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【政治・経済】常識を 選べる場所に なぜ出来ぬ

 高校時代の私は「奇人」だったので、すでに「愛」と「性」と「命」の分離化傾向を感覚的に予言していた。但し「感覚的」だったので、かつ私も「奇人」だったので、当時の周囲の理解は得られなかった。
 しかし、その後、世の中は私の予言通りになっていった。「愛」と「性」がリンクしにくくなったのである。共に人生を送りたいライフパートナーとしての対象と、共に性欲を満たしたいセックスパートナーとしての対象とが、必ずしも一致しないことに時代が気付いた。と言うか、今までも気付いてはいたのだけれど、皆が何処となくタブー視してきた「本性」を遠慮なく顕出するようになったのだ。すると、「若者や夫婦のセックスレス」と「売買春や性風俗のバラエティー化」という両極に位置するような現象が同時に進行していった。性に関連した商品やサービスの種類が増えた効果だけではないが、生身の彼女が一生できなくても平気で、むしろそのほうが相手も傷付けず自分も傷付かず、童貞であることを恥じない文化が芽生えた。一方、命はと言うと、「避妊法」と「不妊治療」という両極に位置するような技術が同時に進歩した。体外受精に代理母出産で、性交をしなくても子供に恵まれるようになった。エリート同士の優生受精卵が公然と高額で売買される社会まで存在するようになった。「少子化は由々しき事態であり、日本の労働力と年金制度の破綻を招くばかりだ」と発言する人と「地球規模では人口が多過ぎるのに、これ以上の子孫を求めるのは傲慢だ」と発言する人の両方に対して、大半の国民が他人事の如く相槌を打つようになった。評論家が「もはやセックスという行為は娯楽の領域でしか残存しなくなる」と大真面目に語っても、それを不思議に感じない時代が到来したのである。
 
 「愛」と「性」と「命」が一体とならない動きが目に見える形で社会に表れてきたのだが、これを予言した当時の私は「奇人」であったと同時に「童貞」でもあった。よって、私の予言の背景には一種の「憤り」に似た感情が蠢いていたことは否めない。「愛」し合う男女が「性」交を通じて「命」を産み育むという「一体説」は、確かに性教育の通説と認められるものの、この常識だけに依拠する社会には相当な無理があるということをどうして誰も指摘しないのだろうか、という疑問がまず私の土台を形成していた。「一体説」の考え方ばかりに従うと、それは単純に異性と「愛」し合えない者の人生には「性」の楽しみも訪れず「命」も宿らないという絶望感を徒に植え付ける要因になりかねない。「愛」が成立せねば「性」も「命」も成立しない――この説、九分九厘は事実であるが故に残酷だ。残酷であるが故に老朽化する。そんな気がしてならなかったのだ。わざわざ「価値観の多様性を認める」などという教科書的な標語を用いずとも、この「一体説」が「通説」から「多数説」あるいは「有力説」くらいにまで格下げとなる日は近い将来に訪れる。否、格下げとすべきだ。同性愛者でも「愛」が成立すれば、少なくとも「性」の快楽は得られる。が、そもそも今後の人生で「愛」が成立する確率の低そうな者、平たく換言すればモテない者は、本人の性的志向とは無関係に「愛」「性」「命」の全てを初めから諦念せよ、と強迫するところが「一体説」にはあるのだ。こんな非常識の顔を持つ常識があったものか。そういった「憤り」が当時の私を席捲していたのである。
 発端や根拠がどうであれ、私の予言は面白いように的中した。「LGBTQにも婚姻と育児の権利を!」といった輝きを放つ言葉がニュースに躍り出る度、30年近く前の私に世相を見抜く力量があったことを確認し、それだけで酒の味が美味くなる。私は決して「一体説」を否定する立場ではない。これは高校時代から首尾一貫している。「常識的」な形で異性と「愛」し合えるという圧倒的多数の人は、せっかく見つけた人生のパートナーと「性」交し、新しい「命」を育みながら幸せな家庭を築いていただければ、それは大いに結構なことであるし、社会が「通説」「多数説」「有力説」に従って生きる方々に有利な税制や福利厚生を用意するように出来ていることに対しても全く異論はない。但し、これからは是非、異性にモテない人も「愛」「性」「命」の全てを享受しやすい社会へとさらに文明開化してほしいものだ、とは思っている。これも高校時代から首尾一貫している。あらゆる人の共存共栄を目指すのであれば、障害者や高齢者を対象としたバリアフリーの考え方をいずれは性愛の領域にまで拡大しても、バチは当たらないだろう。例えば、公序良俗を維持した形で「愛」と「性」を堂々と謳歌できる場所を確保したらどうか。金銭の授受を伴う性愛は不健全だと誰が決めたのだ。犯罪の介入や違法性を排除すれば、むしろ古くて新しいタイプの「お見合い」や「通い婚」や「身請け」のようなシステムが登場するチャンスになるかもしれない。無論、国営では市場が活性化しないから、民間への許認可を緩和するのだ。性風俗産業に携わる方々への偏見が、食べるために動物を殺生する方々への偏見と同じくらい「ご法度」となる社会を強く望むばかりだ。そういったことが第一歩なのだ。「命」については、例えば独身でも里親になれるほど整った現行制度をもっと積極的に宣伝し充実させたらどうか。子供は、しょうもない両親の間に不本意ながら産まれ、劣悪な環境で育てられるくらいなら、受け入れたい意欲のある人に大切にされるべきであって、そういった殊勝な親子関係がより優遇されるルールとムードを常識化してしまうのだ。私自身は政治に興味関心が薄く、参画意識も低いから、いい加減で無責任なことは百も承知なのだけど、こういった奇想天外なバリアフリーの提案を大真面目に取り上げ、実現できると確信するくらいの素養を、本当は政治家の方々に持ってほしいのだ。社会的弱者から一定数の政治家を当選させる枠組みなんかが本気で必要なのだと思う。
 
