自民党の政治資金疑惑と、大谷翔平と水原通訳のニュースを比べて考えたこと
野球のスーパースターの大谷翔平が、通訳の違法賭博をめぐる疑惑を告発され、大問題となっている。この数年、大谷選手の大活躍に勇気づけられてきた私たちは、何とか大谷選手のかかわりが最小限だったことが証明され、強い処罰を受けることがないように祈るばかりである。一方で、アメリカのジャーナリズムや国民が示した姿勢と、日本のそれとの違いを意識してしまう。日本では、大谷選手について飼い犬や奥さんのことばかりをマスコミが追いかけていた。少し前にはジャニーズ事務所で行われていた性的虐待が問題視されず、長年放置された。
欧米の個人主義的な考えは個人のわがままを助長するので、日本的な集団主義を維持するべきだと主張する人がいる。しかしこのような経緯を見る限り、どのような立場の人であっても個人としての責任をしっかりと問おうとする欧米の立場の方が、日本的な集団主義よりも社会の統制をしっかりと行っているように見える。日本的な集団主義は、タテ社会の序列の下位とみなした人々には過剰に厳しいが、序列の上位になった人々、あるいは時代の空気の中で影響力のある人々には過度に甘く、社会の統制を乱すことにつながっているのではないのだろうか。
日本の政治に目を向ければ、自民党の政治資金をめぐる疑惑で揺れている。以前にも聞いたことのある話がくり返されている気がする、デジャブを覚える。その変わらなさについて、分析を行いたい。
現在の自民党で影響力の強い思想のイメージを挙げるならば、「保守」や「天皇制尊重」といったところだろう。しかし、その「天皇制尊重」のあり方は特殊である。天皇制は尊重しているが、天皇そのものは尊重していないのだ。
政治学者の長谷川雄一は、「自壊する日本の原像」(『自壊する日本の構造』みすず書房、2024年所収)という論文の中で、明仁天皇の生前退位の希望を示唆するビデオメッセージに対して、一部の文化人が「天皇は宮中で祈っているだけでよい」「天皇家は続くことと祈ることに意味がある。それ以上を天皇の役割と考えるのはいかがなものか」と発言したことを指摘した。その上でそれらの発言を「「人間」天皇の国民に寄り添おうとする意思を否定し、自分たちが信奉する「抽象的な概念」としての独善的な「天皇」像や「国体」感を押しつけようとするものに他ならない」と判断している。
今回の自民党の政治資金疑惑についても、安倍元首相が不透明な政治資金の流れを規制するために、2022年4月に一旦は「キックバック」という資金集めの方法をやめる方針を決めたことが伝えられている。しかし安倍首相の死後すぐに、安倍派の幹部たちがそのキックバックを再開する方向で協議を開始したらしく、そのことについての調査が行われている。それが事実ならば、安倍派の幹部たちが、安倍元首相の個人の意向を重んじる意思がいかに軽かったがわかる。このような集団運営の方法と思想は、単なる集団主義を超えた、きわめてラディカルなものだ。天皇制において冠たる位置にある天皇も、国内最大の政治与党の総裁かつ総理大臣であった人物も、その個人の思想や意見が重んじられる要素がまったくなかった。そうであるならば、一般国民の「考え」が価値や影響力を持つことは考えられないだろう。私たちが生きている社会は、そういう社会になってしまっている。
そのような社会では、何らかの「個」を主張するのは危険ですらある。「雉も鳴かずば撃たれまい」という言葉があるように、集団の中で能力を示し、その集団の発展に貢献をした人は、それに応じた影響力を発揮することを「罪」とみなされ、その集団から懲罰的な対応を受ける危険性がある。
少し前に、マンガを原作にしたテレビドラマが好評を博した後に、何らかのトラブルがあり、その原作者が自死を遂げた事件があった。
少し前までの日本の強さを支えたのは、科学立国としての自負と実力だった。しかしその発展を支えた「科学者」たちは、その貢献にふさわしい尊敬と待遇を受けただろうか。
「勤勉さ」で日本を支えてきた一般の日本人はどうだろうか。現在受けている報いは、世界の中で低くなった賃金という結果になっていないだろうか。
このような社会で報われるために有効な戦略は、自己主張と受け取られる言動をひたすら抑え、国内の枠組み・序列の中で上位を目指すことだろう。そして自分の意志であっても、それがそうであることを隠し、自分が社会的格付けが上位の人間であり、社会に対する問題意識からの発言しているのだというカムフラージュを行って表現しなければならない。
それに適応しきった人間について、太宰治の『人間失格』では、次のように表現されている。
世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、
「世間というのは、君じゃないか」
という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。
