「シュインってえ、朱印船か?」
「違うよ、朱印船じゃねーよ。何で思春期の男子が貿易に夢中なんだよ。いいからオマエは黙ってろ。でね、自分の手が行為の相手の役割を果たすわけですから、可能な限り『これは自分の手だ』という身体感覚を消そうと努力するんです。美女から手コキされているような臨場感を少しでも味わいたいがために、利き手でないほうの手を使ってみたり、脚の下から腕を回して握ってみたり、革の手袋を嵌めてみたり、男なら一度は聞いたことのあるような手法をひと通り試してみて、ある日、こんなどうしようもない事に真剣になっている自分が虚しくなってくるんですね。でね、色々な欲求不満が鬱積した結果、とうとう彼はペニスを触らない形で『片手殺し』を始めるんです。」
すぐさま隣に座る彼の同期が茶々を入れる。「チンチンのことペニス言う奴、初めてやわ。他には何て言うの?」
「うん、オレは如意棒って呼んでる、って、やかましいわ。でね、何を始めたかと言うと、右手を恋人役、左手を自分役にキャスティングして、左手の指で右手の掌をなぞったり、手首を掴んでみたり、互いに指を絡ませたり、AVで視たことのあるセックスシーンを再現しながら、性器を直接刺激せずして勃起させるんです。そうして疑似的に責めたり責められたりしているうちに彼は気付くわけです。相方の手、まさしく『相手』になりきって自分を殺すか、自分の手に集中して相手を殺すか、つまり、どちらかを殺さないとプレイが成立しない。自ら自分の手を殺そうとしている『自殺行為』に罪悪感を覚えるようになってくるんですね。殺すのではなく、やっぱり誰かと共存したくなるんです。毎日学校に通ってはいるけれど、性格も成績も目立たない自分には、彼女どころか友達も出来ないということに自責の念を募らせていくんです。彼女は諦めたとしても、せめて友達くらいは欲しい。」
するとまた隣に座る彼の同期が茶々を入れる。「へっ?手が友達とちゃうの。手が友と書いて『抜く』って。いや、やっぱ手は恋人かあ。」
「下らねえんだよ。でも、正解なんだわ。あれって赤毛のアンでしたっけ、水面に映った自分を空想上の友達にしていたの、あまりにも孤独を感じた彼は、あれと似た感覚で想像の翼を広げるわけですよ。でも、鏡に向かって話しかけているうちに、自分の顔の醜さがイヤになって、自己嫌悪に陥る。だから結局、鏡ではなく、自分の手で友達を作ろうとするんです。で、友達になろうって、右手と左手で握手をしようとした瞬間、右手同士でないと握手が出来ないという当たり前のことに呆然とするんです。ああ、握手こそ一人では出来ない行為なんだ。右でも左でも自分で自分の恋人は作れるけど、友達は自分独りの手では作れない。ああ、自分に右手が2本あれば!神様は必要なものしか創造されなかった。そして人間は握手という儀礼を考案した。『自慰』なんて簡単に言うけれど、ヒトは自分で自分を慰めることなんて究極的には不可能なんだ!悲しみに喪心した彼の頬をつたう涙の向こうに千手観音が現れて、エンドロールとなるんです。」
・・・隣に座る彼の同期が感想を述べる。「すっ、すげえな!なんか、ただの変態映画やないぞ、それ。それに、お前、ストーリー語るの上手いなあ。映画評論家になれるで。」「ダメダメ、映画評論家はストーリーを全部バラしちゃ失格なんだよ。」「それ、映画ちゃうやろ。お前のオナニー実体験ちゃうの?オレも左手を試したことあるで。」「クソ~、バレたか。これ、オレなんだわ~。まあ、こういうことを恥ずかしげもなく言えるようなってから、どんどん友達が出来るようになったんだけどね。」「いや、お前、すげえよ!映画監督になれるで。」・・・昨夜あれだけ飲んだのに、私は翌日も同じ居酒屋に来てしまった。メンバーは昨夜の独身寮でスーツを廊下に脱ぎ捨てたあの開発部の後輩、彼の誘った映画監督こと営業部の後輩、この二人が同期で、2つ上の総務部の私と合わせて計3名の宴であった。イカソーメンに箸を伸ばすと、イカが全部繋がっている。安いイカだから、透き通ったツルツルのボディではなく、白濁し粘着力を伴って箸から離れない。「すまん!」と断って、全てを自分の取り皿に受け入れていると、今度は開発部のほうが自分の夢枕の話を始めた。
「中学・高校・大学で今まで教室が一緒だった女の子たちが十二畳くらいの部屋に10人おるんです。オレは大学院も行ってますけど、ウチの研究室には女が居いひんかったもんで、大学までで知り合うた子ばっかりですわ。」
