【図工】褐色の 肌がグリーンに ワカメちゃん
いつもの癖で「わかめ饂飩、お願いします」と言ってから、昨日も饂飩だったことを思い出し「あっ、ごめんなさい、わかめ蕎麦にして下さい」と言い直す。「ハイ、わかめうどんとわかめそばですね!」「いや、わかめそば1つで…さっきのうどんは訂正。」「ああ、すみません。わかめそばと普通のかけうどんですね。」「いやいや、1回で言わなかったのが悪いんだけど、はじめに『わかめ饂飩』って注文しちゃったのが間違いで、正しくは『わかめ蕎麦』が1つだけです。」「え~っと、はじめにご注文のわかめうどんが1つでしたね。」「うっ、うん、それで結構です…。」・・・こんなふうに時折どうしても会話が嚙み合わないことがあるが、私はいつも根負けし、延いては「どうして最初から『蕎麦!』と言い切れなかったのだろう」と自身の凡ミスを後悔しては肩を落とす。食券の販売機を置いてほしいものだが、これだけ繁盛すると却って無駄な行列を誘発してしまうのだろう。ステンレスのカウンター越しに厨房へオーダーを告げ、盆と箸を手に取り、麺コーナーでお目当ての品を受け取ったら、すぐ脇のレジで会計し、席へ移動する。この伝統的な手法が効率的なのだろう。
結局、麺コーナーで出されたのは「かけ蕎麦」だったが、黙して味わう。しょうもない事で店に文句を付けるのが面倒なのだ。私の性格からして、文句を付けても後味が悪くなるだけ。だから、そっと瞳を閉じ、ありったけの想像力で三陸や鳴門の沿岸に揺れるワカメをイメージしながら、出汁と共に細長い麺を口へ流し込む。先程の噛み合わない会話とは大違いで、麺だけは歯の噛み合わせがどんなに悪くても飲み込めるどころか、箸でも千切れてしまうくらいの茹で加減だった。どうせここまで柔らかいならば饂飩にしておけば良かったと再び後悔するも、相変わらず関西にしてはやや濃い目の返しが二日酔い気味の躰に優しく浸透するのを確認すると、やはり蕎麦で良かったとしみじみ感じ、やがてワカメのことなど忘れていく。
「熱いおすえ。気ィつけ。」「ほんまやな。」と、隣の老婆二人組は顔が瓜二つ。姉妹と思われるその息ピッタリに揃った食先には、ビリジアンに波打つ光沢の食材が!――水彩画が得意だった小学校の頃の私は、写生会に出かけた公園で必ず大樹を見つけ、その葉1枚1枚を筆先の動きを変えながら画用紙いっぱい埋め尽くしたものだった。そんな時に檸檬色や藍色に混ぜ合わせて扱っていた絵の具が「ビリジアン」。なぜ「緑色」と名付けないのか、子供の私には不思議でならなかったが、パレットを様々な色で汚していくに連れ、その実体験をもって「緑」と「ビリジアン」が厳密には異なることを知っていく。ビリジアンに檸檬色を混ぜると“本来の緑色”へ変化する。さらに白を混ぜ込むと春の若草になる。そう、ビリジアンは紅白と同じように「他の色と混ぜ合わせて作ることが不可能な色」の1つなのだ。因みに、檸檬色も藍色も作ることが出来ないらしい。因みに、ワカメを湯通しすると茶色からビリジアンへ“お色直し”するのは、熱によってワカメの色素のうち赤が壊れるためらしい。因みに、ビリジアンの名はラテン語の「緑」に由来するらしい。何だ、とどのつまり「緑色」じゃないか。――麺に汁を絡ませるかの如く、子供の頃の経験に大人になってから得た豆知識を絡ませつつ、私が送る熱い視線の先には、仲良し姉妹の啜る熱い丼鉢。ん?よく見ると、丼鉢の柄は私と同じ白地に藍色の縞模様なのだが、麺の色のほうは私のそれよりも黄み掛かっているではないか。麺に喉ごしや弾力を持たせるため、グルテンにアルカリ性の梘水を加えると、小麦粉の色素がこれに反応し、それこそ檸檬色に近い中華麺独特のイエローを帯びる。そう、老婆が美味しそうにお召し上がりなのは、蕎麦でも饂飩でも無く、ラーメンだったのだ!いつから登場したのか、まさかこの大衆食堂がワカメラーメンを始めたとは――。饂飩を蕎麦に言い直したことで注文に梃子摺ってしまったという後悔、あまりの麺の柔らかさから饂飩にしておけば良かったという後悔、これらに引き続き、新メニューに気付かなかったという3つ目の後悔が脳内を襲撃する。
