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【入学式】大学に 夢と希望を 持つ君へ(その2)

 「お風呂の浴槽がね、すり鉢状になってるの。下からはライトアップが虹色に変化して、ツルツル滑って蟻地獄みたいに抜けられない中、二人果てるまで戯れ続けるの。ううん、休憩2時間じゃ、そんなに高くないらしいよ。バイト代が出たら行ってみない?」・・・そんなラブホテルが在ることにも驚いたが、尤もそれ以上に私を驚かせたのは“恥”的好奇心にすら限界を設けようとしない彼女の科白だった。「田舎では勉学に勤しむことだけに高校生活の全てを傾けてきました。生真面目が度を越してしまい自分でも困っています。」という自己紹介が最も似合う女性、それが春代だった。普段は「教科書が恋人です」といった冴えないオーラが全身から滲み出ている彼女だが、稀に、壊れた目覚まし時計の如く、音階の狂った情慾のベルをその電池が切れるまで鳴らし続けた。
 「地方の活性化が大事っていう理屈は、私自身も田舎者だし、解るわよ。でもね、たった人口千人未満の村の過疎化まで防ごうとしたり、すでに諦めたほうが得策だと思えるような限界集落を支援することに何で税金と労力を使い込むのかしら。東京に住んでる政治家と地元の有力者の結託にみんな冷めてるの。私も別にどうでも良くなっちゃった。2年生の前期くらいまでは県庁職員を目指そうとしたけど、別に地方上級公務員試験を受けるために大学へ入ったわけじゃないし、お盆に帰省してから何か吹っ切れたの。法学部生に許容される範囲内で哲学系の科目を最大限に究めてみようって決めた。両親から『実学をやりなさい』って反対されて、哲学を選ばずに法学部へ来たのに、そんな両親も不思議と何も言わなかったわ。実学を経験する中で進みたい道を見出したことが嬉しかったみたい。『法学部卒業見込み』っていう履歴書ぶら下げて、安定した収入の職に就ければ、その行き先は何処でも良いんだって。だから私、卒業しても東京で働くのよ。趣味として哲学を続けながら働くなんて、田舎じゃ変人扱いされるだけだもん。それに第一、都会って楽しいもんね。こんなに安くて美味しい居酒屋、故郷には1軒もないわ。」・・・テーブルには、ほうれん草のお浸しと紅蒲鉾と厚焼玉子が並んでいた。確かにどれも安いが、必ず注文する二人の大好物だ。私たちはこれを草の緑・蒲鉾の赤・玉子の黄に因み“信号セット”と命名し、三品を少しずつ口に運びつつウーロンハイを胃へ流し込むことを至高の喜びとしていた。
 「こういう時を刻むのが『人生を大切に扱う』ってことじゃないかしら。ねえ、例えばよ、この蒲鉾って、凄いと思わない?あんな銀色にピカピカ光ったお魚がさ、頭落として、内臓取って、身だけにして、塩と一緒にすり鉢の中で丁寧にミンチにして蒸し上げたら、さっきまで海で泳いでいたとは思えない真っ白な別物に変身するのよ。で、途中でちょっぴり食紅を混ぜれば、こんなピンクにも早変わり。実はね、私が哲学に興味を持つきっかけをくれたのって化学の先生なの。私たちの生きている世の中の分子の量っていうのは一定で、その分子の一部が偶然『私』になってたり、『テーブル』になってたり、『蒲鉾』になってたりするだけ。一定量の分子が色々な姿に組み替わって、この世の中を構成しているの。だったら、アリストテレスの定義する『実体』って何なの?って思うようになって、こんな調子で化学でも哲学でも『面白い』って受け止めちゃう私なんだから、別に法学部でも何学部でもいいかなっていう判断に至ったわけ。
 今は親の反対した気持ちが分かるわ。企業の採用面接で『学生時代に注力したことは何ですか?』って訊かれて、『カントの三批判書とヘーゲルのドイツ観念論に魅了されました』なんて答える女子学生がいたら、そりゃ、やっぱり腫れ物に触るような抵抗感を抱かれるわよね。少なくともウチの地元じゃ、天地をひっくり返したような騒ぎになった挙句、内定どころか、縁談すら来なくなるわ。田舎で娘を持つ親って、娘の幸せのために世間体を大事にするものなのよ。