 ・・・「好きだから官能的になっちゃうって、それだけのことでしょ。良し悪しなんて誰にも判断できないわ。」春代の細い指先が私の乳輪を反時計回りに玩ぶ。その密やかなる愛撫を保ったまま、いつもの物静かな口調が耳元を刺激し始め、私をより無抵抗にする。
 「子供の頃から政治の世界って、どうも馴染めなかった。発言にわざと重みを持たせて、物事をわざとややこしくしている節が、却って安っぽくてキライなの。『○○政調会長、減税を示唆』って言われてもねえ、それで減税が決まるわけでもなければ、私の生活に潤いが出るわけでもないでしょ。いや、そういう小さなコメントまでいちいち報道されるってことが、世論形成や政権運営には必要な過程なんだってことくらい、私も分かってるのよ。でもねえ、『○○蔵相、法改正をけん制』とか『首相、所信表明で○○法案を重視する構え』とか、もうそんなのばっかりでしょ。けん制されても、構えられても、私の人生に特段の影響を与えるわけでなく、私は今日も朝ごはんを食べて、キャンパスへ行って、先生の講義を聴いて、あなたと行為に及ぶだけ。誰か偉いオジさんが何か号砲みたいのを鳴らして、アタマの良い大人たちが自分の考えをガンガン発言するわよね。で、意見がバラバラの政局になったところで、『待ってました』とばかりに徒党を組んだ末、最後は多数決となって万歳。こういう茶番劇こそ政治の奥深さだってことは理解してるんだけど、さすがにそればっかりじゃ飽きちゃうのよね。
 国民のいろんな価値観を泳がせておいて、わざと結論を急がず、問題を先送りにして、自分の立場を最大限に発揮するタイミングを窺うっていうのが、あの人達のお仕事なのね。権力闘争の趨勢を見極めながら、キーマンに根回しをして、グループを作って、徐々に支持を集めていくって、それが政治といえば政治なんだけど、ちょっと疲れない?このスタイルを頑なに継続している限り、もう私たちの生きている世界とは隔絶しちゃってる。私の望んでいる日常なんて1つも実現しない。ホントにつまらないわ、何もかも。
 10年以上、土日も休まず勉強してきたのよ。労働者になったら、少しくらいはご褒美が無いものかしら。『週休三日制』とか『定年50歳制』とか、そういうメニューも選択できることが何処の会社でも在り来りになるような、そんな労働政策を誰か本気で考えてほしいわ。」・・・好きな勉強には寝食を忘れても、嫌いな労働は寝食のために必要な最小限に止めたかった春代。迎えた4月1日を皮切りに賃金奴隷と化した私の姿にほとほと愛想が尽きることは想像できていたけれど、当時の私に彼女を引き留める術など無かった。有能な政治家でも何一つ成し遂げられないような俗世間で、ましてや無能なサラリーマンの生き様にどんな自由裁量があるというのか。大学までの生活が自由なのは、給料を貰っている生産者ではなく、学費を払っている消費者なのだから当たり前のことなのだ。
 
 それでも春代との出会いは、言うまでも無く、カネには代え難い宝物となった。予めセットになっている「愛」「性」「命」の全てを初めから諦念せよという絶望感から私を解放したのが春代であったことは間違いない。春代は「愛のあるセックスは気持ち良い」という極々当然の「常識」を確認させてくれた、私の人生において唯一の「ノーマルな彼女」だった。恋愛感情は性行為を楽しむ「十分条件」であるが「必要条件」ではない。とは申せ、昼のデートがあってこそ、夜のベッドが活き活きする。それが事実なのかどうかを確認する手段が、恋人の居ない私には無かったのだ。「一体説」という「通説」が通説たる所以を、身をもって確認することが不可能な以上、「愛」と「性」と「命」の分離化傾向についても「感覚的」に予言するしか無かったのである。春代は「愛」と「性」の一体性そのものは否定し難いという、「奇人」の感覚の前提条件となるものを立証してくれたわけだ。
 ・・・あれから20年以上の時を経た今となっては、互いの本名も知らぬまま服を脱ぎ捨てたとしても、身体的な「性」の気持ち良さに、精神的な「愛」の気持ち良さを上乗せしていく技術を身に付けている。それ相応の経験と鍛錬を重ねれば、商品化された女性との間にも「愛のあるセックス」を営む芸当が出来るようになってしまう。
 でも、春代は春代でしかない。「時計回りと思っている地球でも、南極から見れば反時計回り。私はあなたの乳首を南極から見つめているのよ。」こんな科白をさらっと吐ける女性にはもう二度と出逢うことがないだろう。彼女は「常識なんて1つとは限らない」と私に教えてくれた貴い人なのだ・・・つづく

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