しかし、その後悔をすぐさま忘れさせてくれたのが、この“拉麺姉妹”の会話だった。
「アンタんとこにも届いたやろ?」「へぇ、何が?」「タオルや。」「あぁ、アレか。」「貰うといて言うんも何やけど、すぐに調べたんや。アレ、いくらや思う?3,750円やて。」「せやなあ、昔から言うやんか、葬式は四割返し、結婚式は半返し、てなあ。葬式やとしても250円足りひんなぁ。」・・・どうやら葬式ではなく結婚のほうらしい。しかし、四割返しの葬式にしても250円不足の3,750円ということは、ご祝儀袋の中身は1万円だったということになる。パーティーの会費でもあるまいし、ちょっと侘しくはないか。と、忙しく箸を操りつつ誠に余計な推測をしていると、まさに図星だった。
「わざわざ披露宴とは別に、ご近所付き合いでパーティーやなんて、そら1万くらい包むやんか。あんなもん返すんやったら、『お返しなんかええから』てぇコトバ鵜呑みにして、いっそ何もせえへんほうがまだマシやて。ヘンな話、腹探られるだけやて。ワテらには『気軽な服でどうぞ』てェ口先ばっかりで、自分はあないキレイな留袖着てなぁ、娘自慢か自分自慢か知らんけど、朝早よから美容室予約しはったんやろなあ。ふんで、お返しはあのタオルやで。カネ貯まるはずや。まあ、ええけどな。」「なんや、あのタオル、けったいな色してたなあ。緑色とも黄緑とも違うて、まるで苔で顔拭いとるみたいな。」「キャ~ハッハ、アンタ、おもろいな。人をコケにするのも大概にせんとあかんで、ホンマ。」・・・ワカメはビリジアン、タオルは苔色つまりモスグリーン、人生も色々だか緑色も色々。いずれにせよ1万円の謎だけは解けた。ご近所さんの評判は大切だ。
「お客はん、えらいすんまへんでしたねえ。慣れないバイトなもんで。良かったらどうぞ。」と店主が差し出したのは、茹でたワカメとモヤシの和え物だった。味付けは胡麻油と出汁醤油のみ。然りげ無く添えられた卸し生姜のアクセントがたまらない。常連客への持て成しとは斯くあるべきか、私の無類のワカメ好きを分かってくれている店主に自ずと頭が下がる。周囲を見渡せば、ランチのピークタイムを過ぎて空席も現れはじめたので、次の客のために急いで店を発つ必要が無くなったようである。この輝くビリジアンをつまみに、瓶ビールの1本も頼まずドケチに帰るわけにはいかない。日曜の昼下がり、1週間溜め込んだ洗濯や掃除をする予定が瞬時にして狂ってしまったが、それでも私は店主の有難き厚意に対して「倍返し」が出来たことに幸せを噛み締めていた。
帰宅すると、麦酒にホロ酔い加減となった私は、洗濯も掃除も先延ばしとし、文具を纏めている引出しの一番奥に収納していた色鉛筆の箱を開ける。30過ぎの冬休みにアップライトピアノを描いて以来の登場だから、10年ぶりの御出座しだ。いつ使うのかも分からないが、いつか使うかもしれないから、捨てるのも忍びない。それだけの理由でずっと取ってある色鉛筆だが、大人になっても十年に一度のペースで役立っているのだから、邪魔に扱うものではない。昔ながらのメタルケースの端には「4ねん1くみ」と書かれている。その「4」も油性マジックで古い番号を塗りつぶした跡のすぐ上に書き足されているから、小学3年生から使用していたものと思われる。12色セットだから、緑系統は「みどり」と「きみどり」しか無く、絵の具とは異なり「ビリジアン」は見当たらない。青系統も「あお」と「みずいろ」しか無く、赤系統も「あか」と「ももいろ」しか無く、“最大派閥”というものが形成されないバランス良き陣営である。ここに茶色や黒などが加わると、あっという間に12色、どれも欠かせないレギュラーメンバーが出揃う。こうして検めると、整列の中央部で黄色が異彩を放っている。絵の具のように色を混ぜるということが難しいが、青と交われば黄緑色、赤と交われば橙色――勿論「きいろ」とは別に、その両側を「きみどり」と「だいだいいろ」が固めているのだが、黄色の筆の背丈だけが極端に低いのは、きっと少年だった私も万能なこの選手を起用する機会が多かったからだろう。なお、次に背の低い選手は「みどり」だった。山や草花を写生する典型的な試合展開になれば、彼の得点力に頼らざるを得ない。