 それに法学部で良かったわ。あなたに出会えたんだもの。で、この手間の掛かった蒲鉾の分子をあなたと一緒に有難く頂くのが私の幸せ。ねっ、すり身を食べたら、すり鉢にも入ってみたくなったでしょ?」
 
 彼女からこの話を聞いたのは、すでに二人の間柄が男女となった学生最後の冬のことである。だが、この二人が男女関係になった背景には、大学というものに対する価値観の合致があったものと言い切れる。法律の勉強が肌に合わない感覚を引き摺ったまま1年が経ち、2年生となった私は、まだ春代に出会う前だったが、春代と同じようなことを試していたのだったから。
 私は1年生の時に引き続き、出来るだけ興味を持てるものへ「科目を限定する」ことに取り組んでいた。そして、それと同時に2年生では「科目を限定しない」ことにも合わせて取り組んでみた。何も大学で受けられる講義は法学部のものだけでは無い。取得単位の上限は決められていたが、他学部履修は認められていた。私は文学部で「近代思想論」を、経済学部で「家族・家計論」を、社会学部で「宗教論」を学んだ。これらは法学部で自由や平等や権力について考察するにあたっても恩恵となった。そして「法学部の講義が面白くないから、他学部の講義はどうなのか実体験してみよう」という単純な発想で臨んでいたため、つまらなかったら「何だ、他学部もこんなものか」という諦めが付いたし、面白かったら儲け物だった。どちらに転んでも納得が出来たのである。また、あくまでも副次的な効果だが、「自由をいいことに、こんな狭い空間で4年も過ごしてしまって、大切な将来に向けた何らかの機会を喪失しているのではなかろうか」といった、いかにも大学生らしい妙な焦りからはほんの少しだけ解放された。毎日、毎週、毎月、法学部棟と食堂棟と時々図書館棟、この3つの建物だけを往復するのではなく、キャンパス内の様々な教室を居場所にするという行動をとるだけでも、平凡な法学部生からちょっと脱皮できたような気になって、自ずと高揚感が湧いてきたからである。
 
 振り返ってみれば、1年生は「自分に合った大学での過ごし方」というものを見極める期間だった。早いうちに「つまらない科目」を見切り、「面白いと思える科目」に神経を集中させたおかげで「時間の余裕」は獲得できた。その時間を利用したバイトも、バイト代を利用した旅行も、かけがえのない経験となった。但し2年生にもなると「ここまではサボっても大丈夫」というラインが読めたので、遊びまくった。色んな遊びをしたけれど、結局、仲間と居酒屋で飲みまくることが遊びの中心だった。「遊びも大切な学びの1つ」とか「仲間を得るのも大学生活の財産」とか、そんな弁明にいくら酔い痴れたところで、この期間に限っては今でも胸が痛くなるほど呆れた学生だった。それでも「ライン」は掴んでいたので、単位だけは殆どの科目を最高の「A」評価で順調に取り、見かけだけは成績優秀な3年生となった。
 科目の取捨選択や受講方法をどんなに工夫したところで、大学教授の話す内容の大半はやはり面白いものではなく、分かりやすいものでもないという事実を変えられるわけでは無かった。この事実からは、いくら酒を飲んでも解放されることが無かった。そこで私は「どうして大学の講義とはこんなにもつまらないのか?」というテーマについて真剣に究明しようと力の限りを尽くし、まるで教育学部の学生が手に取るような本ばかり何十冊も読み漁った。そんな、もはや法律そっちのけの勉強によって得られた答えとは、至極当たり前のものだった。大学の先生の主な仕事は「研究」であって「教育」ではないのだから、いくら学費という“木戸銭”を払っているからといっても、受け身の姿勢で落語のような講義を期待すること自体が的外れだったのだ。“教授”というのは名ばかりで、こちらが客のように待ったところで、求める「教」えを勝手に「授」けてくれる存在ではないのだ。それは教授が悪いのではなく、もともと大学というのがそのような構造を有しているのだ。