すぐさま隣に座る彼の同期が茶々を入れる。「オマエ、それ、今まで好きになった子を10人も並べて夢精したってオチじゃないだろうな。」
「いや、それが10人とも別に好きだった子ともちゃうし、どちらかと言えばクラスの中でも地味で目立たないタイプだった子ばっかりなんですわ。で、オレの笛に合わせて全員一斉に四方の壁際を使って逆立ちをするんです。これがねえ、壁に向かって弾みをつける普通のやり方やのうて、まず壁を背に屈んで、後ろ向きに足を付けて、その足を徐々に壁の上のほうにまで運んでいって逆立ちを完成させるんです。分かります?そう、そういうことです。普通のやり方やと壁側に背中が着きますけど、このやり方やと背中がこちら側を向くようになりますね。」
すぐさま隣に座る彼の同期が茶々を入れる。「オマエ、それ、パンツ丸見えで、背後からお触りってパターン、痴漢モノのAV視すぎだってば。」
「いやいや、スカートちゃいますよ、みんなジャージとかGパン姿ですわ。で、もう一回オレが笛を吹くと、次々とオナラの音を競い始めるんです。そう、そういうことです。特殊な方法で逆立ちをさせたのは、ケツがこっちに向いてへんと競技にならへんからやったんですわ。」
するとまた隣に座る彼の同期が今度は関西弁で茶々を入れる。「そんな競技、あるかいな!審査基準はどないなっとるんや。」
「せやから夢の話やて。そうや、審査員はオレに決まっとるやろ。『パパから貰ったクラリネットと同じや~』なんて呑気なこと言いながら、今のオナラの音は『ド』、今のは『レ』って判定していくんです。いや、ホンマは音なんかどうでもよくって、オレは順番に彼女らのお尻に鼻を近づけて、興奮しながらニオイを嗅いでいるんです。せやけど、実はホンマの興奮はこっから先ですわ。『じゃっ、今度はアナタの番よ』って、オレが一人で逆立ちをさせられてですよ、10人のオンナの鼻先がオレの尻に一斉に近づくと、もう緊張してちっともオナラが出えへんやないですか。オレの目には壁しか見えてへんのんですけど、『あれぇ、恥ずかしいのォ?』って、全てを見抜いているような微笑みの数々が眼前に浮かび上がってきて、エンドロールとなるんです。」
・・・隣に座る彼の同期が感想を述べる。「すっ、すげえな!なんか、ただの変態映画やないか!」「オレかて、朝起きたとき、『自分、相当病んどるな』って自分自身に呟いたわ。あっ、すんませ~ん、ウーロンハイおかわり!」・・・ここのウーロンハイは関西では珍しく甲類を使っている。東西問わず、ウーロンハイの美味しさが後輩たちに浸透してきたのが、何だか同志が増えたような気分で嬉しい。
ウーロンハイのジョッキを片手に開発部が続ける。「チンチンのこと如意棒言う奴、初めてやわ。すげえな、お前。」「このタイミングでツッコむか、それ。」「いやな、思い出したんやわ。オレの高校時代もな、あまりパーッとせえへんかってん。このキャラやし、友達はおってんけど、彼女はできひんわ、野球部は弱いわ、授業はつまらんわ、もう何もかも中途半端やってん。
甲子園も丸刈りの球児が汗まみれ泥まみれになって、勝っては泣き、敗けては泣き、美しく輝けるものであり続けてほしいと思うけどな、オレはもう母校が出たって応援せえへん。あのクソ高には甲子園のような聖地は似合わへん。まあ、尤も出場できるような野球部でもないけどな。高校は暗い想い出のほうが多かったせいか、中学のほうが愛校心が強いわ。普通の公立中学やけどな、オレのキラキラした青春は中学までやったのかもなあ。
大学からは野球を辞めてしもうたけど、せっかく東京の大学へ進学したんやし思うてな、神宮に行ったんや。ちゃうわ、何でヤクルトやねん。早慶戦や。もう圧倒されたわ。オレはどっちの学生でもないから、慶応ボーイに思われたくて慶応側の応援席に座ったんや。したらな、早稲田カラーに染まった向こう側のスタンドがよーく見渡せるわけや。OBも入り混じって肩組みながら『紺碧の空』の大合唱や。すると、こっちも『若き血』で応戦する。この応援合戦を観ているだけで胸が熱くなるんやけど、悲しくもなってくるんやな。『覇者』でもなければ『陸の王者』でもないウチの大学って何なんやろってな。もちろん勉強するために入学したんやけど、大学って学問だけやないやんか。人に自慢できるような魅力が1つもないんや。今でもワセダの校歌は歌えるのに、母校の校歌はすっかり忘れてしもうたわ。ワセダの校歌なんて、日本人なら誰でも一度は聞いたことあるやろ。そういうのがもう羨ましくて憎たらしくてなあ。ましてや関西の大学なんか、京大以外誰も興味ないで、東京の人は。このときオレは心に誓うたんや、東京には絶対に負けへん。まっ、そんなわけで関西企業に就職したんやわ。あっ、先輩のこととちゃいますよ。東京人のことが嫌い言うわけやないんです。」