さすがに画用紙は持ち合わせていないので、マンションの管理会社から郵便受けに届けられていた「消防設備法定点検実施のお知らせ」の裏を用いることとする。不動産物件や学習塾のチラシは、どれも表面がツルツルしたコート紙なので筆の色が載らないし、そもそも両面印刷だ。なお、10年以上このマンションに住んでいるが、今まで一度たりともスーパーのチラシが入ったことは無い。洛中のスーパーはライバル店というものが不在の殿様商売なので、チラシどころかポイントカードすら作らない始末だ。
お題は、先程の出来事の発端だった「わかめ饂飩」――饂飩の絵というのは、これまた白黒のみで構成されるピアノの絵と同じくらい難しい。12色セットには「しろ」が無いため、元々の紙の白を残しておく技術が必要なのだ。その上で、麺に質感を出すため、肌色と黄色の筋を重ねていく。細長い紐のような麺が狭い空間の中で複雑に絡んでいるが、そのうち何本かは同じ軌道でうねっているその様子を、「くろ」のラインを一切引かずに描写する。大抵の絵において、黒は最終兵器のアクセントに過ぎず、例えば「星空の絵を描きなさい」と言われて真っ先に「くろ」を振り乱す子は、その時点で図工には向いていないから他の科目で頑張ったほうがいい。私の「くろ」の背丈も、10年前にピアノを描かなかったら、あと1センチ余り高かったはずだ。
麺を描き終えたら、その上から「つゆ」を“かける”工程に移る。正確に言うと、汁を描きながら麺を仕上げていくイメージなので、単純に茶色ばかりを多用してはならない。ここでもまずは肌色と黄色、そして慎重に茶色、それから僅かな紫を織り交ぜていく。かつては赤褐色のことを指していたからだとも云われるが、由来がどうであれ、醤油を「むらさき」と呼んだセンスは賞賛に値する。関西の薄口醬油に、目には見えない鰹と昆布の合わせ出汁までもを筆で“注いで”いく私――かけ蕎麦を食べていた2時間前よりも集中し大汗をかいている。
さて、丼鉢の真ん中だけを空白にしておいたのは、「カツオ」ではなく「ワカメ」のためである。本日の主役は“妹”のほうなのだ。本来「わかめ饂飩」に入っているようなワカメに透明感はさほど無いのだが、敢えて「きみどり」を強調したりすると、妹的なキャラクターだったワカメに妙な艶っぽさが出る。絵の具は大切に保管したところでチューブの中身が固まってしまうけれど、色鉛筆はこうして中年男が握っても小学校中学年だった時分のまま色褪せない。――完成した絵のタイトルは「ホリカワくんに食べてほしい」に決した。奇行の目立つ堀川君だが、そりゃ結局はワカメにとって永遠の恋人だもの。
色鉛筆と一緒に捨てられずにいるのが“過去の栄光”というやつである。大した値打ちのない賞でも、せっかく頂いた表彰状を破棄するというのは何となく躊躇われ、東京の自宅を引き払った際、卒業証書の類とは別にして大きな封筒に詰め込んでいた。消防点検通知の裏紙に名作を遺した達成感に浸りつつ、久しぶりにこれを開封する。昔の私のどんな才能や努力がどのように評価されたのか、賞の具体的な内容までは実物を見てみないと回想できない。