(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)
汝は、汝個人のおそろしさ、怪奇、悪辣、古狸性、妖婆性を知れ!などと、さまざまの言葉が胸中に去来したのですが、自分は、ただ顔の汗をハンケチで拭いて、「冷汗、冷汗」と言って笑っただけでした。
けれども、その時以来、自分は、(世間とは個人じゃないか)という、思想めいたものを持つようになったのです。そうして、世間というものは、個人ではなかろうかと思いはじめてから、自分は、いままでよりは多少、自分の意志で動く事が出来るようになりました。
くり返しになるが、日本では個人の主張を個人として行っては処罰され、それを隠して、「世間」の空気に一致する格付け上位のものであるとして主張する必要がある。その際には、「自分は個人としての名誉や利益は一切求めていない」とアピールすることも、忘れてはならない。処罰するのは空気であり、具体的には目立っている人に不快感を抱いた身近な人の中の誰かである。
この社会に適応していくことの道義的な問題点は、「個人」としての責任感が失われていくことである。自分の判断を発揮することが懲罰の対象になるのだから、内心では自分の希望だったとしても、「場の空気に促されて仕方なく」だったり「格付け上位の人に強いられて仕方がなく」だったりという形にしなければならない。その自分の内心のカムフラージュを、自分でも本当に信じてしまうことがあるが、その場合には心理学的な問題の深刻度が深く、混乱しやすい。エゴが強く、自分が何を欲しいのか知っていて、その目的達成のために社会の状況を踏まえて意図的に自分の表現を調整できるエゴイストの方が、望む結果に近づける。
健全なエゴを育めない場合に、日本社会に生きている人は日本的なナルシシズムに染まりやすい。そのナルシシズムがどのようなものであるかについて、政治学者の藤田省三の言葉を引用することの一助としたい。
「日本人の精神的特徴は自己批判を知らないということである。あるのは自己愛、つまりナルシシズムだけである、と。その指摘はいまいよいよ実証されてきたと思います。その点をさらに突込んでいうと、個人としての自己愛であればエゴイズムになり、したがって自覚がありますが、日本社会の特徴は、自分の自己愛を自分が所属する集団への献身という形で表す。だから本人の自覚されたレベルでは、自分は自己犠牲を払って献身していると思っている。その献身の対象が国家であれば国家主義が生まれ、会社であれば会社人間が生まれて、それがものすごいエネルギーを発揮する。しかしこれはほんとうはナルシシズムであって、自己批判の正反対のものなのです。錯覚された自己愛、ナルシシズムの集団的変形態であって、所属集団なしに自己愛を人の前に出すほどの倫理的度胸はない。本当に奇妙な状態です。よく外国の批評家が、日本人は集団主義だというけれども、それは一応はあたっている。ただし、日本人の集団主義は、相互関係体としての集団、つまり社会を愛するというのではなくて、自分が所属している集団を極度に愛し、過剰に愛することによって自己愛を満足させているのですから、そこに根本的な自己欺瞞がある。(中略)自覚、自己批判がないわけですから、これを崩すのは容易なことではない。」
日本社会において、このような集団運営の仕方が継続されることの弊害が認識されるべきだ。そうしなければ、社会の中の「話し合い」が、現実の問題解決を目指さずに、狭い身内でより上位の格付けをえるための競争へと常に置き換わってしまう。その結果、登場人物の名前は変わっていても、全体の構造が変わらない社会や集団の有り方が反復され、現実的な課題は先送りされ続ける。
藤田が「自己批判を知らない」と言ったことは、次のような意味である。耳の痛い忠告、現実的な課題についての警告を受けたとしても、その事柄そのものについて考えることを放棄し、その忠告や警告を行っている人や組織の道徳的な問題を探し出し、ない場合にはレッテルを貼って棄却すればよい。日本的な天皇制のシステムにおいては、天皇の意思や発言でもそのように扱うことが可能である。そんなことをしておいて、自分たちは道徳的な実践を行っているというナルシシズムの幻想にひたっている。
そしてこれは自民党の政治家のような「偉い人」たちだけの問題ではない。今回の政治資金問題についても、安倍元首相がいったんはキックバックを禁止しようとしたり、現在の岸田首相がそれに厳正な対処を行おうと準備を進めているように見える。有力な集団に所属して、トップに世間への対応を押し付けて、その陰で目立たないようにしながら自分のやりたいようにしている人々の方が問題が大きい。立場の上の人たちの方が、国際的な基準や厳しい世間の目にさらされている分、隠れていない場面では、一般の人々よりもきちんとして見える。地方の小さな集団や私的な組織において、大きな公的機関では認められないような、強烈な身内に対するモラハラやパワハラが発生することは、決してまれではない。もちろんこれは、「偉い人」たちに問題がないと言っているのではない。