 だとしたら、社会人になるまでの橋渡しとなるような教育を、浮世離れした学者にわざわざ委ねるのではなく、“実社会のいろは”を早めに指南するような別の教育機関を設置したほうが望ましい気もする。しかし、それでは、人類の文化や科学技術の発展に貢献する役割だと一応いわれている大学の収入源が途絶えるし、学生本人にも今ひとつ箔が付かない。よって、大学という場所を「最高学府」と称し、若者を受け入れ、最低4年は“放牧”の期間とする。学生は学生で、将来の自分に役立ちそうな勉強は、はじめから大学以外の場所を頼って勝手にやるのだが、卒業の際には大学から形式的に「学士」という呼び名が付与される。一方、企業の側は、その大学がいかに狭き門なのかを本人の能力を測量する指標とする。厳密に云うとこれは過去の入試時の能力であり、また学力はあくまでも本人の能力の一部に過ぎないのであるが、そこはエントリーシートや面接でカバーしながら個性や才能や適性を見出せば足りる。必要なビジネスマナーや実務スキルは入社後の研修で叩き込めば足りる。要するに、若者という布を縛って折って、一旦どっぷりと学生気分の染液に漬け込んでおきながら、社会へ出すと同時にその学生気分を一気に抜くことで、様々な用途の色や模様に仕上げていく。この“絞り染め”の技法が、結果として多方面からのニーズを包括的かつ妥協的に満たす最大公約数なのだ。俗世間に染まらず神聖化された大学という場所をあえて社会人幹部候補生の受け皿とするのが好都合なのである。大学という共同体は、すでに学閥まで形成している経済界の要請にも応える存在となってしまっているし、今さら経済界も大学をリクルートの有効手段から外すことは出来ない。全ての当事者が割り切った構えを貫くことによって成立している社会システム、それが日本の大学なのだ。・・・実はこんな当たり前の事象であっても、齢二十の生熟れが、当該事象の理屈をきちんと咀嚼し、正確に理解し、心から納得するには、それ相応の時間と労力を要し、これで私の3年生の1年間が終わってしまっていた。
 今になって当時の私を回顧してみても、この3年生の1年間が無駄だったとは決して思わない。けれど、この1年間のせいで私はまともな就職活動をしなかった。学費を援助してくれていた血縁には当然ながら激しく怒られたが、自分が大学生であることに何となく納得感を持てないまま、気乗りしない就職活動に入ったところで、その先には納得感の持てない社会人生活が待っているに過ぎない。そうやって納得感なき人生がダラダラと長続きするような未来図が直感的に見えたのである。この点だけは先見の明があった。私は、このままロクでもない大人になっていく道程を一旦ずたずたに断ち切るためにも、「私にとっての大学の存在意義」について確認を完了しておく必要性を感じた。そして、この作業のためには卒業までに回り道をしても仕方ないと割り切ったのだが、この判断は今でも正解だったと本気で思える。
 
 大学生なんてものは、3年生になってから、ようやく自分の研究したい分野が定まるものなのである。大体、カリキュラムもそのような構成になっている。3年生から専門科目のメニューも大幅に増え、ゼミもスタートする。