思ったより厚みのある封筒から、思った以上の枚数が出てくる。色鉛筆とは違い、すっかり色褪せていたが、表彰状というだけにどれも上等な紙質だ。「あなたの作品はゆたかな心があふれ特に立派でしたからこれを賞します」と書かれているのは「区の写生会」の「特選」だったもので、これは憶えている。特選は、多くても一校あたり一学年で一人だけに限られる枠だったはずから、それなりに誇らしかったし、ブティックの経営者に転身したあの幼馴染が一度も獲れなかったと悔しがっていた賞だったからだ。彼女は「展覧会」と言っていたが、全校生徒の作品を一斉に廊下あたりに貼ったのかもしれない。日付は「昭和五十八年六月二十四日」で当時1年生、主催である「区立小学校教育研究会図画工作部」の部長名が記されている。後援が区の教育委員会で連名になっているが、子供の私どころか大人の私でも両者の関係性や意味は咀嚼できない。このあと「昭和六十三年」則ち6年生まで6年連続でトップの座を譲っていない。計6枚の賞状を並べてみると、6年の間に図画工作部長が2年おきに3回交代している。おそらく任期2年のポジションだったのだろう。そんな誠に余計な推測をしているうちに思い出した。6作品のうち5年生の時に描いた大樹の絵は、校長先生の御眼鏡に適ったか何かがきっかけで、私が卒業後20年に亘って体育館に飾られていたのだった。校舎の全面改築を機に作者の元へ戻ってきたにもかかわらず、アイロン台なんかと共に家具と家具の隙間へ放置していた額縁入りの“名画”。返還後10年も粗末にしてきた罪を詫びるように、積もった“埃”を拭いとれば、名画が“誇り”を取り戻す。成程それは確かに、檸檬色や藍色に「ビリジアン」を混ぜ合わせては、葉1枚1枚を筆先の動きを変えながら画用紙いっぱい埋め尽くした力作だった。地元を離れてからも同窓会の会長と良好な付き合いを継続してきたからこそ、作者が現在は京都在住の会社員であることも特定できたわけである。やはりご近所さんの評判は大切なのだ。苔色のタオルを散々コケにしていた“拉麺姉妹”の会話が反芻される。
古都に引っ越した途端、蔑ろにされてきた“大樹”をようやく部屋の壁に掛け、これを自慰的に鑑賞しながら、再び賞状の確認作業に掛かる。――特選の6枚よりひと回り大きいサイズがさらに8枚。「本会主催第○○回全国学校秀作美術展に於て審査の結果優秀と認めましたのでこれを賞します」とあり、「東京美術文化協会」から8年連続で何らかの賞を受けている。最も古いのが「昭和五十六年」則ち「全国学校秀作」と称しつつ保育園児も対象で、年中4歳、年長5歳の2年間に小学校の6年間を足し、締めて8年という計算になる。これも記憶にある。毎年、受賞作は上野の東京都美術館に展示されたので、自分の作品を観に、母と出かけるのが楽しみで仕方なかった。40歳を過ぎて「わかめ蕎麦」も一発で注文できないような大人へと色褪せてしまった現在の私に、仏壇の母はさぞかし落胆しているのではないか。
驚いたのは、その他にも黄ばんだ過去の栄光がちょこちょこと出現してきたことだった。「昭和六十一年」則ち4年生の時には「防災ポスターコンクール」で「東京都総務局長」から賞を頂いたようだ。翌年、則ち5年生の時には「空き缶等散乱防止・再資源化ポスター・標語展」なるもので「東京都清掃局長」から賞を頂いたようだ。双方とも賞状の「おでこ」の部分、つまり中央上部の雲模様のところには東京都の紋章が配されている。太陽を中心に六方に光が放たれているさまは日本の中心の象徴。両側を鳳凰が向き合うのは賞状デザインの定番だ。左が雄の「鳳」、右が雌の「凰」。この番が繊細な金色の線のみで枠柄を華やかに装う。このように暫くじっと眺めていると、次第に30年以上前の光景が甦ってくる。図工の先生の計らいにより、私は学校を午後から特別に休むよう命じられ、母と一緒に都庁での表彰式へ行ったのだった。当時の都庁は、新宿ではなく有楽町、現在の東京国際フォーラムの場所に在った。