厳しいことであるが、日本人の一人一人が、自分の心理的な課題として日本的ナルシシズムのことを考え、健康なエゴイズムを育むという課題に取り組む必要がある。そういう個人が集まって協働することで、社会は機能するようになる。
この文章を読んでくださった人の中には、私について猛烈な怒りや反発を感じてこき下ろしたくなったり、あら探しをしたくなる人もよいだろう。その人々のために直前に書いたブルーロックについての小論(https://gendai.media/articles/-/125981?imp=0)でも引用した、絵心甚八の言葉をお伝えしたい。
「大事なのは、“敗北に何を学ぶか”だ。敗北したものは、その戦場から否定される。戦う者にとってそれ以上の絶望はない。なのに多くの凡人共は、この“絶望”を正しく刻まない。自分に才能が無く、非力だったと否定され、間違いを認めるのが怖いから、無意識に言い逃れをするんだ。それは見事に無意識に」
このような苦境にあることを脱出するために必要なのは、自分たちが苦境にあることを認めることが最初のステップである。さまざまな心理的なトリックを駆使して、日本社会が危機にあること、そしてその原因が一人一人の日本人が強烈に巻き込まれている構造的なものであるという事実に向かい合うことを、私たちは避けようとしてしまう。いかにして「この構造」を今の状況に適応するものに変えていくのかが問われるべきだ。
まずは、その場その場の一瞬の空気に過剰適応すること、即座の心理的満足を過剰に追及することをやめる必要がある。人についても集団についても、あるいは社会全体についても、長い時間軸で評価する視点をもっと重視するべきだ。その中で、一貫した責任の意識が育まれるだろう。
くれぐれも、限られた小集団の中での影響力の大きさ、格付けの高さが真偽の絶対的な判断基準だと見なす誤りに留まり続けないようにしなければならない。より普遍的な基準に照らしてどうか、現実的な課題の解決に本当に役に立つのか否かが、議論を進める際には重要である。そうでなければ、都合が悪いと感じられる指摘に出会った時に、自分に都合のよい意見に同調してくれる仲間を集めてその指摘を貶める空気を盛り上げるような振る舞いが横行してしまう。それでは論理的な思考や議論が不可能だ。論じられている事柄から話題をずらし、論点を発言者にかかわる道徳的な非難や攻撃に置き換えられることは、政治的な解決になるかもしれないが、本質的な問題を先送りすることにつながり、長期的には社会の活力を低下させる。日本的ナルシシズムの構造の中では、その非難の内容は、「格付けが高くないのに重要な問題について発言した」かもしれない。ここでは、ナルシシズムの傷つきを回避したいという心理的なニーズが、最優先されてしまっている。
基本的人権のような、一つの時代や場所に拘束されない普遍的な概念について学び、自分の個人の人格形成の中にそれを取り入れ、社会全体においても、そのような制度や仕組みが根付くように働きかけ続けるべきだ。冒頭に紹介した大谷翔平に対するアメリカのジャーナリズムの反応は、そのような努力が社会の健全さを維持するために必要だと多くの人が理解しているから、可能になっている。アメリカ人だったとしても、有名人の大金持ちが嫌がりそうなことを暴いて告発し、その結果嫌われて怒りを引き起こすようなことはしたくないだろう。個人の責任と権利を明確にする努力が必要であることが社会で理解され評価されるから、彼ら/彼女らはそうしているのである。もし日本のような空気を読むことの影響力が過剰に強い社会にいたならば、彼ら/彼女らもそのような行動を選ばないだろう。現代が変化の激しい時代だとしても、近代的な社会の枠組みを軽んじるべきではない。
今回の自民党の政治資金問題については、それが明らかになるために新聞赤旗や朝日新聞の貢献が大きかった。そのことの意義について私は、十分な敬意を払いたい。しかし一方で、現在日本の左派陣営について不満を持っていることも記しておきたい。詳細は別の機会に論じたいと考えているが、現在の左派陣営は「タテ社会の序列」を批判したりそれを逆転させようとしたりすることには熱心だが、深層にある「ナルシシズムの克服と健康な自我(エゴイズム)の獲得」という課題に取り組めていない。その結果、社会の問題についても自分の問題についても、ただ「偉い人が悪いからそうなんだ」と考えて物事を済ませる心理的なカモフラージュが横行し、別の形のナルシシズムを強めてしまっている。その結果、現行の秩序にダメージを与えることできるが、新しい近代的なルールを踏まえた社会を構築することにつながらず、別の既得権に依存する集団を生み出ししまっている可能性がある。
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