気を遣う後輩に私も本音を吐露する。「まあ、早稲田にも慶応にも関西の人が沢山入学するからねえ。大隈重信は佐賀出身だし、福沢諭吉は大阪出身。別に早慶が東京の象徴ってわけでもないし、それだったらヤクルトの東京音頭のほうがよっぽど東京の象徴だよな。それに高校や大学への愛校心が無いのはオレも同じ。パーッとした高校生活じゃなかったし、東京の大学だけど六大学じゃなかったのも同じ。特にこれといって派手さも誇らしいものもない学校だったから、学閥が作れるようなブランドのある大学が羨ましくて憎たらしい感情も同じだってば。
でも、自分が東京出身だと、東西っていう意識は低いかも。東京へ上京する人数に比べたら、東京から上洛したオレなんか、かなりマイナーなパターンだぜ。なのに、関西の暮らしにこんなにも馴染んでいるし、『みやこびと』に負けるもんか、なんて思ってみたこともないよ。何だか上洛って義経や信長みたいな感じで気分が良いんだけど、二人とも東京出身じゃないしな。結局、東京なんて家康と薩摩のおかげで発展できた街なんだし、どうやら太田道灌も埼玉出身らしいから、江戸っ子なんて威張れるはずもねえってもんよ。
ああ、話が逸れたけど、共通点はもう1つあるわ。中学には愛着がある。オレも普通の公立中学だけど、キラキラした青春が中学に詰まっているのは同じ。でさあ、関西の甲子園中継って民放でもやってるじゃん。NHKと違って、テロップに打者の出身中学まで表示されるでしょ。あれはついつい見ちゃうね。今まで一人も卒業生を見つけたことはないけど、もし居たらその高校の校歌まで覚えて応援するだろうな。」・・・学生個人は思い切り自由で組織に染まっていないくせに、スポーツの力って凄い。バラバラだった者たちが同じ旗と歌の下に一致団結する。心からの愛校精神というのは、一見その対極にあるような個を尊重する校風から育まれるものであり、規範によって一体感を醸成するのは逆効果であることを痛感する。愛社精神にも全く同じことが当てはまるのではなかろうか。
「ホンマや、これ、全部繋がっとるわ~。一人1皿で、争いなく一致団結!」私がお詫びのしるしにあと2つ注文したイカソーメンに二人とも皿ごと箸をつける。安くても何でも烏賊は酒の肴に適している。漢字の由来を聞くと怖いけど・・・そんな雑感を打ち消すように、漢字に詳しい開発部が再び営業部に向かって話を続ける。
「あれ、何の話やったっけ?あっ、せやねん、とにかく高校の授業がつまらんかってん。やけどな、漢文だけは好きやった。あれな、『レ点』と『一二点』と『上下点』と『送り仮名』さえ付いていれば、書き下し文が無くても大体読めるやろ。」
すぐさま隣に座る彼の同期が伏線を回収する。「レ点って、あの、ドレミの『レ』って書くやつだろ?」
「アホ、もうオナラの話は終わっとるんや。レ点とかな、いくつかの法則だけ解ってしまえば、何や知らんけど、いろんな格言や故事を知ることが出来て、のめり込んでまうねんな。やけどな、漢文って日本人にとって初めての外国語やろ。あんだけ漢文にハマれたんやったら、英語にもハマれたんとちゃうかって、今は後悔しっぱなしやで。まさに『日暮レテ、途遠シ』やわ。これ一番初めに習うたやつな。レ点すら必要ない一番簡単なやつ。」・・・この男が後に米国のグループ会社の役員にまで出世するのである。やはり英語も野球も最後は根性なのだろうか。まさに「大器ハ晩成ス」。これもレ点すら必要ない一番簡単なやつだ。
「せやけどな。『塞翁馬』やら『漁夫之利』やら、教科書に載ってるのはそんなんばっかりや。唐詩はオレ、センスがないから飽きるしな。それで思ってん。なんで『西遊記』みたいなオモろいのを漢文でやらへんのやろかってな。お前の如意棒で思い出したんや。なっ、お前の如意棒もたまには人の役に立つやんか。」・・・私の愚息は誰の役に「勃つ」のだろう。パートナーが欲しいけれど、もう結婚は無理だろうな。私は結婚相談所に足繫く通っていた先輩を思い出していた。私にはあの先輩ほどの根性がない・・・つづく
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