なお、都庁移転前から副都心として開発されていた西新宿には、私の生まれる11年前まで淀橋浄水場が在り、私の母も、某大手家電量販店も、東京府東京市淀橋区の出身である。そして、賞状の贈呈者名こそ「東京都○○局長」だったものの、何とプレゼンターは当時の鈴木俊一都知事だった。保育園と小中高を通じ――則ち私の大学入学直後に青島幸男知事へバトンを渡すまで――4期を務めた名物知事で、都民なら知らない者は居なかった。今ならスマホのカメラ機能で何枚も撮影したことだろうに、記念写真らしきものは1枚も残っていない。が、謂わば石原慎太郎や小池百合子が私に賞状を授与し、私に握手を求めるようなものだ。子供ながらに興奮していたことは間違いない。どんな作品だったのか、「空き缶」のほうは朧気な記憶しか無いが、「防災」のほうは水害をテーマにしていたという鮮明な記憶がある。背景は宇宙。何者かの手によって巨大なバケツが傾けられ、地球へ大量の水が掛けられそうになっているところを、人類が協力して巨大な傘で防ごうとしているダイナミックなシーンを、タテの四つ切り画用紙いっぱいに演出したポスター。開いた傘の親骨と親骨の間にある「駒」の生地の緩やかな湾曲をグラデーションで表現することに無我夢中だった。
そんな自慢の傘を支える顔ぶれが世界各地の多様な人種であることを示そうと、目や髪や肌の色には全ての絵の具を使った。但し、いくら東京と雖も、当時まだまだ在留外国人の数は少なく、小学生だった私の国際感覚も「絵の中」から脱するリアル感にまでは達していなかったように振り返る。
――色鉛筆から「はだいろ」が“消えた”のは、私がサラリーマンになった2000年の出来事だった。業界団体が集まり、どのメーカーも一斉に「うすだいだいいろ」へ改名したのである。「はだいろ」が肌の色だという先入観が差別意識を助長するという考え方には賛同するにせよ、実際の橙の果皮にこんな色は存在しない。仮に果皮を“漂白”するような技術があったとしても、あの「はだいろ」にはならないだろう。つくづく名付け親のセンスを問いたくなったものだった。
ところで、表彰状の束には資格試験の認定証みたいなものも紛れていた。英検も3級止まり、珠算に至っては9級で挫折していることを踏まえると、生まれつきビジネスより芸術が肌に合うタイプだったわけで、元来サラリーマン生活に溶け込める人間ではなかったという事実を今さら突き付けられる。手元の「珠算能力検定合格証書」の裏面に記載された一覧表によると、9級というのは、例えば「見取算」では「2桁加減算を含む16字8口(10題)」という最低レベル――こんな証書をよくもまあ大事に抱えていたものだ。一方、人生において10年そこそこの一時期とは申せ、水彩画だけは他人から褒められる次元で取り組むことができたのだ。これは私の充足感や情緒を育む貴重な青春の一頁だった。
私が最後に絵で表彰を受けたのは「平成二年三月二十日」則ち中学1年生。校舎の屋上から新宿副都心を望んだ風景画が区の「学校百景」に選ばれたのだ。新しい東京都庁の落成式が執り行われたのは、この翌年の3月のことである。賞状には「絵はがきに掲載し国際交流に資するものといたします」と謳われていた。――やがて私は受験勉強に集中するようになり、絵筆を握る機会はめっきり減ったが、国際交流だけは勝手に再開する運びとなった。高校生から始めたバイトの影響で、アジア各国からの出稼ぎ労働者と仲良くなったのだ。加えて大学ではゴザランというヘンテコ留学生にも出会ったし、この東洋の島国で何かを成し遂げたいという彼らの根性には幾度となく敬服したものである。
時代が令和となり、洛中の街は外国人に溢れている。観光客のみならず、コンビニも居酒屋も店員は色々な肌の人々。その懸命な働きぶりに旧友の姿が重なり、私は心からエールを送るのだった・・・つづく
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