 ところが周囲の同級生は違っていた・・・弁護士や国家Ⅰ種を目指す奴は、入学早々から一心不乱に受験勉強をしていた。その他の資格試験を目指す奴も含めて、大学より専門スクールへ通う日のほうが多いくらいの生活を送っていた。或いは、そういう事に興味の無い奴でも、例えば語学だけはサボらずに続けて留学したりしていた。一見何もしてなさそうな普通の奴でも、早めに企業研究や面接訓練に取り組んでいた。まだ私たちの学年は少子化が進行するやや前の世代なので、パイを争う人数がそもそも多かった。そこに加えて、景気の急降下で企業の採用人数が激減するという不運が重なった。就職氷河期の大学生には「ゆとり」など一切許されなかったのである。それは私も分かっていた。十分すぎるほど分かってはいたけれど、「目標に向かってあらゆる手段をとっていた周囲」と「あらゆる手段によって目標を定めようとしていた自分」との間には頗る大きな差があったことを自覚し、自らの意識の低さを痛感した。だが、その時はすでに3年生の春だったという次第である。
 そう、大学生とは「4年間」のつもりでやっていては務まらないのである。3年生の途中から就職活動、4年生は卒業要件を満たすための残単位の取得と卒業論文、おまけの時間で思い出づくり。そうなると、純粋に“大学生”で居られる期間はたった2年半しかないつもりで過ごさなければ、計算が狂い、手遅れになってしまうのだ。こんな当たり前のことにも、ちゃんと気付くまでに、私の場合は2年かかってしまった。2年もかかった理由は単純に私がバカだっただけのことだが、バカであるが故に、社会に出てから同じ失敗を繰り返さないよう、せめて「私にとっての大学の存在意義」を突き詰めるという作業を通じ、私がバカになった背景だけは知っておこうとしたのであった。従って、たった1年だけの回り道でその後の人生をリカバリーできたと思えば、この3年生の過ごし方は、決して負け惜しみではなく貴重な時間だった。不思議なもので、大学の根本的な“つまらなさ”に自分自身が納得できる答えに3年生で辿り着くと、何かが吹っ切れたように4年生からは専門科目が面白くなり、ゼミにも気合が入り、就職に向けた準備にも情熱を注ぐことが出来た。就職戦争は激化する一方だったが、5年生の春には希望通りの会社に内定し、さらには春代という魅力たっぷりの女性と男女の関係になれたのも、5年生まで卒業を延ばしたおかげだった。
 
 入学式は18歳の春だったが、私の人生という大きな年表の中では、22歳の卒業式に至るまで「5年間の大学生活」全てが一体となって「大人への入学式」だったと評せる。中高の6年間で私という人物の基礎はほぼ確立していたけれど、大学生活という奇妙な経験が無かったら、魚としての生き方しか知らなかったかもしれず、蒲鉾に加工しても美味しいといったモノの見方が出来なかったことだろう。
 学歴を高くして生涯年収を増やしたこと以外に「大学へ進んで良かったと感じることを挙げよ」と問われた場合、私は噓偽り無く「人間性に幅を持つ経験を積んだこと」と答える。間違っても「専門的知識を身に付けたこと」とは答えない。「勉強するために大学へ行く」のではない。それは「私は勉強好きです」と堂々と言い切れる春代のような学生の専売特許なのであって、「周囲もそうしているから自分も何となく大学に来た」という圧倒的多数の者は、まずここを勘違いしてはならない。真面目な人ほど「勉強するために大学に来たのだから」という動機付けを捨てられず、先生の謂うことを聴いて、教科書を読んで、テストを受けて、という学生生活が“常識”だと捉えがちである。勿論そのような基本ルーティンも肝心だ。しかし、それだけでは高校を7年生まで4年間延長しただけに過ぎないようなものなのである。まさにゴザランの云っていた通りで、“常識”を疑うところに「大学でしか出来ないこと」の出発点がある。だって、勉強なんて大学で無くても出来るのだから。しかも、大学卒業後も勉強を続けなければ、知識はどんどん古くなるばかりだ。専門的知識も大切なのだけど、人生を大切に扱うための“自分だけの哲学”こそ、大学のような自由空間において磨く価値があるのだ。何故そこまで断言できるかといえば、就職活動のときほど“自分だけの哲学”が身を助けたことはないと断言できるからである・・・つづく

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